易経 じゃらじゃらの形骸 2002.01.18.18:20
「中庸という言葉はどこからきたんですか?」
「易経。易哲学で使用された言葉」
「易ってなんですか?」
「トカゲの象形文字=変化を意味する漢字。易経は古代中国の占いの原典」
「なんでトカゲが変化を意味するんですか?」
「亀甲や骨のひび割れで占ったからだ。そのひび割れがトカゲを想起した」
「そんな占いあてになりますかね」
「あたった占いだけを集大成したのが易経だ。統計による確率を言語化したもの。その結果を法則化するために、卦という記号を使用した。卦の基本は陰と陽の二種類」
「オマンコとオチンコですね」
「0と1だ。記号で--とー。これを三本ずつ縦に組み合わせると8種類。これが八卦と呼ばれるもの。八卦をふたつずつ組み合わせると64卦。これは遺伝子構造や音楽や文字の通信コードの構造と一致している。Cの変化は運動の必然であることを誰もが体感しているが、易経はそれを言葉で行った。日本のおみくじはそれを簡略化したもの」
「当たるんですか?」
「当たったものを集大成し、そこから帰納的に組み合わせを作ったら64卦ができた。その逆が正しいと考えるのは演繹法。問題は言語化するときの作業。64卦に当てはめた各4文字の表象がどういうものか解釈を強いられるようにできている。そこでこれをときほぐすには、遺伝子工学が必要だ。これを数値化して実現する可能性を統計化してみる」
「その結果はどうでしたか?」
「当たる確率は計算中だ。だがそれ以前の問題に気がついた」
「なんでしょうか」
「美がない」
「はあ?」
「魂がない」
「はは?」
「易の宇宙哲学は正しいが、それを実践する人間側の方法論があまりに安易すぎた。佐藤康光が便所にダッシュする気迫に負ける」
「棒をじゃらじゃらやるのはだめですか?」
「それはいい。楽器も初心者がいじればじゃらじゃらやってるのと同じ」
「音にならない?」
「どうも確率の問題ではないらしい。易は素人が行うのと、訓練されて直感力のするどい神官が行うのとでは雲泥の差があるということ。じっちゃんの直感力の方がまだ上手。終盤以外はね」
「誰が占うかによるってことですね」
「音楽家が楽器を演奏するように、訓練された占師でないと記号は生きることはない」
「占いの訓練はどうやって行なうんですか?」
「まずは人間がどういう行動原理をとるか把握すること。じゃらじゃらやって出来た組み合わせを瞬時に読み解く力を養成する。だがそれだけではただの基本。易者はじゃらじゃらやってその基本に至る道を知っている」
「あのじゃらじゃらは、なんですかね?」
「音」
「音?」
「じゃらじゃらと音をだしながら、直感力のある易者がここぞと言うときにひゅっと棒を抜く」
「それって誰も信用しませんよ」
「だろ?だから俺も統計をとることに魂を感じる気力が失せていた。古代中国でもそうだったはずだ。だから易の科学より哲学の方が発展して、易の手法は形骸だけが残ってしまった」
「古代中国でもそうだったんですかね」
「古代中国で骨を焼いたのは、そこから染み出すメッセージを、神官が読み取る能力があったからだ。そうでなければ国を治める優秀な人間たちが夢中になるか?だがその能力が引き継がれなければ、ただの形骸化した儀式にしかならない」
「48手めに勝負がつくという過去の形骸と同じですね」
「ありゃ、もうほとんどイタコの呪文に近い」2002.01.18.18:20