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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.94〜P.97)

第十二話(一九九○年三月四日 富士山総本部)

 まず、君たちが絶対的に押さえておかなければならない、四つの修行というものがある。
 その第一は、ヒナヤーナの修行である。第二は、マハーヤーナの修行である。第三は、タントラヤーナの修行である。第四は、ヴァジラヤーナの修行である。そして、この四つの修行は、その一つ一つの目的、これは同じであって、実際に結果が違うという、まあ、大変不思議というか、大変わかりづらいというか、そういう修行体系である。そして、それは密教体系の中にすべて含まれている。
 まず、第一に考えなければならないこと、それは修行の目的とは何かということである。修行の目的とは何か。これは、個人、あるいはグループ、あるいは全体−−この個人・グループ・全体が、絶対的な自由を勝ち取ることである。では、いったいこの自由というものは何であろうか。
 わたしが先程、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナにおいて、「目的は同じであって、結果が違う」と言ったのは、ここである。
 まず、ヒナヤーナの目的、これは個の自由である。マハーヤーナの目的、これはグループの自由である。そして、当然そのグループの中に個人は存在しているわけだから、個人の自由といえないことはない。次に、タントラヤーナ、これも同じようにグループの自由、そして個人の自由を目的としている。ヴァジラヤーナもしかりである。特に、このヒナヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナ、この三つは個人の自由というものに、まず力点が置かれる。マハーヤーナにおいては、個人の自由よりもグループの自由というものに力点が置かれる。
 では、ヒナヤーナとタントラヤーナ、ヴァジラヤーナは、これは同じだろうか。実際、これは同じではない。それはちょうど、このような比喩によって理解することができる。
 まずヒナヤーナは、もともと干渉する要素というものの存在、これはそのまま存在し続けているわけだけれども、その存在を認めない。認めないというのはどういうことかというと、そこから逃げると。そして、個の自由の状態をつくり上げようとする。
 タントラヤーナとは、では、どのようなかたちで自由をつくり上げるのか。これは、干渉の存在を認め、それを十分に楽しみ、その中に没入する。そして、満足し切った状態をつくり上げると。満足すれば飽きると。飽きた状態で離れると。これが、タントラヤーナから生じる自由である。
 では、ヴァジラヤーナとは何だと。これはいっさいの干渉する要因、それを肯定する。そして肯定していながら、それといっさい無干渉の自分自身の心をつくり上げていくと。その情報に左右されないと。金剛の心をつくると。絶対壊れない心をつくると。これがヴァジラヤーナである。
 つまり、自由という点においては同じである。しかし、ヒナヤーナの自由は、逃げても逃げても強烈に干渉されるような環境にあるならば、当然それは破壊されてしまう。タントラヤーナは、経験をし、満足し、そこから離れる。しかし、離れた段階でもう一度欲求が生じたならば、当然それも崩れ去ってしまう。そして、ヴァジラヤーナは、いっさいの干渉に対して絶対に動かない、壊れない心をつくり上げるわけだから、それに対して、最も完壁な心をつくることになる。そして大乗の修行は、このタントラヤーナ、ヴァジラヤーナを、ゆっくりゆっくりと、この現象界のスピードに合わせて修行を進める修行である、と言うことができる。
 ということは、結論は何かと。それは、いっさいの心を動かす要因から完全に解放され、そして自由になることである。
 オウム真理教を批判する雑誌・テレビで、よくこういう内容がある。それは「自由を奪っている」と。しかし、今、わたしの説く自由と、それからマスコミの説く自由とでは、自由の意味合いが違う。
 わたしの説く自由とは何か。それは、先程も述べたとおり、いっさいの五感の制約、いっさいの表象・イメージの制約、いっさいの思いの制約、いっさいの意識の制約、そしていっさいの欲求の制約といったもの、これらから解放されること、これをわたしは自由と説く。
 ところが、一般社会の説く自由というのは、いっさいの干渉、この干渉によって揺り動かされることを自由と説く。イメージによって揺り動かれることを自由と説く。意志によって、意識によって、あるいは欲求によって動かされることを自由と説く。
 ここに、大きな違いがある。つまり、自由という一つのワードを使っていて、実際は全く反対のことを説いている。では、どちらが利益があるのだろうか。
 いっさいの情報−−このいっさいの情報というものは、わたしたちの心に対して、いろいろな欲求を巻き起こさせる。そして、それによって動いた心は、止めどもなくAからB、BからC、CからD、DからEへと動いていく。そして、それは終わることを知らない。
 では、その状態でこの世を去ったとき、いったい人の魂というものはどうなるのだろうか。死後の世界を知らない、無智なる凡夫、争いは外道は、その死後の世界を知らないから、今この世を満足すれば、それでいいと考える。
 しかし、死後の世界をきちんと知り、そしてカルマの法則を理解している者は、このように考える。「死ぬ前の制約と同じように、死後にも制約があるんだ」と。その制約は先程も述べた、色・受・想・行・識という五つの集まり、五蘊から影響を受ける。そして影響を受けたその魂は、その情報によってとんでもない方向に飛ばされ、ある者は地獄、ある者は餓鬼、ある者は動物へと落ちていく。
 そして、わたしは、もう一つの自由を君たちに与えるために登場した。それは、いっさいの目から入るデータ、これから解放されること。耳から入る音、これから解放されること。嗅覚から、あるいは味覚から、あるいは触覚から解放されること。わたしたちの最終の目的、それは絶対に壊れない心をつくり上げることである。いかなる情報を入れようとも、いかなる条件であろうとも、壊れない心をつくり上げることである。
 今、オウム真理教では、タントラヤーナの道を肯定していない。なぜならば、これは落ちていく道だからである。もちろん、君たちが絶対的な自由に到達したならば、それはタントラヤーナであろうと、ヴァジラヤーナであろうと、あるいはマハーヤーナであろうと、選んでもいいと考える。しかし、本質を見失う状態である以上、ヴァジラヤーナあるいはマハーヤーナといった、危険性のない、そして絶対的に自己を確立できる、しかし苦しい道を選ぶ。これが最も理想だと考える。
 絶対的な自由の境地を得た者、絶対的な幸福の境地を得た者、ここに到達した者の意識状態というものを、言葉で表わすことはできない。君たちは、今日わたしが話した、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナの長所、あるいは欠点について十分に熟知し、そして自分たちの修行、自分自身の修行に、いったい、この四つの修行法のどれを選べばいいのか、十分に検討しなさい。
 そして、最終的にはタントラヤーナも、ヴァジラヤーナの道に入っていかなければならない。なぜならば、このタントラヤーナの最終地点というものは、第一涅槃だからである。そして、ヴァジラヤーナの最終地点というのは、マハー・ニルヴァーナだからである。この深い意味については、また後日、もっと多くの弟子たちが存在しているとき、君たちに話すようにしたいと考えます。
 修行者というものは、何を考えなければならないか。それは、すべての情報から解放されること。そして、絶対的な真理である、「すべては変化する。絶対に固定されるものはない」ということを知ることである。そして、その変化に対して、いっさい動かない心の働き。崩れない−−例えば、幸福であったとして、その幸福が崩れない。例えば、安定していたとして、その安定が崩れない。例えば、歓喜の状態であった上して、その歓喜が崩れない−−。そういう心をつくり上げること、これが修行者の目的である。
 しっかりとやりましょう。


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