マスメシア1 犠牲者の論理 招魂の儀式  2002.02.10up 


「アレにはまいりましたね」

「ああいう言葉は人の心の9割支配する。テレビに映る政治家の印象率は、話の内容が7%。あとの93%は話の内容に付随するもの。その人のキャッチフレーズなどが42%、残りは表情や服装など視覚的なものがアピールする」

「それはネットでも証明された数字と同じですね」

「そう。中身のオマケへの反応が93%。中身への反応は7%」

「刺激的なモノが人は好きなんですね」

「以下中身のオマケ=パレルゴンと読み替える。詰め将棋のような純粋芸術だとパレルゴンはゼロになる場合がある」

「パレルゴンがゼロに?」

「勝負する人間がそこにいないからね」

「勝ったらおまんこシヨーとか言うオマケはないんですね。それが純粋芸術と?」

「大道詰め将棋では金まきあげられる」

「やはり100%ではないと?」

「純粋芸術を100%理解する者はわずかだ。創作した本人自身と、本人と同レベルの者以外に100%理解することは無理。しかも本人自身、意図したものの9割以上の表現はできない。だから現実には皆無に近い」

「表現芸術はどうですかね」

「肉体で表現する芸術の場合パレルゴンぬきには不可能。表現芸術ではパレルゴンがゼロになる場合は奇跡以外に有り得ない」

「羽生さんの七冠王達成はそうした奇跡と考えられませんか?」

「それは閉じられた社会の出来事」

「そうだったんですか」

「では今日のテーマ」

「犠牲者ですね」

「殺された羊たちは国民に対して潜在的にどういう役割を果たしたかわかるか?」

「役割があるんですか?」

「ただ殺されて死んで行っただけでは、国民の気が済まない」

「どういう役割になったんですか?」

「怒れる神への供物」

「怒れる神への供物?」

「全世界で有史以来行なわれてきた儀式。最初は人間、その代替に動物や人形が使われた」

「動物というと?」

「羊や子牛。人間なら子供たちだった。南米の霊峰アコンカグアではその遺体が氷漬で発見されている。頭蓋に穴が開いていた」

「中国や日本でも?」

「古墳造営時に人柱が使用された。後代の埴輪はその代替。飛鳥の酒船も生けにえの儀式に使用された説が有力」

「なんでそんなことするんですかね。神様が見えたんですか?」

「もちろん。そうでなければ共同体で幼児殺害が儀式として許されるはずがない」

「でもあの子供たちは通り魔の犠牲者です」

「通り魔には生け贄の儀式を執行した者としての意識が潜在的にしかない。彼を表の執行官にできるのはマスコミ。そしてマスコミによって彼も犠牲者になる」

「もしかしてあの地下鉄サリン事件もそうですか?」

「あれはもっと明解。実行犯は確信犯。マスコミが彼らを犠牲者にするのは当然。犠牲者の論理も健全に作用している。だがあの通り魔事件では同じ手法で演出したものだから、儀式を汚してしまった。マスコミは儀式の潜在的代行者として堕落したから、卑猥なイメージがつきまとってしまった」

「どうしてですかね。堕落した国家になったからですか?」

「ローマ時代の円形劇場で、人とライオンが戦う残虐性を民衆の堕落と呼べるか?スペインでは2001年に10年に一度といわれたマタドールが猛牛に刺されて全国民熱狂した」

「公然の殺人を民衆が望んだのですね」

「戦争ができない国では、公然の殺人をここまで見せるかというぐらい徹底して見せる。それで民衆の恐れと欲求不満を同時に解消する。マスコミはそういう役割を担っている。戦争放棄をした日本のような国では彼らの手法は民意に叶っているということだ。戦争の危機を潜在的に避ける知恵」

「神の怒りは民衆の欲求不満でしたか」

「神の怒りを民衆の欲求不満に仕立てたのはマスコミ」

「それが健全な国家と?」

「昔に成立した健全な国家はとっくに消滅した。儀式を忘れた国民にはマスメディアがマスメシアとなって儀式を代行している。その意味では健全。ただし正面から本音を吐きたがる自己犠牲志願の政治家にとっては卑怯な国家ということ」

「どうして卑怯になったんですかね」

「国家中枢そのものが、犠牲が儀式として本来どんな機能を果たすか、忘れてしまったからだ。それはもともと国家の機密。それが引き継がれなかったということ。外相の田中真紀子がなんで更迭されたか知っているか?」

「あの声に嫌気がさしたんですかね」

「人の使い方を誤ったからだ。有能な人材を犠牲にするときには、すみやかに密かに行なわなくてはならない。それが全ての人事権を掌握した大臣が伝家の宝刀を抜くとき。ところがその神のごとき権力の使用法を間違えて、公然と犠牲者候補をテレビで非難し、世論で彼らを殺そうとしたから、民衆の反感を買ってしまった。しかもそのやり方はマスコミの手法そのものだ。一方ではその手法は代行者として犠牲者の論理に一致しているが、一方では全く逆のことを行なっている。背後には洗脳された民意が潜んでいる」

「洗脳された民意?」

「その本質は血まみれのマタドールを見たいという欲望。それは堕落している民衆ではない。最小限の最大効果を体で知っている賢い国民。だが民衆の欲望は儀式のフィルターを通じないとこの世の中では卑猥になるということ。田中真紀子はフィルターを外そうとしたからその声さえも卑猥に聞こえる。それを擁護する者は、日本では卑怯者と呼ばれる構造。犠牲者は民衆に知られずに密かに葬りされなくてはならなかった。回教徒の子供をつくってしまったダイアナのように密かに抹殺されなくてはならなかった。ところが日本はまだその技術が未熟。儀式さえ経済学の棺桶に入れてあからさまにしようとする」

「儀式ってなんですか?」

「将棋の棋士が着物で対局するようなもの」

「なぜ棋士はあんな古風な恰好にこだわるんですか?」

「まずカッコいい。なぜかというと、過去がイイからだ」

「長い話のあとのダジャレありがとうございます」

「棋士の着物=棋理を追及した世界への敬意。江戸時代に将棋の魔力で死んでいった先人へのオマージュ」

「でも囲碁は私服で対局しますよね」

「朝鮮、中国の棋士の方が強いから。棋理を追及した国が別にあったからね」

「棋理を追及するのに恰好などどうでもいいんじゃないですか?」

「棋理は道を志す者が築く世界。大衆はそうした彼らをライオンと戦う戦士としてしかみない。大衆には勝ち負けの結果がすべて。彼らがどうやってそこまで鍛えたか知るよしもない。だから内容1割、パレルゴン9割だと覚えておけ」

「内容7%でしたっけ。さびしい数字ですね」

「ところがその7%がなければ、残りの93%は最初から存在しない」

「中身がなければすぐに衰退ですか」

「儀式や定跡になるためのプロセスには血が吹き出すような葛藤が過去にあった。それを覆すのは少数の天才。将棋や囲碁には天才がいるが、国家の中枢には天才が出現できない土壌になってしまった」

「なぜですかね?」

「戦争できないから」

「でもそれが健全なんですよね」

「健全のはずだった。マスメシアをつくったマスメディアがうまく機能すればね」

「今のマスメディアはだめと?」

「今のマスメディアは自己保存機能の役割しか担えない。経済中心で文化事業はことごとく削減対象」

「今の毎日新聞みたいな所?」

「いや。あれは些細な局地戦。文化部が余りに腑甲斐ないから経営陣が一掃を計った猿芝居。毎日が名人戦を手離すはずない。名人戦とのグッバイは社屋が傾くとき。そうではなくてマスメディア全体の話」

「なにがマスメディアに欠けていると?」

「今もっとも必要とされるのは、生命倫理だ。だが心の世界、すなわち自己認識機能が正常に機能しなくなってきた。それはあいまいなまま、環境問題という負の方向からしかアプローチ出来なくなってしまった。大衆相手にどこも商売してきたから、パレルゴン機能が肥大化して9割越えてしまったからね。不況化でますます大衆向けにしか文化事業も発展しない」

「昔の儀式の秘密を公開したらどうですかね?」

「天皇の古墳は触れない」

「その理由はみんな知ってますよ」

「ほんとのこと知りたい?」

「はい」

「儀式は種明かしなどしたら儀式になり得ない」

「それじゃマジックのインチキじゃないですか」

「だが儀式は神に通じている。そこがマジックと違う」

「ですから、その神様に通じる儀式の種を教えてください」

「招魂の儀式」

「招魂?」

「魂を呼ぶ儀式だよ」

「はい」

「その肉体は言葉だ。あとはじっちゃんにしか話せない」     2002.02.10up