MashudaBBS2003.02.04

将棋界の制度と日本の大学 棋士の研究会 新聞社のこと


豆まき その後 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)23時52分24秒

昨日の節分。分家ではピーナッツをまいたそうである。しかも殻付きのピーナッツ。このような大きな豆がぶつかれば鬼はさぞ痛いはずである。ところがこのアクションが良いそうである。本気で投げ、本気で顔面受けをする。終了後は回収し殻を剥いて食べたそうである。世間にはこのように血走った者達が必ず居ることを忘れないで頂きたい。豆まきでさえ本気でやるバカ者どもがいるのである。


黒山羊さんから 投稿者:凡夫  投稿日: 2月 4日(火)17時32分32秒

研究会は悪ではない。舌足らずであったが、研究の成果を確認するためには「強い者」との真剣勝負が必要であることを述べたくて研究に言及した。


Re:マシュダ一家の相停滞手 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)17時02分19秒

これを棋譜上で理解しているのは、森内、丸山、藤井、阿部。おまけで中田。それを拡散法でグランサタンにしたのが羽生。最近試みたのが加藤一二三。全く違う視点から観た者は中原誠。
その根本となる相停滞の位置付については、我々が知る限り世界思想史上前例がない。


研究会は悪か? 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)16時40分32秒

研究会はダメなどと言っている人間はどういう種族かわかるであろうか?
このような人間は穴熊もダメとか言っているであろう。このような人間は一言で言えば、演奏会のアンコール曲にしか興味が沸かない者である。演奏家が必死に用意したプログラムには関心がなく、サービスでアンコールに弾いた「トルコ行進曲」に感動する者達である。
一線の演奏家が用意するプログラムとは、そこらの発表会とは質が違う。現在のプロ棋士の将棋はどの程度の水準かと言うと、平均して地方都市の公民館レベルかと思う。トップ棋士で国内でなんとか認められる程度であろう。そのようなものであるから、研究会でプログラムの水準をあげることはむしろ棋士の義務である。


タイトル戦少考2 投稿者:凡夫  投稿日: 2月 4日(火)16時37分46秒

二極化が進行することはどなたにもお分かりいただけるであろう。1年でも早くA級に昇ってあの恐ろしいメンバーの中で鎬を削り合いたい、という男気のある棋士はいても少なくなる。更に、羽生世代+数名が強過ぎる。強すぎるのが優に10名を超える。その結果A級メンバーの固定化が進み、人気の凋落に拍車がかかる。またお前たちか?という漬物のCMと同じだ。
一方、その他のタイトル戦に精を出してチャンスがあればA級もと考える若手が増える。この者達は才能はあってもそれを伸ばし切ることは出来ず、たまにタイトル戦予選の上の方で見かける程度の存在になり、B2あたりに溜まって次第に厄介者となる。今はC2でも強い若手がたくさんいる。四段に成れたとたんのあの惨状は地獄だろう。C1に上がる頃にはいい加減すれっからしになっている。順位戦にはほとほと懲りるだろうし、A級に在籍しないことがかつてほど不名誉なことではなくなった。他棋戦で頑張れば実入りもある。これが順位戦→名人位の重さが相対的に軽くなったということの意味である。棋士としては軽んずる積りはなくても、目の前の人参には勝てない。明日の名誉より今日の宴会である。
この顕著なる二極化によって更に深刻な事態が生ずる。即ち、技術の停滞である。
何を言っている。A級やそれに準ずる力量の棋士達は互いに研鑽しているし、パソコンで最新の棋譜も手に入り誰もが等しく研究できる環境が整っている。と仰る方もいる。しかしながら、将棋は学問ではなく勝負である。将棋における技術の真の進歩と陶冶は研究室ではなく、盤上で行われる。研究が仮説だとすれば、盤上が実験である。盤上において対局者と指すことによってしか仮設は検証されない仕組みになっている。相手が変われば新しいデータが加わることになる。それでも極め尽くせないからゲームとして成立している。
技術は必ず古びる。そのことを最もよく理解しているのは羽生であろう。だから、あらゆる戦法に触手を伸ばす。あらゆる戦法の可能性を常に探っている。誰か俺を負かしてくれ、そうしたらもっと本気で取り組める、と思っているのではないかと想像する。その時技術は更に進化するだろう。今のA級は確かに強い。しかし、羽生からタイトルを獲っても翌年には取り返されるレベルを超えていない。マシュダ一家の相停滞とは何を意味するかよく分らんが、このままでは技術は停滞期に入る。現状は幸か不幸か羽生を刺激しない限り技術は進歩しないのである。新しいアイディアを持った者達がどんどん参入して来なければならない。そんな参入は竜王戦でもできるだろう。否、できない。羽生に近い実力を持ち、本気で将棋に取り組んでいる者がA級に固まっているから。あの連中を試し切りする位の力が備わって来なければ現代の技術としては通用しない。
後10年A級のメンバーは大きくは変わらないだろう。森下でも落ちそうなほど強い奴らだが、ここ数年で少なくとも2〜3名、否、半数は入れ替わらないと高値安定という停滞期に入いり、その後急落する。聞いてるかっ、久保、木村、行方、山崎!
この停滞の打破には若い力が必要であることを述べた。次は起死回生の妙手を。


新聞紙に棋譜は残るか? 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)16時26分12秒

新聞紙は残る。紙が一番目に優しい上に最もコンパクトで安価である。
バック・トゥー・ザ・フューチャー2を観た方ならわかるであろう。自動車が空を飛ぶ未来の都市にも、新聞紙は町で売られているのである。だから将棋の棋譜も相変わらず未来都市では掲載されているであろう。


なぜ囲碁将棋には新聞社のスポンサーがついたか 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)16時19分36秒

なぜ囲碁将棋に新聞社のスポンサーがついたか。
この素朴な疑問に誰か明快な答えを与えた者はいるであろうか?
新聞社が飛びついた理由は囲碁将棋が大衆娯楽だからではない。
新聞社がこれにとびついた理由はもっと簡単である。記者も知らないようなので教えよう。
囲碁将棋は棋譜という短い記号でその芸術が新聞紙にそっくりそのまま再現できるからである。これが他の芸術と決定的に違う点である。わずかなスペースでその芸術を完璧に新聞紙に再現できるものは囲碁将棋以外では文芸しかない。連載小説や俳句短歌はどこの新聞社も掲載する。これらは日本語による文芸である。棋譜は日本語ではなく特有の記号である。マシュダ一家では棋譜が最もコンパクトにまとめられた優れた言語と言ってきた。それはオペラ並の質感を鑑賞方法次第では持ち得ることも可能のはずである。そのような実験がマシュダ一家の実況と思って頂きたい。それほど棋譜が語りかけることは多い。


順位戦の実態 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)15時53分36秒

そこで諸君は思ったであろう。順位戦は「超専門学校」と「急がば回れ族」を共存させる傀儡大学と。
なぜこのような人形芝居になったかというと「奨励会」がすでに「超専門学校」の役割を果たしているからである。だから実態が順位戦は奨励会の延長となっている。だから「超専門学校」コースの人間にとっては順位戦に入ることが就職ではないのである。一方「急がば回れ族」にとっては順位戦に入ることが就職である。このような混乱を避けるためには二分することである。普及課と実演家に分ければよい。それならば山崎も渡辺も推薦飛び級できるというわけである。順位戦には降級点というものがある。内容を評価して実演家の資格点をつければよい。飛び級点も加算すればよい。対象が4人しかいないのでこのようなものは、名人経験者ががん首そろえて鶴の一声で決めるのが最も手っ取り早い。


「はらぐろの嘆き」を支持できない場合 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)15時41分12秒

順位戦を日本のフツーの大学と比較すると「順位戦>日本の大学」となることは諸君もわかったであろう。
それで安心して「急がば回れ族」に安住してはいけない。実は順位戦は芸術大学と比較しなければならない。日本では芸術大学などと呼ぶが外国では超専門学校である。書かれた既成学問を学ぶところではなく、創造をしなくてはならない。入学も大変だが卒業も大変という狂人集団である。だから教授にも変人が多い。技術も才能もなければ留年どころか即時退学である。このような所では「急がば回れ族」は殺される。


「はらぐろの嘆き」を支持できる場合 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)15時28分59秒

ところが「はらぐろの嘆き」を甘くみてはいけない。そこには実に表情豊かな人間がいる。そこでこのように考えてもらいたい。10年C2に居られることは人生の勉強なのだと。このような種族がいてもよいわけである。これを「急がば回れ族」と呼ぶ。「急がば回れ族」からは古くは米長、最近では木村と言った名だたる才能が排出している。木村はC2の水中花である。「急がば回れ族」もまた日本の大学などよりはるかに優遇されている。
大学には修士過程-博士過程などがある。馴れ合った教授の元で国内でしか通用しないクソみたいな論文をせっせと書かされる。出版しても誰も読まないようなシロモノである。そしていざ博士号を取得しても世間は相手にしない場合がある。大学が世間とズレているためである。それでもよいというのがアカデミーの権威である。日本の大学にはその権威さえもない。


順位戦C2>日本の大学 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)15時02分59秒

C2には現在45名のプロ棋士がいる。男子学級である。
中座と窪田の場合は集中講座で勉強した内容である。だから堂々と試験を受けてよい。山崎と渡辺はその棋譜内容から、推薦入学が必要である。すぐにB1の南と高橋と座席を差し替えても遜色ない。見るべきものを既に備えている。ところがこの飛び級には審査が必要である。すると審査員に裏金が行き裏口入学ではないかと言うばか者がでるであろう。彼らの試験はすべて公開されており審査もなにも一目瞭然である。勝敗だけを話題にするファンが多いから公正な審査をまがいもの扱いする者が便乗する。名人経験者が審査して飛び級枠を認めれば良い。
一方で家庭の事情がある。
諸君等は冗談かと思うかもしれないが、昨年マシュダ一家青年部はC2の中尾を名人にする会を発足しようとしていた。昇級しかかっていた頃である。落ちた。そして今期は3勝5敗である。中尾妻の日記を棋士の特産物と昨年評していたマシュダはがっかりであった。あの時本気で「中尾を名人にする会」を発足していれば中尾は昇級していたであろう。しかし中尾の場合は依怙贔屓となる。完全ニュートラ路線であるマシュダ一家は「中尾を名人にする会」を発足できなかった。そこで中尾妻の日記を二カ月に一度楽しむことにしていた。しかし今日見ると、さよならとある。別居か夜逃げであろうか。そこで考えた。中尾は今期も昇級できない。薄給である。妻はパートで家庭を支える。子供ができたら育児の為に中尾の薄給でやりくりしなければならない。実家も助けてくれない。昇級はいつになるかわからない。人間ならこのように嘆くであろう。これを「はらぐろの嘆き」と呼ぶ。そこで今から「中尾を名人にする会」を発足したらどうかと議案が出された。結論は山崎と渡辺は名人になれるかもしれないが中座と窪田、そして中尾は死んでも名人にはなれない。とまあこのような誰にでもわかる明快な答えである。
諸君等は日本の大学がパーの集合体であることは知っているだろう。入学までは大変である。一度入ればオートマである。外国の大学は誰でも入学できる。卒業が大変である。だから外国の大学では健全なアカデミーの権威が維持できている。日本の大学は癒着と馴れ合いだけである。順位戦は日本の大学よりはるかに健全に機能していると断言しよう。B1の高橋南は即時退学させるのが外国の大学である。彼らを支持するのは「はらぐろの嘆き」である。


タイトル戦少考1 投稿者:凡夫  投稿日: 2月 4日(火)14時02分03秒

米長がようやく中原に勝った時までは名人位にもまだ重みがあった。翌年羽生が名人位を奪った時はその意味は既に軽くなっていた。出てくるのも勝つのも当然と思われたからばかりではない。羽生は著作の中で最終局の決め手を指す時は指が動かなかった、等と書いているが怪しいものである。世論に気を遣ったまでのことであろう。羽生自身の内に、それまでの歴代名人と同種の緊張感がなかった。既に竜王戦で谷川といっぱしの勝負をして、実質的な第一人者決めを経験していたからである。名人戦は頭金のようなものであった。
中原は、今はタイトル戦が増えて若手の活躍がより目立つようになった、旨の発言をしているが、その中に竜王戦の開設が与って力あった。嘘も百回言えば本当になる。読売が名人位の上をおねだりしたために、上はともかく並ぶ重さになった。A級でなくても棋界最高「額」のタイトルが取れる。若手は嬉しい、力が入る。読売の札束で頬っぺた作戦はまんまと図に当たった。その結果、真田だ、大介だといった一発屋のまぐれ将棋が登場した。脚光を浴びなかったのがせめてもの幸いである。当然将棋の格の違いは歴然としており、鼻クソのように放り投げられた。一方で、森下、丸山、藤井といった正統の棋士たちはA級・名人位を目指した。頭が古いからではなく、強い者のいるリーグ戦に身を置かなければ真の技術が身につかないこと、及びその上にいる名人が最強者であることを知っているからである。幸、現在のA級は強者の巣窟たり得ている。
さて、棋界全体での中では竜王位は名人位と同程度の重さになった。これは名人位の重さに竜王位が追いついた、という意味か?ノー。そんなことは物理的にあり得ない。竜王位が重くなるにつれて名人位が相対的に軽くなったのである。羽生の指は動いた。
このようにタイトルの価値が分裂している状況では何が起こるであろうか?


プロ棋士はカソリックの神父か? 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)06時03分31秒

棋士の奥さんはこう言うであろう。自分は将棋はわからない。ダンナのサラリーにしか興味ない。
これを非難できる者はいるであろうか?彼女は当たり前のことを言っている。だから体調不良で一年成績が悪かった位でフリークラスに追いやられたら、奥さんは発狂してしまうであろう。
そこで最も良い方法は、プロ棋士をカソリックの神父のように生涯独身の求道者にしてしまうことである。自らそれを実践している者達も居る。佐藤康光や郷田である。将棋連盟をカソリック教会のような組織にすれば良い。給料は少ないが求道者である為にそのようなことは気にせず将棋に打ち込める。サラリーにこだわるうるさい奥さんもいない。しかし子供もほしい。
そこでこう考えたらどうであろう。プロ棋士はプロテスタントの牧師であると。子供も奥さんも居る。教会は道場である。信者のお布施の他に、教会本部からわずかだが給与も支給される。牧師であるからにはやはり求道者である。その求道心を支えるものは金銭ではなく信者の篤い信仰心である。
実際は棋士は求道者ではない。しかも子供が羽生に憧れるのはその将棋の内容にではない。子供は単純に思うだけである。正直な子供は綺麗な奥さんと豊かな報酬に憧れるだけである。


順位戦や竜王戦の制度 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)06時01分24秒

さて諸君等は順位戦や竜王戦の制度というものに憤りを感じることであろう。なんで同じクラスでこれほど実力差があるのかと。それに怒るのがフツーの感覚である。しかし彼らとて会社員である。家庭生活は会社員のサラリーで賄われている。子供も徐々に大きくなる。そのようなワケで諸君には余計なお世話となる。
そこで諸君らは向こう岸で怒りを露にしてもよい。このように叫ぶことも出来る。
組み分けは年間レーティングで上から順に切れ。
年間二人や三人移動するような制度だからまどろっこしい。
腐った将棋が半分ではスポンサーも泣く。
レーティングの上に審議会を入れてバッサリ切れ。
そう。審議会を入れてバッサリ切れるならそれが望ましい。なぜ審議会が必要かと言うと加藤一二三が先日見せたような藤井システムを逆手にとる新思考形態が将棋にとって最も必要とされるからである。彼に限らず負けても内容が良い棋士は余りに多い。終盤のポカで負けにするからと言って切るのでは惜しい。将棋に創意工夫があれば正当に数値で評価するべきである。それを第二のレーティングに反映させるべきであった。マシュダが一昨年言った通りである。しかしまるで無視された。したがってどうしようもない棋士はさんざん言われて当たり前となる。南や高橋のような将棋は完全に腐っている。これはすでに腐敗物である。腐った猫の轢死体を一年も放置するような制度はおかしい。せめて半年ごとに新鮮な空気を入れないと共倒れである。しかし彼らは放置したということである。


鈴木輝彦の場合 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 2月 4日(火)04時58分17秒

鈴木輝彦の解説はソースがないタコ焼である。しかし彼の美女切断マジックは見たくないと言ったおかげで羽生のV2固めを見られたことは幸運なことであった。鈴木輝彦は今後弁解などせず公民館のどさ回りの悪役に撤するように。