夢と現実の喫水線 デュアル効果 2002.01.17 02:00
「例の分析あがり」
「 どうせ発表できませんけど」
「では分析結果だけ、言葉に置き換えよう」
「どういう言葉ですか?」
「腰まで水があれば泳げるが、膝から下まででは泳げない」
「それが分析結果なんですか?」
「一応Tの中ではその結果に納得した。それをTのなかで言葉にするとこうなる」
「ご苦労さま」
「この答えに満足してUP。雑談しよう」
「おねしょしました?」
「おねしょは今までした記憶がない」
「それは忘れているわけですよね」
「幼児のときにおねしょはしただろう」
「心地よかったですか?」
「心地よかったはずだ。初めて夢精した時の心地よさは覚えている」
「どんな感じでしたか?」
「海で小便するときの解放感」
「どんな解放感ですか?」
「まず尿意。次に周囲に眼をやる。そして良心の呵責。自分の小便で海を汚してよいものかと」
「そこまで考えますか?」
「まず躊躇する。そしてその小さな罪に対して考える。ところが放尿を始めると、気がつく。こんなに気持ちのよいものかと。そこであの葛藤はより大きな解放感をもたらしたことに気がつく」
「でも一度その解放感を味わえても、二度目は違いますよね」
「なぜだ?」
「だって海はいつでもそこに同じようにあるじゃないですか」
「ところが、海には人がいる。今度小便するときには、隣に浮輪につかまったお姉さんがいるかもしれない。今度の葛藤は違う」
「隣のお姉さんが、自分の小便を飲んでしまうかもしれない?」
「かなり良心の呵責があるはずだ」
「いざ小便をすると解放感があるんですか?」
「その解放感を否定することはできない」
「でも海が汚れますよね」
「これは物理的問題にしてはだめ。それで結論をだしても無意味」
「なぜですか?」
「地球温暖化を防ぐために二酸化炭素の排出量を規制しようとしても、その最大の元凶である米国は京都議定書に反対しているだろ」
「地球を汚しているとはっきりわかっているのに放置するんですかね」
「それが人間の自己保存機能の自己主張。こういう根っこが手前味噌の人間相手に、まして小便が海を汚すなどと言っても世界規模で無視される」
「でもプールで小便するのはマズイですよね」
「彼らは電車で臭い靴の臭いを嗅ぐよりマシだと考える」
「日本ではどうですか?」
「欧米より足は清潔だ。日本人は満員電車で屁をされるよりマシだと考える」
「でもする方は気持ちいいんでしょ?」
「そう。マナー以前の問題なんだよこれは。これはU認識機能の問題」
「満員電車で屁をするのがですか?」
「最初は屁をこらえるのは体によくないと自己保存機能で考える。そこで放屁を開始すると自分の尻と鼻には心地よいが、周囲が怪訝そうな顔をする。そこで屁をたれた張本人が反省すると思うか?」
「しませんね」
「反省しないどころか、恍惚感に浸っている。この恍惚感がまたすばらしいことに気がつく。なんで俺は屁をこらえていたんだろうと思うようになる。そこで周囲の顔を見てついにはこう思い込むようになる」
「どう思い込むんですか?」
「なんで俺の屁をもっと楽しそうに嗅げないのか」
「人間ってそこまで傲慢ですかね」
「常習者はそう。この臭いは天恵であるから皆で共有すべきものと結論づける。その恍惚感がまたすばらしいものだから、本人はこれをU認識機能と誤認する」
「本当ですか?」
「ある有名な歌舞伎役者がテレビで公言していた。風呂で屁をするときには思い切りよくぶっ放して、周囲の仲間と屁を共有しなくてはもったいないそうだ」
「屁のU認識機能ですか?」
「これは歌舞伎の仲間だけで通用する。これを特殊U認識機能という。ところが不特定多数の衆人が乗る電車では、一般U認識機能で考えなくてはならない。屁を垂れた本人は神に近づくほどの恍惚感に浸っているのに、周囲は地獄に叩き落とされた嫌悪感にまみれている。ところが法律でこの屁人間を罰することはできない」
「マナーの問題ですかね」
「違う。煙草の吸い殻を捨てても罰することはできる。ましてや電車で嗅ぐ屁の不快感はそれ以上だ」
「わかりました。屁は見えないから罰することはできない」
「そう。誰がやったか特定できないから法律で縛れない。神が天災で人を何万人殺しても、神を罰することができないのと同じ」
「電車で屁を垂れた人は、神様と同じですか?」
「法的には同じ」
「被害者は泣き寝入りしかないんですかね」
「裁くことはできないが訴えることはできる」
「誰だ!屁をしたやつは!」
「そう。そう怒鳴って被害者は周囲にガンたれる」
「私がしました!すいません」
「そう言うものは百人中一人もいないだろう」
「でも容疑者は何人かいますよね」
「証拠がない場合、昔は怪しいものを拷問にかけて白状させたものだ。ところが冤罪が増えてしまった。今はドスをきかせて尋問する。ところが周囲にひとりひとり尋問していくうちに、今度は屁の臭いが消えうせ事件そのものが自然消滅する」
「誰も屁はしなかったということになってしまうんですね」
「屁を嗅がされた被害者は、それでもうっぷんを晴らすことができる。ところがその度を越すと今度は被害者が逆に加害者になってしまう」
「なんでガンたれるんだよ!」
「そうやって悪態つかれて殺されることもある」
「今度はまた被害者ですね」
「では殺人者は誰だ?」
「屁を垂れた者です」
「それは殺人幇助罪にはなるが、証拠がないため検挙できない。検挙されるのは、ガンつけられてキレた挙げ句、殺人罪を被せられた専門学校生だった」
「自分がやっていないのに、屁をしただろうと言われればキレますよね」
「たまたま持っていた調理用の包丁で刺してしまったんだな。実は彼は昨晩彼女に振られて人生に絶望していた矢先だった」
「というと彼女も殺人幇助ですかね」
「彼女は別の彼に、俺しか愛しちゃだめだぞと恫喝を受けていた」
「すると彼女の別の彼も関係していますね」
「誰もが被害者で加害者だ。最後に貧乏籤を引いた者が検挙される。そこで世間ではこう思う。さわらぬ神にたたりなし」
「それが人間ですか」
「それが人間だ。だから物理的問題にしちゃだめ。締め切った車庫でエンジン吹かす人はいない。ところが人間とは風呂屋で小便したり、満員電車で屁をするものなんだ」
「人を殺しますしね」
「車は走る凶器と誰もが知っていても、それを容認している」
「小学校で立った無限大記号分殺したTはどうなりますかね?」
「そりゃ死刑にしたいんじゃないか?」
「誰がですか?」
「まず父親だ。彼が死刑になれば枕を高くして寝られるそうだ。次に本人自身だ。死刑判決を期待して殺したそうだ」
「でも死刑は嫌なんでしょ?」
「日本だと二人殺しても無期懲役だが、三人殺すと死刑というお決まりがある。ところが彼はX人も殺してしまった。死刑を期待して当然だ」
「自分ひとりで死ねばよかったのに」
「それでは彼の父親を喜ばすだけだ」
「でもどのみち父親は喜ぶでしょう?」
「確かに喜んでいたな。こうなることはわかっていたとも明言していた。だが殺人犯の父親というティトロスはつきまとう」
「それだけの当てつけで人を無差別に殺しますかね」
「犯人は前妻に言われたらしい。あんたの子供など生めないと。彼女への当てつけに子供を殺そうと思っても殺す子供がいない。そこで彼女に思い知らせてやろうと、よその子供を殺したと推測できる。強い憎悪心がないとそこまでできない。この憎悪心が問題なんだよ」
「本人は死刑覚悟ですよね」
「彼は政治犯ではないから民衆は即刻死刑を望まない。これだけ殺すとM効果により民衆は徹底的な公開裁判を要求する。電気椅子などで簡単に死なれては気が済まない。梅田事件で警官が殺人犯人にお前は殺さないぞ!と現場で叫んだ心理だ。裁判で徹底的に本人の過去を暴き出す。憎悪心に対して憎悪心で対抗するやりかただ」
「残酷ですね。それで犯罪抑制になりますか?」
「逆効果。こうした事件のあとでは必ず類似事件が増えるという統計がある。今回の事件もTに共鳴する者があとを絶たないそうだ。そういうメールを受けたテレビ局や新聞社は自分でそれをあおったくせに、信じられないと嘯いている」
「彼を死刑にできますかね?」
「狂人という者は法的に処罰ができない。しかもあそこまでテレビで顔を全国に映すと社会復帰のチャンスはないから永遠に狂人扱いされる」
「でも神様と同じになっちゃうんでしたね」
「監禁された神様だ」
「殺した後で監禁しても後の祭りですけど」
「だから危ない者をどうやって閉じ込めておくかという問題にすり変わった」
「常人と狂人の区別がつくんですか?」
「狂人の前は準正常者。だが常人より準正常者の方が多い。準正常者をさらに絞り込んだところで、ライ患者と同じ隔離政策はもうできない。社旗復帰が不能と断定した時点で、彼は社会のお荷物にしかならない。そこで最も重要なことを思い出さなくてはならない。なんの話だっけ」
「腰まで水があれば泳げるが、膝から下まででは泳げない。どういう意味ですかね」
「いい替えれば、腰まで水があれば小便できるが、膝から下まででは小便できない」
「それって物理の問題ではないんですか?」
「違う。それならば、車庫のシャッターが半分開いていればエンジンは吹かせるが、閉まっていればエンジンは吹かせないと言うべきだ」
「意味が違いますか?」
「意味としては万葉集の歌と同じ」
「といいますと?」
「ニギタヅに船乗りせむと月待てば、潮もかないぬ、いざ漕ぎいでな」
「どういう意味ですか?」
「言い換えると、波際で小便しようと潮待てば、腰までつかりぬ、いざ放尿だ」
「なるほど」
「形而上的殺人者なら、こうなる。じわじわと俺を追い込む偽善者め、国家に復讐いざ人殺せ」
「なるほど、時期が充ちてなにかを実行すると言う意味では同じですね」
「これを車庫でやるとどうなる?」
「エンジンを車庫で吹かせば溜まるガス、首まで浸かっていざ死に行きな」
「地球温暖化は?」
「大気圏、二酸化炭素溜まり行き、異常気象で人亡び行く」
「そう。いずれも意味が逆だ。かたや解放で、方や滅亡。これを解放の論理と滅亡の論理と呼んでみよう。ローマ人はこういうことを表現するときは必ずアレゴリーを使った。以下の歌が典型。
(イントロ)
われらが水先案内人
その名は勇気と守護天使
(本歌)
風はおだやかにわれらに吹き
海のかなたにぬける
きらめく波は 銀の輝き
嵐もなく 運命自らが
岸まで運ぶ
船出をするときの潮と風向きを待つとき、勇気と守護天使、そして運命という言葉を必ず詞に挿入する。万葉集のアレゴリーはこの考え方が影響している。中国はこの運命という言葉を司馬遷の時代以来極端に嫌ったが、同時代のローマの支配権下では好んで使用された。日本では仏教伝来以降、この運命という言葉がカルマ、人間の業というものに吸収されてしまい、かつて万葉集で歌われた自然をアレゴリーとする大らかさが閉塞した。今では車に乗るのにも葛藤するぐらいだ」
「風呂で小便するのにも葛藤するくらいですものね。米国人は葛藤なんかしてませんでしょ」
「女と車に乗るのが自由の象徴だ」
「少しは葛藤がないんですかね」
「葛藤はない。フロンティア精神はそれを合理的に葬り去った。支配者が加害者であり被害者でもあったと言うことを誇張してね。その結果、彼らは解放の論理と滅亡の論理を同等に考えざるをえなくなってしまった。そこでどっちにころんでも同じ運命が裁くという思考回路となった。日本人はこれをノラリクラリ戦法で泥沼化する。米国人は白黒はっきりしないと気が済まない」
「白黒はっきりするのって悪いことですかね?」
「パリサイ人気質の最も悪い所が現代に残ったと考えるのが自然」
「でも地球温暖化はまだ深刻じゃないとノラリクラリしているのは米国でしょ?」
「ノラリクラリ戦法は、実はわが国で別名牛若丸戦法とも呼ぶ高等戦術。ひらりひらりとかわして相手の力を逆用する。だが世界経済を牛耳っているパリサイ人気質は、最初から白黒はっきりしないと気が済まない。しかも利用する相手の力がないんだから、最初から牛若丸戦法が使えない」
「武蔵棒弁慶みたいに強いんですね」
「だからカスター将軍は不滅の英雄となった」
「誰ですか、その人は?」
「インディアンの矢を総身に受けて死んだ白人の将軍」
「弁慶の死にざまとおなじですね」
「弁慶は立ったまま絶命したそうだが、それは後代につくられた話。もうそんな話にはみんな倦きたんだよ。ケネディみたいに頭が砕かれる映像でないと納得しない」
「公開殺人ですね」
「あれも国益を守るためだ。国家というものはきれいごとではすまない。ところが日本ではきれいごとですんじゃう」
「不思議ですね」
「なぜだと思う?」
「あの言葉の意味がわかりました」
「言ってみろ」
「ふたつの世界が融合する論理は中庸にある」
「いいぞ」
「それってデュアル効果でしたね」
「そうだ。それは過去が連綿と引き継がれてきた国で効力を発揮する」
「その秘密は膝から腰までの水位」
「それが夢と現実、過去と現在が共有する喫水線の遊び部分」
「明確に区切れないのですね?」
「過去の自分と現在の自分を明確に区切るものがあるか?」
「自己認識機能は同じです」
「そうなんだよ。変わったのは周囲の情況だ。それはことごとく自己保存機能に属するものだ。車を買ったり家を建てたりして自己認識機能が変わる人間はいない」
「なにかを学び知るということはどうですか?」
「それで自分が変わると思う?」
「はい」
「それは自己認識機能から得ることができたU認識機能のおかげ」
「おまんこの感じ方はどうですかね?」
「おまんこは自己認識機能からU認識機能を得るための最善の学習効果を発揮するもの。習うより慣れろとはおまんこのためにあるような言葉」
「おまんこ嫌いな哲学はだめですかね?」
「そういうものが倫理神学を偽善化してきた。U認識機能は最終段階では体得するものだ」
「北欧のフリーセックス理論ではだめですか?」
「初心者にはいいが、それを突き進めて行くとおまんこは永遠におまんこでしかない。欧州ではこうもりがその文明の象徴。それは悲しくて甘美な世界。またおまんこしたくなるような陽気さ、美しさに充ちているが、堂々廻りをしているだけだった。この堂々めぐりがたまたま長期間飽きないだけの美の強度があったということ」
「そこまで言いきれますか?」
「言いきれる。飽きないものが確かにある。あくまで美の強度の問題」
「日本ではおまんこどうなんですか?」
「現在おまんこに対して唯一フリーな考えを持つ国が日本」
「フリーといいますとフリーセックスですか?」
「違う。それはうわべだけの形態。日本ではおまんこを崇拝している」
「ほんとですか?」
「スケベって言葉は日本人のためにあるようなものだ。外国語にはない」
「どうしてですかね」
「タブーに対して崇拝しているから。外国ではタブーは禁忌事項であって、崇拝するのは単一神」
「そこまで日本人をほめていいんですかね」
「そのかわりにデメリットもある。お下劣という言葉がこれほどぴったりの国民もまれだ」
「どういう意味ですか?」
「欧米文化がその精髄と思い込んでいる気品というものが育たない国」
「具体的に言うとなんですかね」
「それを言うと一生懸命にやっている人に申し訳ない。和魂洋才ならいいが、そうはならない」
「なにかひとつでも」
「俺はね、アジアの雑然としたところがむしろ美と思う。その顕著な例が、日本の建物。なんでもアリ。外国なら町の美観を保つために建築の規制が厳しい。だから固定された様式にすぐに飽きてしまう。ごちゃごちゃした町並の方がよっぽど飽きがこない。ベネツィアが面白いのは、その個々の様式美などではけっしてなく、町がごちゃごちゃ入り組んでいるから」
「ごちゃごちゃがどうしておもしろいんですかね」
「フォーマルなものより雑然としたものの方がデータ量が圧倒的に多いからだ。欧州文化の気品とはフォーマルなもの。では主題に戻ろう。先ほどの言葉の根本を例で言うと、Wはお上品すぎてつまらないが、Fのなりふり構わぬエグさは最も刺激的」
「意外ですね」
「なにが?」
「てっきりフォーマルなものがお好きかと」
「それはじっちゃんのほうだ」