MashudaBBS2003.02.05

12の本の話


本の話12 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)02時34分41秒

結局日本ではまともな本がつくれないと気がついた者は賢明である。日本語で書かれてあるだけでどこにも相手にされない。そこで蓮実はあきらめて東大の学長になり、渡邊守章は放送大学の副学長になって堅気となる。蓮実はあいかわらずのミミズ文でごまかしていたが、渡邊はまともである。せこい舞台など創るのはもうやめて教育に専念した。彼は教育映像を集めるために金を惜しまなかった。結局、本はテレビに負けたということである。放送大学は辛辣に現在の大学を批判している。こうなると一流教授がテレビで講義して、資料もふんだんに映像となって整理されてしまう。二流の教授は立つ教壇がないであろう。このようになってしまっては大学の集客能力は一段と下がってしまう。あのNHKにはなんとかならないものかと思っている諸君もいるであろう。将棋界をみてごらんなさい。NHK杯戦などクズ扱いである。名人や竜王に比べればNHK杯などビールを飲むときにしか役に立たないと誰もが言っている。その通りである。しかしよく見れば、棋士最高の名人位を昨年奪取した森内は、同年NHK杯も奪取してしまった。しかもNHK将棋講座の講師を自ら担当し、教育方面でもあの危ない顔を広めたのである。


本の話11 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)02時14分51秒

我々が相転移論をまとめ始めていた頃、言葉と物という本がフランスででた。ホモのフーコーが言語の四辺形について考察したのである。矛盾だらけであった。話にならない。彼自身もあれは八百長と知っていた。デリダはまだまともだ。彼らは古典的弁証法の不可解な部分を解き明かす語彙がもともと西洋文字にないことは知っていたはずである。まあ名人がわざとやったポカに観衆が気がつかないのと同じである。批判できる者さえいないのでは、プロの芸に騙されたということである。日本では吉本など読んでいる学生が鼻歌を歌っていた頃だろう。外国語はおろか、音楽さえまったくわからない吉本の浪花節に酔いしれているのが日本人である。トッチャン坊やの浅田アメが受けるのも当然であろう。このような二番煎じのお茶を飲んでいるより、将棋の棋譜を並べた方がはるかに有意義であろうかと思う。


本の話10 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)01時56分32秒

脱線してしまった。脱線ついでにアイツラの悪行を話そう。マシュダ一家のサイトは昨年夏まで検索エンジンに絶対に載せてもらえなかった。昨年マシュダが駒音や米長の掲示板に乗り込むまでどこの検索エンジンにも掲載されなかったのである。理由は簡単である。意図的な苦情メールがYahooを始め方々に送られたからである。マシュダが外に放浪を始めたときは、マシュダ一家のメールボックスは連日ウィルスやイタヅラメールの嵐であった。誰がこのようなことをするのか。彼が理由もなく好き嫌いで誰かの誹謗中傷をしたことは一度もなかった。ただ事実を踏まえた正論を述べただけであった。しかも克明にその理由まで記していた。
しかし人間は愚かな生き物である。今は静かな時を我々も楽しむようになった。我々は怒ると魂さえも殺すことがある。


本の話9 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)01時42分01秒

マシュダのハンドル名が出た頃、誰が書いているのかをめぐって騒然となった。それに便乗して共同や駒音のバカどもが秘密諜報員を気取り始める。駒音などは自分たちがマシュダなどと思わせるようにわざわざMなどというハンドル名を使っていた。マシュダ一家がMに捧げる論説を発表したからそれを真似したのである。マシュダ一家にとってはいかにもまぎわらしくてハタ迷惑であった。あの駄文はマリオと書けばよい。米長陣営もさも自分がマシュダ一家の構成員であるかのように粉飾していたことがあったが、マシュダが乗り込むと一斉に沈黙した。しかし米長は腐っても鯛である。便乗するバカどもは救いようがないが、記者も武者野も顔が知れている。反省も後悔もないのは読売の記者と同じであろう。コイツラの顔をテレビで見ると反吐が出る。谷川があのクソどもと交友があると聞くだけでも胸クソ悪い。


本の話8 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)01時20分29秒

よく考えてみれば研究者も究極となれば泥棒行為を強いられる。その最たるものがCIAであり、旧KGBであった。あそこの研究者は国家のための分析を仕事にしている。だから研究書は極秘となる。プーチンはドイツではKGB一員であったが、その後ロシアの大統領になった。筋金入りの情報通である。どのように原資料を探せるかよく知っている。今まで自分がやってきたことを今度は人に指示するだけであるから最強の大統領である。日本は大学ばかりか政治まで孫引き専門であるから、彼らの手にかかればイチコロであろう。


本の話7 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)01時09分58秒

探偵稼業も犯罪すれすれの時がある。世界中の公文書館をめぐると、そこにさえ資料が発見できないということがよくあるからである。資料があることはわかっていてもどこにもない。そう。このようなものは個人所蔵されているものである。この場合はまさしく私立探偵顔負けの秘術を尽くす。あの手この手で持ち主にせまりコピーを持ち帰るのである。重要なものであればあるほど持ち主には大概入り口で断られる。このようなものは写真撮影はまずだめである。そこで持ち主が便所に行っている隙に隠し撮りしてしまう。


本の話6 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)01時03分27秒

ジャーナリストという職種は泥棒集団である。彼らは時間に追われているために孫引きしたものを平然と使う。孫引きに自分の名前をつけてしまう悪質な泥棒も多い。従って彼らの書くモノは大抵「使い捨てのティッシュペーパー」である。最初からティッシュペーパーを用意している者は確信犯である。


本の話5 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)00時54分51秒

本の話は長い。お決まりの4は越えてしまった。諸君等は古本市へ本をあさりにいったことがあるであろう。
専門家は図書館や大学にもないような本を求める場合がある。そのような時はそれぞれに専門業者が居てオークションで仕入れてもらったりする。それでもない本がある。最後はそのような本が最初から存在しなかったことに気がつく。そこで自分で書いてしまう。まず完璧な資料をすべてそろえる。完璧なということは世界中隅々まで捜索するということである。探偵と同じようなことをする。本を書く者はこのような動機で書く。そのような動機がない者が書く本はクズとなる。


本の話4 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)00時41分51秒

楽譜は全世界で細々と売れる。一枚の紙が千円以上の楽譜などザラである。それでも買うのはコピーでは味気ないからである。これを買う者は一生使う気で買うのである。だから安っぽいコピーなどしない。
楽譜が今でも紙である必然性は鉛筆で様々な書き込みが必要だからである。オーケストラなら指揮者の指示を鉛筆で書き込む。ソリストなら運指をこまごまと書く。だから楽譜は昔と変わりない。売れる部数は将棋と似たようにわずかであるが、昔から変わらないからなんとか続けて行ける。


本の話3 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)00時28分19秒

将棋は日増しに本の価値が下がっている。それは棋譜という記号の性格による。
そこで将棋本は別なセールスポイントが必要である。
本とは何か。紙である。紙には色々書ける。
全世界の新聞や雑誌に必ずあって、必ず書き込みがあるもの。
おわかりであろうか? そう。それはクロスワードパズルである。待合室の雑誌にも誰かが必ず書き込んでいる。将棋の本も必ず書き込みがしたくなるようなモノであれば売れるであろう。


本の話2 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)00時16分43秒

禿丸日誌によれば、わざわざ竜王戦の本は赤字と書いてある。バカかと思う。そんなことは当たり前である。将棋の本で黒字の本などない。よく棋士が自著のサイン会などやっているが、あれは良く言えばファンサービス、実態は自己満足である。学術書などは自費出版であるから、棋士はまだ自腹を切らないだけいい方であろう。全国の図書館が買ってくれればなんとかなるので、ファンにはそのように呼びかけたらよいかと思う。図書館で購入希望図書の名前を書いて貰うだけである。リクエストすればどこでも買うであろう。
棋士はこのような本の印税など女房の化粧代にもならない。ところが精魂こめて創った棋譜には棋士の著作権が保証されていない。羽生などいい加減うんざりであろう。あれだけのモノに自分で著作権が主張できないのである。羽生と谷川はこの件ではマジ切れしたらどうかと思う。


本の話 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 5日(水)00時04分21秒

谷川浩司の光速ノートによると1-2月は対局も少ないので、本の出版の方に少し力を入れているそうである。少しであってほしい。第一人者たらんとする者は後ろを振り返る余裕がないはずである。谷川浩司全集はどうせ売れない本である。値段を下げても売れないものは売れない。こんなものを宣伝しても無駄である。だから宣伝するだけ自分の価値を下げしまうことになる。谷川が自ら宣伝マンになる時は、担当者から恫喝を受けた証拠である。出版社はこのような贅沢な赤字覚悟の本も出さねばならない時がある。その余裕がある出版社が生き残れる。ところが若い編集者は売れなければそれが自分の成績だと思ってしまう。経営者はそんなことは考えていないはずであるから、安心して大赤字の本を出すべきである。