記憶

さて突然だが、あなたの一番古い記憶はいつぐらいのものだろうか?

世の中には自分が母親の体内から出てくる瞬間を覚えていたりする人たちもいるようだが、ほとんどの人が「ものごころがつく」と言われる時期までのことをほとんど覚えてはいない。
いや、やっぱり私にはあるよ、と言う人はよく思い出してほしい。その記憶は確かなものなのだろうか。その記憶が後から両親やそのとき遊んでくれた近所のお兄ちゃんお姉ちゃんから、あなたは昔はこんなことしてね、とか、オマエは昔こんなんだったんだぜ、など言われたことに自分で映像を作り、自分自身が見た記憶にしているのではないだろうか。

私にもそのような小さな時の記憶はあるが、なぜかその記憶には私自身を私自身が見ている映像が見えるのだ。
つまりはその記憶は第三者的に見た映像として私の記憶に残っている。

そこで少し考えてほしい、あなたは昔を思い出すとき、
「ああ、あのとき私は馬鹿だったなぁ。」
「なぜ僕はあのときああいうこと言ってしまったんだろう?今の僕なら絶対反対するはずなのに。」
などと、思うことが多々あるだろう。
それは何故か?
成長していろいろなことを学び間違いを正してきたからである。
これはほぼ正解だろう。
しかしそう言い切ってしまうと少し矛盾が生ずる。

生まれてすぐのころから言葉を覚えるまでの間は膨大な量の学習をしなければいけないので、この時点で第一段階の性格づけが成される。
これはなんとか納得がいく。小さいころの家庭の状況によっては子供の性格は本質的なものがどうであれ、家庭で与えられる情報により決定される。

しかし、ある程度常識を覚えた小学生ぐらいから高校生ぐらいの間でみると学習の量(人間関係や社会適応のための学習も含む)は圧倒的に年齢が高くなるほど増えている。
だが高校生活の中で性格が一変した人間はあまりいないんじゃないかと思える。むしろ小学生くらいのときの友達に久しぶりに会ってみると、外見的な変化はもちろんのことだが性格的にもかなり変わっている人が多いことに気付く。
「泣き虫だったオマエが今じゃ鬼部長なんて呼ばれてんのかよ、信じられないね。」
というアレである。
私も同窓会というのにたまに顔を出してみたりするが、高校、中学の同級生というのは子供ができたりといろいろ変化はあるが本人の性格というのはほとんど変わっていなくて昔と同じように話ができたりする。

そこで私が考えたのは第二段階の性格の変化がどうも小学生のあたりにありそうだということである。
私自身生まれて幼稚園に入り小学校の3〜4年くらいまでの間の記憶がとても薄くほとんど覚えていない時期がかなりの割合を占めている。まるでそのころの自分は別人じゃないかと思うぐらいに。
これは人によってはかなり差のある時期だと思うが、たしかに全ての人にあることだとと思う。
その時期というのは、本能のみで動いていたときだ。楽しいことをし、嫌なことがあれば泣き、我慢をすることもない、周りの大人たちが守ってくれていたのだ。
そんな時は深く思考することもなく記憶も大雑把に残される、楽しい時は早く過ぎる。そんな感じで記憶も薄いのだと思う。

そのような時を経て、突然記憶がはっきりしてくるところがある。記憶というよりは深い思考、自分自身との対話とした時である。
私はこのときに人生を決める性格というものが発生するときであると思うのだ。

この原因というのも人それぞれだとは思うが、それは心が揺さぶられた時、先生が本当は偉くなんかないと分かったとき、クラス全員からのイジメ、とんでもなく面白い本、ウソみたいな音楽、初めての恋、自殺をやめたとき、いろいろだろう。

そんな時、人はとても深く深く考える。そのときやっと自分自身を気にするようになるのである。

私はいったい何者なのか?
これでいいのか?
じゃあどうすればいい?

そうして自分について考え出したとき新たな人格が形成される。
生まれ変わるといってもいい。
そうまったく別人に生まれ変わるのだ。

そういう風に考えると私はこれまで2つの別人格を持っていた。ものごごろが付くまでの幼児期と小学5年のころ精神的変化を迎えるまでの時期、そのころの自分はまったくの別人であって、もしタイムマシーンがあってそのころの自分に会えたとしても分かり合えることは絶対にないだろう、おたがいに怒りだすかもしれない「君とは話にならないね!」

ここまで考えてふと思ったことがある。
「もう人格の変化は起こらないのだろうか?」
どうなんだろうね。
どうだい君は何個目の人格なんだい?

そういえば最近少し記憶が途切れることがあるんだけど、もしかしたら新しい人格がそこまで来てるのかもね。

あっ

わ〜むほ〜る