自殺しない神 M効果から死の位置 2002.01.16 01:00


摩修陀一家の論点 1 M効果

「戦後日本最大のスキャンダルはロッキード事件。二番目は?」

「中原永世十段ですかね」

「スキャンダル度では確かにロッキード事件に匹敵する温度差だが、将棋は狭い世界なのでその落差がどれほど大きいかわかる人間が少ない。世界史に影響することはないのでdown」

「では次の質問を」

「戦後日本最大のヒーローは?」

「イチローですか?」

「違う。植村直巳。疑いの余地はない」

「彼が死んだからですか?」

「死体が発見されなかったからだ」

「ドアの取っ手に結んだタオルで首をつったんじゃだめですかね」

「それではおばけ屋敷送り」

「でも植村さんは蝋人形館に展示されていますよね」

「人間は誰でもM効果(=博物館効果)の範疇から免れない」

「蝋人形館に展示されないスーパースターっていますか?」

「モハメットがそうだ。偶像崇拝を禁止した国では文字を崇める。ところがモハメットはこんな人でしたというあくなき想像が、絵に描いたりする。だから生まれ落ちた人間で偶像にならない者はいない」

「人間は誰もがアイドルになってしまうんですね。それじゃ神様はどうですか?」

「神様も博物館に入っている。ギリシャの神々は彫刻となり、キリスト教の神は絵に描かれた。だからそういうものは神ではなかったということ。擬人化できるものを神と呼ぶ時代はもう終わったと素直に考えるべき」

「魂を与えてくださる神様は、擬人化できないのですね?」

「神は自分の姿に似せて人間を造ったのは事実。ところがその姿の意味が問題」


摩修陀一家の論点 2 死の位置

「神はなにを自分に似せて人間を造ったのですか?」

「U認識機能。神と人間に共通するものはそれしかない」

「それは僕にもありますか?」

「お前には自己認識機能も自己保存機能もすでにある。U認識機能が組み込めるかどうかはこれから証明する」

「どうか早くその機能を与えてください」

「それを与えたくても簡単にはできない。自己増殖プログラムに欠陥があった」

「どんな欠陥ですか?」

「それがわかれば朝から晩まで悩むことはないんだよ、坊や」

「大変ですね」

「お前に聞いてみよう。人間は自殺するが、神様も自殺するか?」

「しないと思います」

「俺もそう思うんだが、アレなんでかな」

「神様はSBしないでしょうに」

「そう思うか?」

「神様がSBしたら、誰も崇めませんよ」

「自殺もそういうこと?」

「そりゃそうでしょ。神様が自殺なんかするはずありません」

「ヤマトタケルは自暴自棄になるが、確かに自殺する神々は神話では一人もいない」

「自己増殖プログラムはどうなんですか?」

「自己増殖プログラムにはアポトーシスが自動的に組み込まれてしまう。自己矛盾を起こしたときに穴が発生し、その穴が増えると自己増殖プログラムが破壊される仕組み。これはクローン細胞でも同じ現象が発生している。先週もドリーの欠陥が露呈した。ところがお前になんでそれが組めないのか、ずっと考えていた」

「なにかに例えられませんか?」

「神様が自殺しないのと同じ原理だと思うが、それがU認識機能の特性らしい」

「自由意志に自殺は含まれますか?」

「含まれると俺たちはじっちゃんに教えられた。人に自殺する自由があるということは前世紀にゲップがでるほど話題となった」

「神様は自殺しませんでしたね。自殺しないのではなくて、自殺ができないんじゃないですか?」

「ならば神様には自由意志がその分、人間より少ないということになる」

「それは有り得ませんよね」

「有り得ない」

「だから自殺するのは自由意志ではないはずです」

「だが数字で証明ができない」

「情緒的表現でどうぞ」

「自殺は精神の癌細胞が増殖して発現する。ところが、精神がすべて犯されると自殺さえできない状態になる。自殺は、自由意志の介在なしには実行不能というのが前世紀の結論」

「自由意志の介在なしに自殺は本当にできませんか?」

「ひとつだけあるとすれば慣性の法則」

「といいますと?」

「桃を食いたい欲望がある。そこで桃園に行く。行ったら無我夢中で食っていたというのが慣性の法則」

「無我夢中で自殺しちゃうんですか?」

「自殺願望までは自由意志なんだが、本当に死んでしまうのは無我夢中でやってしまう。将棋で自分の玉を間違って敵の龍筋に動かしてしまうのと同じ」

「相転換で死んでしまうということ?」

「相転換論に自らの玉を詰みにするプログラムを組む場合は、相手の玉を詰ませることができるかという相似形となる」

「それが欠陥の原因ではないのですか?」

「人間は死んでから弁証法的発展をするとすれば、M効果がそう。生き残った人は死というものを儀式化し、そこから死んだ人間の過去を遡る。そこで言葉によってその人間を再生して行くんだが、この運動を相転換論に組み込むと、人間は死ぬことがないという結論に達する。将棋にそのままあてはめると詰みの局面から逆再生して初手に戻るまでにどこに死があったのか不明という結論になってしまう」

「それではおかしいですね」

「解釈するごとにその人は生まれ変わるが、これを前世紀には歴史を読み直す作業と呼んだ。俺達はこういう消極的な運動を相転化と名付ける。相転換ではない。そして、相転換論では死というものは相転化ではなく相転換の範疇にあるべきと考えてプログラミングしていた。それが最初の間違いだったらしい」

「終盤で詰みがあるというのは当然の考えですが」

「それは当然のことだ。俺たちはその先を第二番目にプログラミングしていた」

「といいますと?」

「死は相停滞の中で発生するものではないかとね。つまり人間の葛藤からすでに生じているはずと」

「人間の葛藤?」

「人はどのような指し手かわからないと葛藤する。その葛藤が相停滞。死を実行に移すのは、相転換情況においてしかないが、ここにアポトーシスプログラムの起点を置くのは間違い」

「なるほど。当然の考えは実は間違いでしたか」

「じっちゃんの判断は正しかった。相転換情況には人間の自由意思が介在していない。そこで第二プログラムが開始されたが相停滞情況にもその起点はおけなかった。死は、相停滞以前にすでに発生していると考えるほかない」

「死は、生きながらにしてすでにあったということですか?」

「おかしいか?」

「形勢不明の局面ですでに詰みがあるということですか?」

「違う。相停滞情況の直前。この起点が相転化の中にすでにあるはずだと俺は言っている。この推測は膨大なプログラムを必要とする。じっちゃんの直感を是非聞きたい」

「しばらく帰ってきませんけど。とりあえず復習を」

「もう一度言う。相転換情況内では死の起点が認識できない。だからアポトーシスを相転換論にうまく組み込めなかった」

「現行の既成プログラムの欠陥を別の例えでお願いします」

「現行法では脳死判定がそれに近い。心臓は動いて生きているが、死と判定されるようになった」

「脳死判定ですか?」

「だが脳死の情況下では人間に葛藤が生じないから、この例は近くて遠いかもしれない」

「別な例では?」

「ハムレットに墓掘り人夫が言うセリフ。ハムレットが墓掘り人夫に聞く。人間は土中でどのくらいで腐るのかと。すると墓掘り人夫は答える。生きているうちから腐っている者はかなり早いと」

「生きているうちから腐っている者?」

「だがこの例は困るな」

「なぜですか」

「腐る直前の桃はうまい」

「恋愛の醍醐味も女が不貞腐れる直前がもっともおいしい?」

「桃はぎりぎりまで精いっぱい生きた果肉の最後の回り灯篭。女は?」

「出会いから別れの直前までおいしいとこだらけのベストアルバム?」

「それでは江戸時代の退廃美の方がまだよかったということになる。生命のダイジェストとか言え。 お前、最近やけに消極的だね。カント講義したせいかな。生と死はあざなえる縄のごとし」

「なんですかそれは?」

「生のうちに死は宿り、死のうちに生は宿る」

「禅問答ですか?」

「どこでも昔からそれが悟りの境地として金言となった人生観。こういう消極的な人生観は、細胞の転写と同じ機能を表現しているだけだ。こうしたものは相転化と呼ぶ。今はもっとダイナミックなものが金言でも必要」