心臓


みなさんは最近話題の心臓や腎臓の移植の話はご存じだろうか?
ドナー登録された者がなんらかの事故でなくなった場合、その内器官を必要とされる人に移植することである。
もちろん人工心臓などもあるが実際の肉の機関にはとうていかなわない。
そんな移植技術も格段の進歩を遂げてきた。

そんな折りである。

すこしオカルトチックな報告が舞い込んできた。
移植された人の性格、趣味、趣向が移植後に変化している、と言った報告だった。
攻撃的な性格だった人が穏やかになったり、ヘビースモーカーだった者が突然煙草を嫌悪しだしたり、単純に食事の好き嫌いがまったく変ってしまった、など。
そしてそれらのことを詳しく調べていくと、その変ってしまった性格というのが移植元である人物の性格だったりしたのである。

ここからは少し妙な話になる、人間の心はどこにあるのか、という問題である。
大概の人はそれは脳であり、脳が自分自身の性格人格を作り上げていると思っているが。
実際、脳も心臓やその他の臓器と同じ様にただの器官であって、そこに精神があるとは今だに実証できてはいない。
そして人間の体の全ての細胞はどこをとっても同じものであり、それらが複雑な組み合わせを持って違う器官を造り上げているに過ぎないのである。

少々話はそれたが結論を言うと臓器を移植された人には少なからずその臓器を持っていた人の人格に影響を受ける、とそう言った話なのである。

もしくは融合するとでも言えばいいのだろうか?

もちろんそんな話は仮説であって、移植された本人に話を聞いても「なんとなく気分が変った」程度のもので確証などはまったくない。

それでは何故私がこんな話をしているのかというと、実は私は移植元の方の人間なのである。
私の体はちょっとした事故により脳死状態になった。
全ての臓器にドナー登録をしていた私の体は各々の器官を5人の人間に移植されたのだ。
私の精神は死んで、また目覚めることになった。
・・5人の人間の中で。
私も初めは戸惑ったが、徐々にこの感覚を楽しめるようになった。なにせ5人の感覚器を同時に感じることできるのだ。5個の人生を同時に体験しているといった感じだろうか。

そしておもしろいことに5人の内一人の職業が小説家だった、他の者は気付かなかったが、小説家なんてものは少々変っているのか、心に潜む私の存在に気付いたのだった。
他の4人はだんだんと精神が入り交じっていくのが感じられたが、この小説家の彼だけは、私の存在を認めた上でちょっとした協力を持ち掛けていきた。
「他の4人の体験を私に聞かせろ。」
と、そういった話。
小説家にとってリアルな体験ほど、それはいいストーリーに繋がるのだ。
ましてや本人自身の心の中まで体験できたのならそれは凄いものになるだろう。

そんなわけで私は今、パソコンのキーボードを叩き続けている。
頭の中では次から次にストーリーが流れていく。
カタカタとそれを言葉に変換する私。
私?
私とは誰だったろうか?移植された者だったか、その移植元の臓器に宿る者なのか、もしくはどこかで繋がっている誰かの精神なのかもしれない。
子供から大人へ、その精神は幾度となく変化が繰り返されてきた。
昔の精神は新たなる精神に融合され、また別の精神となり今現在の私がここに在る。
しかし私は私だ。
そのことを忘れてしまうとあなたはあなたでなくなる。
あなたがあなたで在る限り、そのことを忘れないように。

電源を切る。おやすみ。



わーむほーる