Mashuda BBS 2003 曜日の回想

2002年1月19日(日)


回想24 棋士は美しい 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)16時59分37秒

今日の相撲はダイジェストでみるとして、この棋譜を鑑賞することにしよう。
雛祭にこのような恐ろしいモノをよくもNHKは見せてくれた。雛壇が鮮血で染まる衝撃が蘇る。

http://www.bekkoame.ne.jp/i/yusai/020303NHK.html


回想23 棋士は美しい 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)16時44分29秒

このような腐った家元が幅を利かせている様はどの芸能界も似たりよったりである。だから将棋の棋士はもっと胸を張りなさい。あなた方は実力だけを頼りに、日本が育んだ逞しい美を奏でている本物の芸術家たちなのだから。


回想22 歌舞伎は腐った 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)16時34分21秒

ふと相撲を見ればなんと最近一番みたくない男がゲストで出演している。
市川新之助という大根役者である。
十二代目の團十郎もヒドイ役者だが、このバカ息子はさらに輪をかけてひどい。
コイツのおかげで宮本武蔵はドッチラケであった。あれは本が悪いのではない。主役がソノマンマ、カッコだけつけたバカ笑いの新之助なのであった。


回想21 再び将棋の美 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)16時04分40秒

今日のNHK杯戦をまた思い出してしまった。
あれほど貧乏臭い棋譜も珍しい。谷川はあの千日手なら後手は仕方ないと解説していたことだろう。それを打開するのが先手番内藤の心意気と思うのが人情であろう。しかし人情で将棋を指す者がいるのであろうか?人情話が見たいときはトラさん映画をレンタルビデオで借りてくるのがマシュダ一家の定跡である。この日、内藤國雄はトラさんのような貧乏臭いセリフでお茶の間を賑わしてくれたのであろうか?そして谷川は相変わらず「丸山流」などとトラさんがタコ社長を小馬鹿にするように、鼻で笑う口調で解説をしていたのであろうか?

日曜の居眠りは心地よかった。あの夢はなんだったのだろう。なにか美しいものがよぎったような


回想20 点数による勝敗決定 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)15時50分51秒

点数による勝敗決定が最もエキサイティングなルールであることは既に我々が指摘した通りである。現在の将棋のルールでは、これ以上指しようがない相入玉などの場合、双方が24点以上あれば持将棋引き分けとなる。片方が23点以下なら負けとなる。このように点数で勝敗を決定するルールは囲碁と同じと考えてよい。将棋の場合この24点という分岐点は、囲碁と同じように経験値によるもの。将棋がこのルールを24点から23点に引き下げる時こそ、将棋の楽しみ方が変わる時であることを我々は既に述べた。


回想19 将棋とチェス 3 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)15時42分23秒

ここで加藤一二三を思い出した者はかなりの将棋通である。
彼は将棋の引き分けである持将棋や公式戦では無効試合となる千日手を将棋のセールスポイントのひとつと考えていた。これを前後の文脈を知らずにこの部分だけ切り取れば誤解を招くかもしれない。
将棋界で最も闘争的な加藤一二三の駒を叩きつける音は余りに有名である。地球の裏側でも聞こえる程だから。そこで加藤一二三が引き分けを提案することは実に微笑ましい光景となる。


回想18 将棋とチェス 2 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)15時33分15秒

そう。あの時マシュダがそのことを誰がハブに聞き出したか駒音掲示板で尋ねたとき、誰も相手にしなかった。「ハブは夢をみない」

外国のバーではチェスを指す場所も多いが、夜何もすることがなくて暇な日本の商社マンにはうってつけのゲームであったろう。今ではインターネットでどこでも将棋が指せるから、将棋を知っている者ならほとんど将棋を選ぶであろう。チェスより将棋の方がストレス解消にはいいはずである。チェスは破壊的なのでね。
フィッシャーの映画をご存じだろうか。相手の駒を吹き飛ばし、憎しみを叩きつけるようにチェスロックを押す子供たち。憎悪というものがあのゲームに宿ってしまっている。そこで引き分けで憎悪を鎮圧しようとしたのがチェスというゲームなのであった。


回想17 将棋とチェス 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)15時24分54秒

チェスのかっこよさだけに憧れる場合、このような者を西洋乞食と昔は呼んでいた。ハリー・ポッターにチェスの巨大な駒が次々と相手の駒を破壊して行く場面がある。西洋ではこのようにチェスを象徴化して学芸の題材とすることが多い。ホフマンのチェス人形、ヘッセの荒野の狼、デュシャンのチェス駒など枚挙にいとまがない。その根幹にある構図はチェスはデウス・エクス・マキーナかということ。オートマータにチェスが指せるかという実に他愛もないものであった。人間は人間を作れるかという主題に収斂する仕組み。そこに運やら擬人化した魂やらを投影するだけのことであった。なぜ彼らがそのような象徴をチェスに見るかというと理由はひとつだけである。彼らはそのような夢を実際に見たのであった。あることに熱中するとひとはその対象を夢にまで見る。チェスの場合は擬人化したアレゴリーとなって夢を徘徊するのである。
ここでマシュダが興味深いことを述べたことを思い出す。ハブが棋界を制覇した理由は、ハブが眠るときも夢を見ないということである。



回想16 プロとアマ 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)15時07分16秒

彼らは案外勝敗だけにこだわっているわけではない。ある有名人が大量の文章を残していながら、最大の仕事はなんだったか問われた時、彼はそっけなく「妻子を養ったこと。あとはどーでもいい」と言い放った。ハブが昨年意外にも後世までも鑑賞できる棋譜を残したいとは第一義に考えないと言った心境もそのようなものであろう。
マー生きた証しを棋譜に残したいと考えるのがフツーの彼らの願い。そしてプロ棋士は独りで指すわけにはいかない。必ず相手がいる。そこで最も生命力の強い相手と記憶に残る棋譜が残せればそれで目的は達する。負けてもよい場合があるのであった。むしろ負けた方が記憶に残る場合が多々ある。そこが将棋のプロとアマという用語の最大の違い。アマは勝つことによってしかその存在価値を認められ難いのであった。


回想15 将棋はエロスと同じ 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)14時32分06秒

二者間で足りないものを補うエロスの効果と将棋はまったく同じ。
将棋は二人で指すと考えてはいけない。先手と後手で指すと考えなくてはいけない。
我々が真っ先に言いたいことはそれだけである。


回想14 王将戦第1局 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)13時27分18秒

ここでもう一度三日前の王将戦を思い出してみることにしよう。三日前の納豆は食えたものではないが、将棋は永遠に腐敗しないであろう。
我々は55桂馬で先手の戦術が出尽くしたところであとはお祭り気分で鑑賞していた。
このように収束してもらいたいという願望は密かに書いておいた。それが桂馬がハスに並ぶハブ得意のV2固め。この用語は一昨年すでにマシュダが使っている。
王将戦第1局では奇跡が起ころうとしていた。ハブの棋譜で玉頭にここまで見事に美を奏でるV2固めは前例がない。康光の55桂馬はその千載一隅のチャンスをハブに与えたのであった。そしてハブはそれを期待して65桂馬と跳ね、康光の桂馬と寄り添った。
マシュダ一家のサイトが存在していなかったら、あのV2固めは絶賛されハブマジックと喧伝され新聞も翌週の週間将棋も大いに賑わしたであろうか? 
我々はこれでもかなり遠慮しながら実況していたつもりである。


回想13 コンピューターのこと 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)13時03分02秒

一昨年の竜王戦掲示板からマシュダが姿を消したとき、残った者達は余韻を言葉で確認するかのようにコンピューター将棋を話題にしていた。マシュダ一家のサイトがたちあがった時も、内藤のNHK講座をはじめ、森下までもがコンピューター将棋を話題にした。
我々は彼らほどコンピューター自体にあまり関心がない。驚いたであろうか?
このようなものは機械としてしか我々は見ていないのである。
将棋に限定したところでコンピューターというものはあまり魅力がない。
理由は簡単である。コンピューターは美を感じないからだ。


回想12 夢から目覚めて 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)12時49分39秒

どうやら眠ってしまったらしい。退屈な解説であった。谷川は解説などするべきではない。言いたいことも言えずに王者の振りをするだけならむしろ黙っていた方がよい。
解説は中原。彼が名人であった時は滅多に彼の解説など聞けるものではなかった。大山以後の最高の解説者は中原であろう。
さてあのひねり飛車からどのように進行したのであろうか。録画ボタンを押していなかった。そこで救世主のごとき2ちゃんねるの棋譜貼付をパソコンに読み込んで再生をしてみることにする。このような掲示板は大きな文化である。NHKは98%の収入を視聴料で賄っているが、このような掲示板にも半強制的にアクセス料を徴収できるようにしなくてはなるまい。
棋譜を見て唖然とした。途中で眠りこけてよかった。千日手を内藤が避けて大変な将棋となってしまっている。天野宗歩に笑われる荻田重次郎の将棋よりひどい。なぶり殺しというよりも、連行された酔っぱらい。
米長の解説でなくてよかった。途中で眠ることができたのだから。


回想11 谷川が好きな用語 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)10時43分58秒

芸術的
微妙
エー


回想10 谷川のこと 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)10時28分29秒

ここで例のごとくコキオロシタ大根に醤油を注ぐ前にお口直しをしておこう。
谷川の合いの手は「ハイ、ハイ」である。これ以上は話しませんと「ハイ、ハイ」で遮るのが谷川であった。ふとモニターをみるとなんと内藤はNHK杯戦で丸山相手に凄いことをしている。


回想9 クソ記者の中身 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)10時08分00秒

このクソ読売記者の先輩は棋界の裏話を集めて本にした。だから後輩も同じマネをしたがる。この手法で古典となったものにゲーテの話をまとめたエッカーマンの本がある。なぜこれが古典に成り得たかというと、エッカーマンは書生としてゲーテの仕事のみをまとめることに専念し、彼の話をいかに客観的に再現できるかに身を捧げたためである。ところが、同じ手法を使っているようでありながら、クソ記者は必ず自分の妻とか自分の手柄とかのどーでもよいことを折り交ぜて棋士をネタに売名行為をしている。だからクソ記者は棋士に敬意さえ抱けないのであった。これは彼らが棋士からお金をもらっているわけではないので当然と言えば当然である。そのかわり俺がオマエの宣伝をしてやっているという態度をみせつける。その常套句が「棋士の方から誘われて酒場に」という方向性の明示であった。


回想8 記者の奢り 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)09時52分09秒

彼らは棋士の話を聞けば棋士の芸も理解できるはずと勘違いしている。
棋士の言葉を聞いてごらん。ハブは「マー」という合いの手を使用しないとロクに話せない。康光もまた「マー」の連発である。彼らが自分達の芸術を語る言葉を知らないのは当然であろう。彼らが本当に言いたいことはこの「マー」の中に封じ込められている。それがどうしても翻訳できないので「マー」と言うしかないのである。
だから記者の酒場の話に騙されてはいけない。彼らはそこで棋士の正体を見破ったと自惚れる以外、書くべきことすら自分で思い浮かばないのである。棋士自身が自分で表現できないことを、記者は脚色したがるが、ネットでしか事情を知らない者はヨミクマ日記を読んで見ればよい。彼は今朝方、週末の日付で空白を取り繕っている。阿部で懲りたと思ったら、今度は王将と酒場でつるみ、棋士の芸の符牒を探ろうとしている。彼らはウンコから何を食べたか分析できる能力があると自惚れている。酒場での棋士とのつきあいで、棋士の作った料理がどのようなものか知ろうとする習性が記者にある。そんなはずはないと言いつつ、それを公言して、あの人は局後にこんなウンチをするんですと言うのが先輩から学んだ定跡である。だから我々は彼らをクズと呼ばずにクソと呼ぶことにしよう。


回想7 週間将棋のこと 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)09時17分21秒

駅のキオスクで毎週このような専門紙が買えるということは日本が誇ってもよい大きな文化である。これを買えば一週間は電車が退屈しないというサラリーマンも多かった。
そして今。そのフレームだけ残して中身はなぜこのように堕落してしまったのだろう?
誤植の多さ、怠慢な記事、退屈な連載。マンネリ化した次の一手。最初に見るのがバトルの漫画で中身がないのでまたバトルの漫画を見て捨てるという人はいないだろうか?
スカ太郎というペンネームで書かれるコンニャク文に思わず居心地の良さを見いだしてしまうようになった読者層の責任であろうか?
そうではない。竜王戦でマシュダ投稿が始まったとき、このスカ太郎の結婚式に棋士はこぞって出かけ、武者野は我々は一丸だというイメージをアピールするために竜王戦掲示板にまでそのことを書いている。一記者の結婚式を、週間将棋のネタにするほどまでに将棋村は寂れてしまったのか? あるいはスカ太郎やヨミクマのような癒着記者が棋士を正当に評価してくれることを期待しているのであろうか?
彼らはお付きあいの中でしか文化を信用できない。週間将棋のNSNの広告には何といまだに旧式のパソコンが写真に使用されている。今では販売していないこの懐かしいパソコン。それで会費を募れると本気で考えている者がいるはずはない。これらのクズは在庫処理ができない為に税金対策にしか役立つことはない。
ネットで将棋ができるということは強い対戦相手を探すには最良の手段であるかに思えた時期があった。このように回想できる者は幸せである。


今朝の早指し 中村vs高橋のコエダメ 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)07時46分48秒

四間穴熊対桂離宮からの後手高橋の早指し戦用の工夫。一度みたら二度と見れない170手のバカ試合となった。加藤一二三には解説させませんという無茶苦茶ぶり。互いに香車を三枚ならべっこを繰り返すという珍局としてコエダメ収集家専用。


回想6 日本の位置 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)06時59分43秒

そこで次世代の者達はこう考えなさい。
あなた方の先輩たちは、貧しい中を勉強し、まだ発展途上で砂上の楼閣を築こうとしたのだと。家庭で誇りある父親を演じるために権威に頼ってきたのだと。そのかわりに君達に豊かな教育を施すことができるようになったのだと。
柳瀬自身も翻訳の九割がクソと言っているのは正にその通りであった。将棋もまた一割の茶碗の中でまだ発展途上なのである。
そこでマシュダが言ったことを覚えているだろうか。
牙の抜かれた勝負師を見る奨励会の家族たちの心境。
中原と米長は双頭の鷲。これを象徴化できるであろうか?
ハブという異教の王子はあるものがあるということを知っている。
あの孤高の戦士たちは、それを象徴化してみせたのであった。


回想5 美学と言う名の泥棒行為 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)06時35分32秒



戦後の日本をダメにした種族に東大出身の美学者たちがいる。彼らは翻訳しただけのものをさも自分が考えだした文脈のようにして地位を築いてきた。
これを村の狭い出来事で例えるならば、柳瀬が米長に向かって、米長玉は私が最初に指しましたと棋譜まで見せて示す手法から始まる。当然米長は無視する。このクソ対談本で証明しても間違っても柳瀬玉とは呼ばれない。それが閉鎖社会の権威というものであり、米長玉と呼ばれるのは、彼の長年の功績に対する村の勲章なのである。ところが棋士に群がりたい似非文化人のいかに多いことか。そして彼らは将棋の何を語ってきたのであろうか?
彼らは一様に戦後の悪しき闇のコンプレックスをひきづっている。それに便乗しているのが記者という種族であった。


回想4 奢れる国の敵役 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)06時15分28秒

米国ではキム・ジョンイルがサダム・フセインのポスト敵役としてイメージ戦略が繰り広げられている。マシュダの思考法が余りに既成概念を覆すものであった為に、将棋村の者達はマシュダを北朝鮮の人間ではないかと思っていたことがある。Mashudaが米長掲示板に短期投稿をした際に、北朝鮮のトトカルチョサイトの紹介投稿があった。このような策略でマシュダを日本人の敵のように煽るのは村人自身である。マシュダは北朝鮮とは一切無縁であるとここに銘記しておこう。マシュダ一家のメールボックスには次々とイタズラメールが舞い込み、ウィルスを送っている者もいた。マシュダに批判されて困る者は将棋村の一部の人々である。
我々の批判には自己還元する利害というものが一切ないということも銘記しておこう。

奢れる国の敵役が必要だったのはどの種族であろう? 米国をみればわかる。
我々は読売新聞社とも朝日新聞社とも、ましてや毎日新聞社とも無縁である。
日本は中立を装っているだけだった。


回想3 棋士の生態と日本人の特性 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)05時26分43秒

人間がどのようなものに関心をもつか我々は腑分けして数字と用語で示してきた。
中原スキャンダルに関しては、マシュダが昨年Serisawa氏に語ったように「行くところまで行けばそれでよい」
そしてそれに対処する最善策も我々は述べてきた。組織の看板を汚されたのならば組織が訴訟で損害賠償請求をするべきと。中原と米長の生態の違いはこれしかない。商品化された中原の生態サンプルは組織に影響を与えるので組織が訴訟という手段で除去すべきであった。米長という生態は組織に影響を与えないので放置ということだけの違い。
ところが組織の責任者である二上は徹底的にそれを無視し、中原個人の問題としてしまった。生涯名人位を取れなかった彼は、弟子の羽生が名人となることだけに満足し目を背けたのであった。一方武者野のようなゴロツキは自分の掲示板でさんざん中原叩きを行ってきた。彼が味方につけたのは一般将棋愛好家である。スキャンダルには目がないワイドショー族が思う存分掲示板で跋扈し、武者野は組織の一員でありながら放置した。彼らはマシュダが乗り込むと一様に口を閉ざし、最後は「マシュダがいないとなんと平和なのだろう」とつぶやく。その対岸では「うわさのチャンネル」というクソダマリで、虚しい議論が展開されていた。スキゾフレニーのコテハンが穴熊有害説をオマヌケを装い論じていたりする。この「うわさのチャンネル」という掲示板ではかつて中原がいかに林葉直子を愛し、いかに中原は犯罪者であるかを得々と論じる者がいた。こうした方々は、マシュダが登場すると霧散する。棋士の生態のみをモラルの杓子定規で書くことがいかに虚しいか悟っただけまともな人々であった。
一方米長が善良な将棋ファンと呼んできた人々は、次々にサイトを閉ざす。彼らはマシュダ実況の過激な内容に対抗できずに書くことをやめた。
棋譜掲載によって将棋情報の最右翼である「2ちゃんねる」の囲碁将棋板はどうであろうか。ここに物知り顔で巣くう者達は、マシュダが竜王戦掲示板に登場したとき某棋士、奨励会くずれ、記者などという用語に当てはめたがり、どれにも該当しないと知るや罵声のみを浴びせかけ、最後はマシュダ一家のサイト立ち上げとともに一斉に沈黙した。
一言でいえばこうなる。日本は島。



回想2 米長という現象をどう把握するか 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)04時33分13秒

ラディカルな精神分析医なら彼を間違いなく分裂症と断定する。ところが彼は二つにではなく三つに割れている。だから彼には救いがあるとMashudaは述べた。
米長は昨年の王座戦第1局で立会人と解説を行なっている。王座戦50周年記念のこのビッグイベントは華麗であった。そして米長は舞い上がり不遜にも興行側と鑑賞側の立場の違いが明らかになると事前に豪語していた。彼らがマシュダ一家に対抗するために用意した布陣は、名人の解説、作家の観戦記事、最強マネージャー米長という三位一体であった。
結果はどうであったろうか?興行側の惨敗であった。マシュダ一家は佐藤康光という裸の精神にかけられた圧力と主催紙のサービス精神に同情し、第2局以後はこの棋戦を見放した。
そして昨日の米長。彼は我々が何を把握したかついに理解したのである。彼自身はそれが具体的に示せなくとも、それがあるということを理解したのである。このような柔軟性は日本人の最もよい特性であった。だから彼は分裂症ではない。精神科医には昨日そのことを伝えた。


回想1 二日制という観賞法 投稿者:マシュダ一家  投稿日: 1月19日(日)04時16分12秒

二日制という観賞法は一日制の観賞法よりはるかに優れている。
一昨年の竜王戦におけるマシュダの投稿は関係者に衝撃であったことだろう。そして彼らはその内容に驚きつつつ、ついには自己保身の道を選択した。マシュダが目を細めながら思い出すのは、あの電撃投稿の翌日、竜王戦の小田記者が「くたびれた顔」を衛星放送に晒したことであった。いい顔であった。そして彼らはもうくたびれることをしなくなった。三村というもらい乞食を捨て駒にして、社長はふんぞりかえる。Mashuda渾身の投稿にも逃げまくり封印しようとする。果てにはなぜ神崎や米長掲示板でそれをやらないか、被害者意識を丸出しに涙を流す。米長や神崎は少なくとも名人位に最大限の敬意を払ってきた。武者野にはそれがない。それだけの違いであった。森下が順位戦の地獄の番人足り得ているのは、その棋譜による。これは彼の人格ではなく、将棋というロジック上の問題であることを我々は何度も繰り返し述べてきた。その意味が武者野たちには全く理解できなかったのである。
西條は関係者の飲み食いに批判的な「くたびれない硬骨漢」であった。Mashudaは期待していたが、結局この記者もまた長いモノに巻かれてしまった。相変わらず棋士の生態から商売のネタを犬のようにかぎ出しては将棋と関連付けようとしているクズであった。
我々は鑑賞に必要な分析をする為に棋譜しか見ていないとここに銘記しておこう。
マシュダが一昨年述べたように、棋士には棋譜しか残らない。そしてそれが彼らの全てなのである。