オムツをかぶった人々

MashudaBBS2003.03.04-05


オムツをかぶった人々 まとめて 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)02時15分37秒

全て言葉の問題となる。日本語で哲学ができなかった理由とパラレルとなる。だから彼らは一様に自らの貧弱さをごまかすためにいまだに他の世界では到底認知できない用語にすがる。八百長を自己弁護する自家製ドブロクに「哲学」などと大層な名称をつけるのである。


オムツをかぶった人々14 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)02時04分12秒

鈴木宏彦のデータ収集は我々のオッズ査定の妨げとなるだけであった。


オムツをかぶった人々13 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)02時01分13秒

武者野勝巳は1次情報をみているはずなのに、3次情報の視点でしか書けない。


オムツをかぶった人々12 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時59分02秒

山田史生には誰か面とむかって「アンタの記事は全くつまらない」と言ってあげるべきである。


オムツをかぶった人々11 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時57分16秒

野月浩貴は観戦記など書いている場合か?


オムツをかぶった人々10 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時56分24秒

勝又清和は引退するべきである。理由は自分の胸に聞きなさい。


オムツをかぶった人々9 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時54分22秒

島朗と青野照市が観戦記を書きたいのであれば、まず日本語学校に通うべきである。しかし対局中に記録係の横に座ってもらっては対局者に迷惑なので、観戦記というより覗き部屋とすべきであろう。


オムツをかぶった人々8 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時48分14秒

田辺忠幸は対局室に座っているだけでよい。他の記者が座っていると目障りである。特に池崎などが座っていてはマトモな将棋が期待できない。


オムツをかぶった人々 番外 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時46分04秒

今思い出したが、中田巧はあの時の連載で失敗した。そう「サバキ」と「鯖」をダジャレにした時であった。スカ太郎やバトルまで巻き添えを食ってしまった。あの頃から週間将棋は堕落のイチローとなったのかもしれない。


オムツをかぶった人々7 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時41分22秒

斎藤哲男は週間将棋でダメスというハンドル名をもっていたダジャレの天才である。スカ太郎に折衷主義のラクチンを教えた鼻毛マンである。チンとマンである為にそれ以上のことを望んではいけない。


オムツをかぶった人々6 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時35分25秒

椎名龍一は週間将棋でスカ太郎というハンドル名をもつ折衷主義者である。バカを装い棋士に取り入ることに成功した精神寄生体である。しかし折衷主義者の為にマジメに書いたモノにゴマカシがこびりついている。


オムツをかぶった人々5 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時31分53秒

加古明光は頭にかぶったオムツがすでに糞まみれである。脇からキンタマもはみでているために極めて卑猥である。


オムツをかぶった人々4 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時27分47秒

東公平はレーティング制度の将棋界への導入を真っ先に唱えた硬派である。彼の立派な点は立場をわきまえているということに尽きる。自分でオムツを頭にかぶってますと言っている所が素晴らしい。


オムツをかぶった人々3  投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時22分12秒

我々が絶賛した「男子たるモノ核アリキ」が落選した。残念である。せめて次点にいれてほしかった。やはり米長のセンスは安い。


オムツをかぶった人々2 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時14分38秒

新聞の観戦記は短いから何も書けないなどとこぼす者は嘘つきである。朝日オープンのサイトに丸山玄則が妙に長ったらしいネット用だけのオリジナル観戦記なるものを昨日掲載したが、冗長なだけであった。相変わらず三浦の寝癖ネタを病気のように反芻し、棋士から聞いた変化の羅列に終始する。挙げ句にコンピュータよりやっぱり人間ダネと老人の繰り言である。

http://www.asahi.com/shougi/open21/k-honsen22-7.html


オムツをかぶった人々 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 3月 5日(水)01時06分01秒

A級順位戦最終日の控え室で河口はまだ自分の足で立っていた。頭にオムツをかぶっている。青野が興奮気味に自分の戦いも忘れてどっかり座り検討している光景とは対照的である。河口はボケ寸前であるがまだ愚痴は語れる。陰金田虫を楽しむように聞くべきである。
阿部譲二は正直に言う。「千と千尋の神隠し」を見ても何も感じない自分がもうオシマイと思ったと。
河口俊彦も正直に言う。羽生世代の将棋に何も感じなくなったと。ところが自分はオシマイと阿部のように言えないのが河口である。我々はハッキリ言おう。河口が羽生と戦った棋譜を見ると彼はやはり商業棋士の一人である。我々にとって彼が残したもので有意義なものとはこの棋譜だけである。河口はあとはかゆいキンタマを掻いているだけとなる。書きたいことは言葉が喪失している為に書けないだけである。


観戦記考U 投稿者:凡夫  投稿日: 3月 4日(火)20時49分51秒

 前回は河口に苦言を呈した。小生は河口の著作をほぼ全て読んでいる。ここ数年は買い
もらしているものがあるかも知れないが、力富書房版からの愛読者である。当初は彼の日
誌により将棋界の雰囲気を理解した。少し踏み込んだ記述もあり、又自ら三流と称しては
いるがプロ棋士の端くれということも手伝って、他の新聞社・フリーランス系観戦記者を
断然離している様に思われた。しかるにここ数年は著作をたまたま見かけたら買う程度と
なっている。内容の旧態依然さに物足りなさを感じたのであろう。相変わらず古い時代の人間ドラマを見出そうとするが、島世代以降の若手達からはその辺は引き出しにくい。そこで、若い者は人間臭さが希薄になったと嘆く訳である。更に「十年後の将棋」等でも明らかなことであるが、島以下の将棋が強いことは認め、羽生が天下を取ることも当然と予測する。大事な点は、彼にはしかし若い世代の将棋に魅力が感じられないということ。感じられないものは書けない。そこで、羽生達はおそろしく強い、といったことを繰り返す他ない。しかし、小生を含め羽生達の出現に胸をときめかしている一部のファンには如何にも物足りない。強さの先にある、言葉で上手く言えない何ものか、例えば指し手の思想といったもの、或いは棋理研究の哲学といったようなもの、もっと分りやすく言えば、羽生、森内、佐藤、丸山、藤井、郷田、谷川らは、互いにどのような対策を講じあっているかといったことを、詰まらないに決まっている日々の様子等からではなく、棋譜から読み解いて伝えて欲しい訳である。
 研究が高度さを増している故か、棋譜が今日ほど研ぎ澄まされている時代はかつてなか
ったろう。逆にここまで究めると危険だなと感じてはいるが、いずれにせよ、こうした棋譜の真髄は芸術・思想といった観点から読み解く他ないレベルに達している。或いは、そういう風に読み解く以外面白くない、と言ってもいい。観戦記者は従って棋士に負けない鋭利な感性と深い教養と相当の棋力が求められている時代なのである。誰が何冠王等と数えている内に将棋の今日的価値は死蔵されていくことになるだろう。それはただ将棋界にとってのみでなく、大袈裟に言えば日本の知的文化の記録という点で重大な逸失である。河口に限らず、そんな因果な時代に観戦記を書いているのだという自覚を持つ者が増えれば、観戦記と雖も批評の一分野として独立した価値を持つことになると思うのだが。