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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.87〜P.93)

第十一話(一九八九年十一月四日 富士山総本部)

 今日は四時ちょっと前ぐらいから、君たちがふだん受けているアーモンドの修法を、今までね、まあ途中で小さな用事がいくつかあったけども、行なったわけだけども、まあ雑念が今日は五回ぐらい出てきたね、その中で。で、今日は何の話をしたいかというと、欲について話したいと思います。
 君たちは欲を肯定する立場にあるか、あるいは否定する立場にあるかと聞いた場合、どう答えますか。おそらく、教学を全くしていない人はわからないと。教学を少ししている人は、いや、それは欲は否定すべきであると。教学をよく行なっている者は、いや、それは条件によって、欲を肯定し、条件によって欲を否定すべきであるというふうに考えるだろうと。つまり、欲求の方向性が大切なんであって、欲求そのものは意味がないんだということだね。
 じゃあ、欲求の方向性が大切とは、いったい何だろうかと。ここに空腹な者がいたとしようと。そして、「ラーメンが食べたい、ラーメンが食べたい、ラーメンが食べたい」と念じたと。そして、その欲求はあるけども、ラーメンが食べられなかったと。他に食べる物もなかったと。そして、一日が過ぎ、二日目、目の前にラーメンが出されたとしようじゃないか。そして、それをすすって食べたと。どうだ、君たちは。このときにこの空腹を感じていた人は歓喜すると思うか、しないと思うか。そうだ、そのとおり歓喜するよ。「わたしは食べた」と、「ラーメンを食べた」と。おいしいと思う。
 ところがもし、ここに空腹な人がいたとして、その人は空腹について、何の心の働きも生じなかったとしよう。そして、一日が過ぎ、二日目にラーメンが出されてラーメンを食べたと。これはどうだ。「あ、わたしはラーメンを食べた」と。そこに歓喜は生じるか生じないか。つまり、欲求というものは、その行為に至るときの心の状態をもうすでに表現しているということができると。
 では、ここに修行者がいて、「自分は修行したいんだ、修行したいんだ、修行したいんだ」と考えてると。
 あるいは、「ワークをしたいんだ、ワークをしたいんだ、ワークをしたいんだ」と考えてると。そして、「功徳を積むぞ、功徳を積むぞ」とふだんから考えてると。そういう人がいたとしよう。そして、初めのうちは三時間、四時間しかワークをさしてもらえなかったと。あるいは功徳を積む時間がなかったと。あるいは瞑想する、修行をする時間がなかったと。ところが、例えばその人が欲求していて、一日中瞑想できるようになったと。このとき、この人は喜ぶと思うか喜ばないと思うか、どうだ。
 ところが、ここに修行者がいて、これは修行者というのは名ばかりで、ただ淡々と生きていると。何の欲求ももっていないと。そして、日々の生活に追われ、何となく一日が過ぎると。今日も一日ワークが終わったと。明日も一日のワークが終わったと。この状態で、「はい、あなたは瞑想修行に入りなさい」と言ったとき、その人は瞑想修行において「うれしい、わたしは瞑想修行ができるんだ」という欲求、あるいは、喜びが出ると思うか。
 君たちに質問をしたい。もし、この人間の世界に川の流れがあるとしよう。この川の流れの世界は上流と下流があるとしようじゃないか。つまり、上流と下流というのは何を表しているのかというと、要するに川の方向性を表していると。川の流れの方向性を表していると。いいかな。そして、この川の流れの方向性がだ、地獄に向かって流れていると思うか、それとも天界へ向かって流れていると思うか、どうだ。
 よし、ではもう一つ質問しよう。この地獄に向かって流れている川の流れを、上流に泳ごうとした者がいたとしようじゃないか。もし、その人が全力で上流に向かって泳いだとしたら、どこへ行き着くと思うか、どうだ。当然、天界を越え、マハー・ニルヴァーナに行き着くわけだね。
 ということはだ。川の流れは下流に向かっていると。その下流に向かっている川の流れに対して、上流に向かって全力で泳ぐとした場合、どうだ、君たちは、大変だと思うか、大変じゃないと思うか。そして、放っとけば下に流されるか、それとも上へ流されるか。 そして、じゃあ、川の流れと同じくらいのスピードで上流に向かって泳いだらどうなる、どうなると思うか。止まっているかのように見えるね。しかし、実際は止まっているか止まっていないか。実際は、川は下流に向かって流れていると。しかし、その人だけは上流に向かって流れていると。ただ、その人のスピードが遅いから、止まっているかのように見えると。
 つまり、ここはポイントだよ。修行には三つあるということだ。何かというと、第一は、川の流れには逆らい切れないけども修行していると。例えば、一日五分、十分マントラを唱えてると。これはTMなんかがそうだけどもね。徳を積まないで、ただ単にマントラを唱えてると。これは、川の流れに逆らおうとはしているけども流されてると。しかし、他の人に比べて流れていくスピードは遅いと。よって、落ちる世界はどうだ、世界の中でも高いと。
 いいか、じゃ次にだ、第二の修行者のタイプは、川の流れと同じスビードで逆向きに泳いでいると。よって、止まってるかのように見えると。この人は最も人間的な人だと。最も情のあふれる人であるということができる。どうだ、この人は。この人は、しかし永遠にそのスピードで泳いでる限り、マハー・ニルヴァーナに到達することはない。
 そして第三番目に、川のスピード、下流に流れる川のスピードよりも強い速いピッチで泳いでると。この人はどうだ、その人のスピードによって、一生、あるいは十生、あるいは百生、あるいは千生にてマハー・ニルヴァーナに到達するだろう。
 そして、ここでいう川の流れとは何かと。それは煩悩だ。しかも、その煩悩は君たちがふだん意識している、例えば性欲とか食欲というだけの煩悩ではない。例えば、睡眠に対する欲求もあるかもしれない。例えば、名誉に対する欲求もあるかもしれない。例えば、地位に対する欲求もあるかもしれない。例えば、排斥したいと願う心の働きかもしれない。例えば、貪りかもしれない。例えば、真理を全く理解できない、そして現世的な、一時的にわたしたちを満足させるけども、本質的にわたしたちのエネルギーを低下させる、そういう欲求をよしとする心の働きかもしれない。すべては煩悩である。そして、煩悩の川の流れは、上流から下流に向かって流れてるんだということを意識しなければならない。そして、放っておけば必ず落ちる。必ず行き着く先は地獄である。
 しかし、わたしがこのような話をしたとしてもだ、君たちの中で理解できない人もいるかもしれない。そして、これを本当に理解できるようになるためには、君たちが功徳を積み、そして日々の瞑想修行、その瞑想修行にいかに心を乗っけるかということだ。
 例えば、「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」と。これを単に唱えるというんじゃなくて、本当に「ああ、自己が苦しいときこれを喜びとしよう」と。そして、「他が苦しんでいるとき、本当に苦しみとしようじゃないか」と。そういう意識でマントラを唱えているかだ。
 あるいは、「ホー、湖面に映る虚像のような、様々な幻影に引きずられ、輪廻の大海を浮沈する生き物たち。彼らすべてが絶対自由・絶対幸福なるマハーヤーナにて安住することができるよう、四無量心込めて大乗の発願をいたします」。このような唱え方をするのか、ねえ、その「ホー」という言葉、そのヴァイプレーションに自己の四つの無量心を乗っけたいと。そして、いっさいの幻影、先程言った上流から下流へ流れていく煩悩の流れに引きずり込まれ、もがいているその魂を見て、本当に衰れだと、早く上流に向かって泳ぎなさいよと、お手伝いするからと、そういう気持ちが持てるかどうかだ。
 つまり、わたしたちは止まっている、悪業をなさないと、例えばしようじゃないか。悪業をなさないかのように見えていても、実際は下流に流れているんだということを意識しなければならない。そして、徳を意識して積む。心の浄化する瞑想を意識して行なって、初めて上流に向かって泳ぎ出したんだと。あるいはワークにおいて、その意義を見いだす。例えば、自分は大乗の船の一部分を担ってるんだと。自分がもしこのパートを外したならば、この船は沈没するかもしれないと。全力で、全精力を傾けて、今与えられた自己の功徳を積める場を守るぞと、そして一生懸命積むぞと、これを日々認識できるかどうかが、君たちが上流に向かって、遠い遠い遠い最上流のマハー・ニルヴァーナに到達できるかどうかの、ただ一つのポイントであるということを認識しなければならない。
 この世において、真理というものがある。真理とは何かといったら、金があると、そうするとある程度の人は動くという真理だ。しかし、そんなものは本質的な真理ではない。なぜわたしがこの世と言ったかっていうのは、そこにある。本質的な真理、それは何かと。わたしたちは必ず死ぬんだということだ。わたしたちは必ず病むんだということだ。そして、老いるんだということだ。そして、この三つの軍勢、あるいは心に生じてくる苦しみとか悲しみとか憂いとか、そのような軍勢を打ち破ることができるのは、先程言った、意識するということ、そして意識して心のけがれを取り除くということ、意識して功徳を積むということだ。そして、これが大乗の功徳の積み方のベースの考え方であると。
 そして、ここがポイントだね。すべての修行の背景にあるもの、これは、すべての修行というのは、ここでは一応三つを挙げとこう、大乗、そして金剛乗、ヴァジラヤーナだね、マハーヤーナ、ヴァジラヤーナ、タントラヤーナ、真言乗だね、この三つの背景にあるものは利他の心である。自己をいかに捨て、そして他を救済することができるかどうか、これが修行のポイントになってくる。それに反して、ヒナヤーナは自己の安祥、自己の平安、そして自己の自由を考える。
 よって、ま、この中にも新しいシッシャ、あるいは長期バクティの者がいるみたいだけども、よく考えなければならない。それは何かというと、今わたしはヴァジラヤーナの一部を説いた。しかし、法というものは、ダルマというものは、その背景に絶対的な真理を守護する、あるいは絶対的な真理に到達する、あるいは絶対的な真理に向かっている人たちをいち早く導く、そのような心を最高の崇高な心だといっている。
 とはいっても、まだ自己の苦しみに没入している者が、他の苦しみを理解できようはずがない。あるいは、他の苦しみを救済できようはずがない。それも一つの真実だ。しかし、自己の苦しみは苦しみとし、他の苦しみ、他の憂いを自己の修行の根本と置くことができるならば、その人はすでに大乗としての種子が植え付けられているといえよう。
 そして、いかなる方法においても、いち早く他を最終の地点まで導こうと考える心、これをヴァジラヤーナの仏陀の心、あるいは菩薩の心、あるいはタントラヤーナの仏陀の心、あるいは菩薩の心という。そして、危険なく一緒に、しかし確実に行こうとする心、これを大乗の菩薩の心、あるいは仏陀の心という。そして、行き着く先は何かといったら、マハー・ニルヴァーナである。
 今日はちょっと難しい話をした。しかし、教学のできている者、きちんと教学のできている者はわたしの言いたい内容について、あるいは法の裏側にあるもの、法の奥にあるものについて理解できたはずだ。しかしもし、教学をろくにやらないでふだんから煩悩的な思考にとらわれてる者は、そしてその川の流れをよしとしている者は、今日のわたしの話を聴いたとしても何にもわからないと。
 最後に、例えばここに修行者がいて、その修行者が三年間、一生懸命上流に向かって泳ごうとしたとしようじゃないか。しかし、もう疲れたと、自分は川の流れに身を任した方がいいんだと考えたとしよう。この人の来世はどうなると思うか。どうだ君たちは。来世の真理に対する縁はどうだと思うか。
 ある坊さんがいて、この坊さんが他の−−これはインドの話だけどね−−他の教団の者につかまったと。これはイスラム教の人間だね。そして、その坊さんはいつも「仏・法・僧に帰依いたします、仏・法・僧に帰依いたします、仏・法・僧に帰依いたします」、これは、「オーム・ナマ・プッダヤ、オーム・ナマ・ダンマヤ、オーム・ナマ・サンガヤ……」と、このマントラを唱えてたと。お前がそのマントラをやめたら、いいかな、殺さないと、しかし、やめなかったら殺すぞと言われて、殺された坊さんがいると。どこへ行ったと思うか、君たちは。それだけ信があったんだから、相当の高い世界へ行ったんじゃないかと思わないか、どうだ。これは、仏典では とう利天に行ったことになっている。
 ということは、たかだか三年修行をやって、そして、まあある程度の霊的経験をして、それをドロップアウトして、そしてその川の流れに身を任せ、現世の−−特に近ごろ現代はけがれているから−−に身を完全に任した者はどこへ流れ着くと思うか、君たちは。どうだ。地獄に行くかもしれない。餓鬼に行くかもしれない。あるいは動物へ行くかもしれない。
 そして、わたしは、今最も厳しい修行をしているオウムの信徒のレベルで、よっぽど徳が高くないと天界へ行けないと思うね。次に、ある程度修行してれば人間界だと。しかも、そのある程度も、かなりのペ−スである程度だね。そして、オウムの信徒でも修行しなかったら当然落ちるだろう。それは信徒とは呼べないから。なぜかわかるか。信徒とは法を信じ、グルを信じ、そして法友を信じ、一生懸命修行する人を信徒という。そうじゃないか君たちは、どうだ。ところがそれができなければ、それは信徒とはいえない。単なる入信手続きをなした人ということになる。
 そして、君たちは、わたしから見てても大変な泳ぎを行なっていると。上流に向かって一生懸命泳ごうとしてると。そして、君たちが早く最終地点、マハー・ニルヴァーナに着くことを祈って、今日の法話としたいと思います。


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