MashudaBBS2003.02.07

形の美  女性の尻はなぜ美しいか 棋士の性 中原スキャンダル


形の美 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 7日(金)05時23分30秒

そこで諸君は思ったであろう。マシュダ一家ならどのような愛の話を描くのかと。ただしハブたんとヒフミンの組み合わせだけはやめてくれと。
無論、我々は羽生と加藤一二三がセックスしたりする構図や、谷川と中原が69している写真など興味ない。諸君もこのようなものに美を感じないであろう。そこでこちらが逆に尋ねてみよう。女性のふくよかな乳房や尻はなぜあれほど世界中でもてはやされているかご存じであろうか?

あれは放物線の美しさである。
その源は細胞分裂である。
諸君等が人間になるときに細胞分裂を開始する。その時にあの曲線が形成されている。我々はこの最初の美を形として記憶しているのである。
我々はこのようなものに感動する。春画よりも、このような細胞分裂を見る方が興奮するのである。
いつか見た原風景。
そこに我々はひかれる。
そして棋譜にもある形が見えるときがある。すでにあるべくしてある形であった。
美しい。その放物線を計算してもよい。だがそれでは味気ない。
どうしたらそれが人間の手によって現実に見えるようになるのだろう。
それを期待すればするほど興奮するのであった。


棋士の性に喜ぶ日本人 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 7日(金)04時43分53秒

棋士の対局風景を初めて見る者には将棋をまったく知らなければ謎だらけであろう。ピアノという楽器を見たことのなかった日本人が、始めてピアノ演奏を聞いた時でもこのような感慨はもたなかったであろう。始めて茶道を見るものでも、これほど不思議には思わないであろう。ところが棋士も人間なのでセックスを楽しむ。そこで人々は安心するのである。自分が理解する次元にはめ込んでしまえば、あの神のごとき中原でも友達のように身近に感じられるのである。セックスという次元にあてはめるとおよそすべての人間が理解できる。ゲーテは文豪として神のごとき存在であると日本人は思っていた。鴎外以後も手塚などがそのように吹聴したのである。鴎外の訳は素晴らしく、彼の使用した原書の書き込みにも的確な解釈が偲ばれる。相当な思い入れがあったわけである。ところが戦後ゲーテの収集したポルノグラフィーが公開された。遺族が隠し持っていたものである。それはあの有名なイタリア紀行の際に数度にわたって買いあさってきたものである。まあ、オマンコのエッチングの類である。日本では春画という。手塚など無視したものである。しかしこのようなもので驚くようでは子供であろう。原ファウストの第二部では魔女のオマンコ話が卑猥な言葉でオンパレードである。あまりに卑猥なので普通は翻訳されない。サドの翻訳もそうであった。澁澤は東大仏文科の劣等生であったが、この手のモノが大好きであった。全部訳したかった。しかし手抜きされたということである。誤訳をごまかすためにわざと翻訳できないようなものを選んだのは賢明であろう。戦後の日本人はこのような話に飢えている。始めて外国に行く日本人は男性ならかならずポルノショップへ行く。女性なら声を掛けられるまで歩き回る。抑圧された国民である。そして最もストイックな職業が棋士なのであった。男女の色事がそこまで面白いとは純情な国民性である。欧米ならば、中原と林葉のスキャンダルなどは文学の題材としては当たり前過ぎて使えない。ショパンがメロメロになったジョルジェ・サンドやニーチェが狂ったルー・ザローメの色事話など誰も見向きもしない。このような悲恋が好きな者は知的に解放され性的に抑圧された日本人に多い。性に関していえば、羽生と加藤一二三がホモだったというくらいの話でないと彼らは興奮しないのである。


中原スキャンダルのこと 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 7日(金)03時31分54秒

中原は王子のような扱いで名人となり名人位を維持してきた。学生時代に皇太子がカレーライスをこっそり友人と食べに行っただけで全国の話題となるくらいの日本である。名人の愛人スキャンダルは比較しようもない。しかも週刊誌のスッパヌキに中原はほとんど抵抗しなかった。林葉もそれで呆れて最初は諦めた。しかし金がなくなった時の才女は恐ろしい。あれほど才気あふれた女性が、他業種で自立することは困難である。そして中原にはまとまった金が用意できなかった。それだけのことなのだが、なにせ日本という国はこれだけ豊かな国でありながら現代的な悪女というヒーローに欠乏していた。将棋ファンならば林葉がいかに天才的な少女であったかご存じであろう。その将棋の発想は女流という枠では稀に見る奇才である。女流棋士界では他に対抗馬が居ないので好き放題指せたのである。しかし世間一般はあのスキャンダル発覚以来そんなことはすっかり忘れている。実はカルメンやルルのような典型的な悪女像に国民は飢えていたのである。サッチーこと野村サチヨも悪女の典型としてクローズアップされた。あのババアでさえそうなのだから、林葉が多少くたびれていてもまだ国民の悪女願望はくすぐれた。だから落ちぶれてしまっては困る。むろん中原も落ちぶれてしまっては悲劇のヒーローにはなり得ない。悲劇の英雄願望と悪女願望を持つ健全な国民が彼らをなんとか奮い立たせようとしてバッシングするのである。戦後の日本はあまりに飼い慣らされてしまい、典型的な悪のヒーロー像に飢えているのである。欧米の名だたる悪人に匹敵する者は、中原であり林葉であってほしいと願うのは日本人の健全なコンプレックスである。


棋士の生活は貧しいが 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 7日(金)03時00分05秒

諸君等は中原誠の家を見たことがあるであろうか。背後にでっかくそびえる長門夫妻の家に比べればウサギ小屋のようなものである。これが天下をとり続けた名人の家かと同情する者もいるであろう。有名人でもかたや芸能人、かたや棋士ではこうも違うものなのかと呆れてしまうであろう。ましてや中原以下の棋士の生活など想像することも申し訳ないものであろう。中原誠が愛人だった林葉直子に使った金は手切れ金も入れて総額で一千万円である。それきしの金しか自由に使えなかったのである。最高の収入を誇る羽生など自分の稼ぎさえ使う暇がない。トップはトップで自転車操業を営む自営業者と同じ生活境遇である。すべて女房に取られヘソクリされてしまうであろう。別れるときにはすべて渡すことになる。裸で家を追い出されるということである。ビートたけしはその決意をしていた。財産全部やるから離婚してくれと。そう頼んでも女房が許さなかった。女房も名のあるダンナが金より好きだということであろう。
中原とて一千万程度の金で四苦八苦したのである。中原と全国を沸かせる死闘を演じた米長などフリークラスに行ったおかげで自分のこずかいさえない。彼らを支えてきたのは棋士としての誇りである。それは棋譜に凝縮されている。その確信があれば、曇っても宝石で居られるのである。


心の貧しい者 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 7日(金)02時19分29秒

諸君等はバイキング式の宴会というものを何度も経験しているであろう。様々な皿に料理がある。そして宴会が終わる頃には料理は余る。この料理は人間の食い物である。決して粗末にしてはならない。会費を出した者は弁当箱に入れて持ち帰りたいであろう。そのようにすればよい。招待された者はそこまでしてはならない。それが礼儀である。ところが最初から弁当箱に入ったモノを出される場合がある。酒瓶に入った酒も料理の一部である。この酒を一滴も飲まずにそのまま持ち帰る客人が日本人には居る。しかもその酒の値段を招待主がわざわざ客人に教える場合がある。この場合二通りのケースがある。この酒瓶は何らかの謝礼代わりであるか、客人が礼儀知らずかのどちらかである。さて、米長邦雄も三万円の酒をもらってきた。彼の場合どちらであろうか?彼はこのことをわざわざ書いて公開している。自分が礼儀知らずの客人であることを自分で吹聴する者はただのお調子者である。彼は天才である。決してそのようなヘマはしない。彼はこの酒を用意した招待者にアテつけたのである。ろくに謝礼も払わずにこの宴会でごまかす気かと。ならばこの酒を持ち帰る。とまあこのようなわけである。それでわざわざ3万円と酒の値段を記す。招待先でどのような歓待を受けたか逐一メニューを書く。それを読んだ次の招待主はならば最低限その程度は用意しなくては失礼と思うわけである。諸君はどちらが心の貧しい日本人だと思ったであろう?
心の貧しい者は招待する者たちである。仮にも天下の米長を招待するからには、それ相応の謝礼を包むべきである。彼がこのようなことを自ら述べねばならないほど冷遇した証しである。接待費ですべて清算しようとするから、有能な才能がよじれ曲がるのである。