水の住人

私は7階建てのアパートの一室に帰ってくる。
「ただいま。」
誰も居ない部屋に声をかける。
「おかえり。」
誰も居ない部屋から返事が返ってくる。
部屋は薄暗く水槽のエアーコンデショナーのコポコポとした音だけが聞こえる。
私は部屋の明りをつけ、鞄をソファーにほおり投げパンストを脱ぎながら、
彼に向かって話しかける。
「今日も疲れたわ−。」
「そうかそれは大変だったな、風呂でも入って早く寝ろ。」
水槽の中の彼はそう答える。

水槽の中の彼、これは「アクアピープル」と言う一風変ったゲームなのだ。
ゲームと言っても敵を倒したりとそういったものじゃなく、一時期ハヤったモニターの中で魚を飼うことが出来る、いわゆる水槽シミレーションとでもいうものの発展版なのである。
水槽の中の(とは言ってもこれも高解像度のモニターなのだが)彼は魚の頭部に人間の顔がついた人面魚とでもいうもので、成長してくると今の様に会話を楽しむことも出来るようになる。言葉を覚えていく人工知能が組み込まれているのだ。さらにインターネットに接続することにより専用のプロバイダーにから新しい情報を取り込み成長していく仕組みになっていて無限の成長性が期待できる。

しかし、このゲームはそこそこ売れてはいるがいわゆるゲームマニアの中の話であって、私のようなハタチも過ぎたOLのやるようなものじゃない。
そんな私が何故こんなゲームをやっているのか?
実は付き合っていた彼からのプレゼントなのだ。付き合っていた?そう、もうすでに別れている。彼からの一方的な別れだった。私は諦めがつかず毎晩のように泣いていたが、ふと、このゲームのことを思いだし始めることにしたのだ。
実際、この会話ゲームはおもしろかった。途中そのアクアピープルは私に質問をしていき。私の個人データを覚えていった。なんだか友達になったかのかのような気持ちで、会社から返ってくると毎晩私はこのアクアピープルとの会話に興じた。

既にここにはいない彼、そんな彼の仕事はゲームプログラマーだった。
そう、このゲームを造ったのは彼なのだ。
この企画は彼が立案したもので、彼自身がディレクターの様なこともしていると、彼はそのときこのゲームのことを嬉々として話してくれていた。
しかし開発が進むにつれ彼の顔色が悪くなっていき、私が「大丈夫なの?」と聞いても、「大丈夫、大丈夫いつものことさ心配いらないよ。」と言ってまた会社の方へ戻って行った。

それから数ヵ月、「ついにゲームは完成した」、と彼からの電話があった。私はこれでやっとちゃんとデートできるね、とか言っていたと思う。しかし彼と合うことはなかった。

次の日、彼の死を電話で聞いた。
悪性の癌だったそうだ。開発で弱っていた体に一気に押し寄せたようだと言っていた。

だから私はアクワピープルと話すことでなんとか自分を保ってこれた。そう、彼の造った生き物に。

そのときアクアピープルが私に質問してきた。
「そういや、血液型とかは聞いたけど、名前聞いてなかったな。オマエ名前なんていうの。」
ああ、そういえばそうだった。
私は水槽の上についているマイクに届くように自分の名前を言った。
そのときアクアピープルの声がいつもと違うものになった。聞き覚えのある声。
「やあ、久しぶりだね。急な別れですまなかった。俺は自分が癌であることは知ってたし、それが手遅れであるということもわかっていた。だからね、かねてからの実験を実行してみたんだよ。」
それは彼の声だった。
私は突然のことで涙が出て来て止まらなかった。
そして、私は涙の中、彼が昔言っていた言葉を思いだしていた。
「かねてからの実験」
「人間の脳ってのはね電気信号の流れで出来ている、ただ電気が様々に複雑な経路を通るだけで、それは、人間の想像や思考になるんだ。この電気信号の流れ、これは非常に機械的なものなんだ。だからね、出来るはずなんだよ、人間の脳をコンピューター上に移すことも。」
そのときは何のことを言っているのか分からなかった。
アクアピープルが繋がっているネットのホストコンピューターは言葉をいくらでも記憶できるように記憶容量はかなりの大きさを持っている、という話を聞いたことがある。
その容量の大きさというのは私にはよくわからないが、人間の脳の全てを入れるのには十分な大きさなのだろうか?
いや、私にはよくわからない。
でもそのとき水槽の中のアクアピープルがニヤリと笑うのを、私は、見た。



わーむほーる