TOPヴァジラヤーナコース教学システム>内容

●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.69〜P.76)

第九話(一九八九年九月十二日 富士山総本部)

 仏陀が、あるいは偉大な菩薩が法を説くとき、二つの時期がある。その第一の時期は、弟子たちが真理を心から追い求め、その法を聴きたいと。これを「求められて説法する」という。第二の、法を垂れるときの時期は、弟子たちがどんどん下に落ちていき、そして、この期を逃してしまったならば、多くの弟子たちが真理から逸脱するだろうと、落ちてしまうだろうというときの説法である。これを「歯止めの時期の説法」という。そして今日の講話は、その第二のパターンに当たる。
 今月の初めから今まで、わたしの知る限り、二名の破門、そして五名のシッシャが落ちていった。
 言葉について、まあわたしは、今東京と富士を行き来してるわけだけど、言葉についてよく近ごろ瞑想してるんだけどね、なぜ落ちていったといえるんだと。落合、なぜ落ちたといえるか。隅田はどうだ、それについては。隅田、どうだ。
(隅田)本来シッシャとして解脱を目指すという求道心を失って、迷いの生に戻ってしまうという意味で落ちたといえるんではないかと思います。
(尊師)堀田さんはどうだ。
(堀田)はい。真理に巡り合っているっていう、高い世界へ向かおうとしている者が、現世にまみれるという、低い世界に向かっていってしまうので、やはり落ちていってしまうっていう表現になるのだと思います。
(尊師)落合君、隅田君、堀田さんの三人の解答は五十点だ。
 では、なぜ五十点だと。それは、今の瞬間しか見ていないと。わたしが、ま、ここでは脱走したとか、いろいろ話があるけども、大変ナンセンスな言葉の使われ方をしてると思うんだね。そしてこの言葉というものは、大きな意味合いがあり、そして大きな含みがあると。
 なぜわたしが落ちるという言葉を使い、みんなが脱走するという言葉を使ってるかと。この言葉をよく考えてみよう。
 まず脱走するという言葉から検討すると、脱して逃げると。あるいは脱して走ると。つまり、ある力によって制約されてるものが、そこから逃げ出し、解放されてると。これが脱走の意味合いである。
 しかし、例えば今月の初めから今までを見てわかるとおり、オウムは何ら外的な力を加えてはいない。よって、脱走は当てはまらないと。そしてこの空間が、自分で選んだ空間であることが間違いない以上、脱走という言葉はよりいっそう当てはまらなくなってくると。
 では、なぜ落ちるといえるんだと。それは、落合、隅田、堀田の三人が言ったとおり、まず第一には今のステージをキープできなくなると。そして落ちると。しかしそれだけではない。落ちた人たちは、二度と高い世界へ昇ることができなくなると。そして、三つの悪趣、地獄・餓鬼・動物に生まれ変わることは間違いないと。
 では、なぜ地獄・餓鬼・動物に生まれ変わることが間違いないんだと。いいか、なぜ地獄・餓鬼・動物に生まれ変わることが間違いないんだと。この世を構成しているもの、この現世を構成しているものを君たちはどう考えるか。暴力、どうだ。あるいは小さい生さ物に対する嫌悪、殺生、どうだこれは。これは、わたしたちを地獄の世界へと導く。これは認めるか。
 では第二にだ、貪り、テレビ・雑誌・いろんなもので、近ごろはマンガにまで食べ物の話が出てくる。おいしい食べ物は、何とかは、かんとかはと。そして例えば、食べ物の中で刺し身などは殺生プラス餓鬼であると。どうだこれは。認めるか。
 次は無智だ。真理に対する教えのデータをどんどん入れていくんではなくて、そして、その場その場の楽しみ、快楽、これはセックスも含めたね、快楽、ま、セックスは人間本来持ってるものだから、罪の中ではそんなに重たいものではないけど、より外側に向かう快楽、スポーツ、レジャー、こういうものがこの世の中を構成している。どうだこれは。 そして現世に対して執着し、現世に対して帰っていきたいと考える人は、この三つの要素が強い人であると。どうだ。せいぜいが情であると。情というのは、人間本来が持ってる、その三つよりもレベルの高い、しかしわたしたちを人間界に固定させてしまう、偏った個に対する執着。これが情であると。どうだ。
 そしてこの三つ、そして四つ目の情、これを比較するならば、当然、初めに挙げた三つ目の方が強いと。どうだこれは。情の話が今のちまたの中であるかといったら、あまりないよね。今は、地獄・餓鬼・動物のデータが大量にあるわけだ。そして、この世界へ彼らは帰っていき、何を考えるのかと、何を話すのかと、そして何をなすのかと考えたら、この三つの煩悩を満足させる生き方をなすわけだ。どうだそれは。ということは、彼らは三つの悪趣に生まれ変わるわけだ。これは君たち、脱走だといえるか、それとも落ちるといえるか。
 そして、わたしは彼らに対して大変な悲しみを感じる。本当に、ねえ、君たちがいなかったら、多くの涙を流すだろう。なぜなら、もう彼らは済度されないんだと。そして彼らは、今から地獄・餓鬼・動物の三つの苦しみを受けるんだと。そしてこれが、菩薩の悲である。
 わたしが政治に立とうとしたのも、宗教だけでは済度するスピードが遅いと。だから政治的な力を使って、何とか早くシャンバラ化計画を進めたいと。もちろん、わたしの生きてるうちにすべてが完成するとは思っていない。しかし、できるだけのことはやらなければならないと。
 そしてわたしは、今落ちていった人たち、こういう人たちかある程度出ることは覚悟していた。しかし、そろそろ食い止めなければならないと考えている。では、どのようにしたら食い止められるのかと。それは君たちが、今日の説法を何度も何度も聴き、これから話すことも含めてね、そして自分の心のあり方、言葉、そして行為というものを再チェックしない限り、オウムは崩壊に向かうだろうと。一人一人が、菩薩の本当の愛、そして哀れみの修行をしない限り、崩壊に向かうだろうということだ。特に、ステージの高い者たちが心を乱していては、いかんともし難いと。
 何ゆえに菩薩なのかと、何ゆえに修行者なのかと、何ゆえに凡夫なのかといったらね、ここで三つの言葉をわたしが使い分けてる背景には、菩薩はある段階までの修行が終わり、そして心の成熟の修行に入ってると。その修行というものは、平等心・愛・哀れみであると。そして、ここで止めてしまうと、編集がまた誉め称えることを抜かしたじやないかというからつけ加えるけども、平等心・愛・哀れみであると。今日の話はこの愛・哀れみについて話したいと考えているから、平等心を抜かして愛・哀れみといってもいいだろう。
 そして菩薩の悲しみというのは、菩薩の悲というのは何かといったら、そういう落ちていく魂に対する哀れみであると。仏教が本当に廃れた背景には何かあるのかと。それはこの哀れみ、あるいは愛の心が消滅したからであると。つまり、仏教徒が修行者になってしまったからであると。
 では、修行者と菩薩の違いは何だと。修行者とは、自己の苦悩を滅却するための修行をしている人と。菩薩というのは、自己の修行もそうだけども、ある段階に行き、心を成熟させるための愛・哀れみの実践をしている人ということができよう。何度も同じことを言うけど、そしてその中の哀れみというのは、すべての魂が苦しみから本当に解放される、落ちていくことから本当に逃れると。
 三悪趣の世界の喜びというのは、覚醒剤と同じである。瞬間瞬間を楽しませてくれる。しかし、それはあくまでも瞬間瞬間であって、わたしたちを確実に三つの悪趣に生まれ変わらせてくれるんだと。それを知っている菩薩が、なぜすべての魂が三悪趣の道を選ぶんだと。なぜ、すべての魂は真理に気づかないんだと。そしてこの心の働きこそ、心の本当の功徳である。
 もしわたしの弟子たちが悲、悲しみ、大悲、大きな悲しみについて考え、それを実践するならば、落ちる人はいなくなるだろう。ところが、今の大師も含めて、シッシャの心は外側に向かっている。
 神通の中の最後の神通、漏尽通というものがある。これは、他の煩悩状態を見るだけではなく、自己の煩悩を完全に滅却した状態である。そして、この現世にいて現証すると。現世にいて現証するとは何だと。これは、この現世にいて、いいですか、煩悩の生じない状態と。現世にいて、仏陀の状態をキープできる状態と。これが漏尽である。そしてそれは、心の働きを完全に知り尽くしたとき起きる。そしてその漏尽を持ってる者は、現世にまみれても全く煩悩を受けないと。
 ところが、大師の修行の甘さ、これが原因して、すぐグルがいろいろとこういうふうな講話をなさないと、心が乱れてしまう。そして自分の感情に支配されてしまう。ところがだ、大師はエネルギーも強い、心の働きも強いから、その影響を受けると、シッシャは。 そして、スッカー、お前に質問しよう。心のなす業と身のなす業とではどちらが重たいか。どうだ。
(スッカー)身のなす業が重いと思います。
(尊師)身のなす業が重たいか。
(スッカー)はい。
(尊師)ではカンカー・レーヴァタ、心のなす業と身のなす業はどちらが重たいか。
(カンカー・レーヴァタ)心のなす業の方が重いと思います。
(尊師)ではヴァンギーサ、身のなす業と心のなす業はどちらが重たいか。
(ヴァンギーサ)心のなす業の方が重いと思います。
(尊師)ではマハー・マーヤ、身のなす業と心のなす業はどちらが重たいか。
(マハー・マーヤ)心のなす業の方が重いと思います。
(スッカー)すいません。言葉が足りませんでした。一般凡夫の場合は、身のなす業の方が重いと思います。
(尊師)そして、心のなす業の中で排他的な心、これは地獄へ通じる。破壊的な心、これは地獄へ通じる。あるいは貪る心、これは餓鬼へ通じる。あるいは無智を喜ぶ心、これは動物へ通じる。あるいは偏った見方によって執着する心、これは人間へ通じる。あるいは闘争に明け暮れる心、上を蹴落としてやろうとする心、これは阿修羅に通じる。そして自己のカルマに満足している心、これはデーヴァ、天界へ通じると。そして菩薩の心は、そこから離れてるんだ。
 わたしは近ごろ、よく夜摩天と会話をする。例えば、わたしはヴァジラヤーナのイニシエーションを行なうと。これはどうだと。これは身における悪業をなしてるわけだと。例えば、頭からエネルギーを抜くために、叩くわけだからね。当然、この行為は地獄へ通じるだろうと。どうだと。そのとおりだと。お前は悪業をなしてると。そうかと。では、お前は菩薩の心というものが理解できるかと。その背景にある愛、あるいは哀れみについて理解できるかと。それに対して答えてみろと。お前はわたしの身の行ないについて、裁くことはできるだろうと。しかし、お前は、わたしの心の働きを理解できないと。だとするならば、夜摩天であるお前が菩薩を裁くことは、悪業になるか善業になるか考えなさいと。わたしはこのような話を、近ごろよくするんだ。
 そして君たちが、いいかな、本当に慈悲を持つ。日々、慈悲を意識する。わたしは菩薩の心を今日は保持できているだろうかと。そしてこの心の働きを、心に明を保持するという。心に光を保持すると。これは瞑想としては、光の瞑想と同じだ。光を自分の心の中に入れていく瞑想と同じだ。最高の光、それは慈悲たからである。
 そして、古いシッシャが、新しいシッシャが来たとき喜ぶと。一人の、これで三つの悪趣から解放される魂がやってきたと、これはシヴァ神と仏陀の意にかなっていると、素晴らしいことだと、わたしたちに法友が一人できたと、心から喜んであげる心を持つ。一日前に来た人は、もうそれだけ先輩だから、心から喜んであげると。良かったなあと。また一人、真理に目覚め、出家した人がいると。このように皆が考えたならば、本当にこの大乗の輪というものは正しく発展するだろう。
 しかしそうではなくて、わたしも苦しいのに、わたしも現世へ帰りたいのに、また一人入ってきたと。この人も苦しいだろうなと考える。そうすると、苦しみの波動がどんどん強まる。
 例えば、ここに一匹のライオンがいたとしよう。このライオンが心に発願し、わたしは殺生をしないで生きようと、わたしは今ライオンであると、わたしは殺生をしないで生きようと、そう考えたと。そして目の前に、鹿が通りかかったと。そのときそのライオンはおなかがものすごく空いてたと。しかし、その鹿に襲いかからなかったと。それを速くで見ていたライオンの群れがあったと。あのライオンはなんて馬鹿なんだと。目の前にあれだけおいしいえさが通りかかったのに、なんて馬鹿なんだと。そしてその鹿を、その大群は追っかけて、すべて食べてしまったと。殺してね。
 どうだ、君たちは。だれが悪業をなさず、だれが悪業をなしたと思うか。だれがいい世界へ行き、だれが落ちると思うか。空腹に耐え、鹿に襲いかからなかったライオンこそが、地獄のカルマを破り、高い世界へ行く。そして、鹿に襲いかかったライオンの群れこそが、殺生のカルマによって落ちていく。どうだこれは。
 これと同じように、人間の意識レベルも全く同じである。人間の見ているものは、人間のカルマによって見ている。よって、それは真理ではない。修行の途上にある、阿修羅のカルマを持ってる者が、人間界までは脱却したと。しかし阿修羅であると。その者がその目で見たとして、それは阿修羅のカルマによって見てるわけであって、それも絶対的な真理ではない。人間界の真理に比べれば、それは大いなる真理といえよう。そして、デーヴァがデーヴァの目で見ると。それは阿修羅に比べれば、真理に近い。しかし真理ではない。
 では、何をもって真理といえるんだと。それは、すべてを知っている者。欲界・色界・無色界の構成を知っている者。世界の創造・維持・破壊を知っている者。そして、すべてのものに執着せず、離貪してる者。なぜならば、もし君たちが修行者として、真理を学んだ者としてライオンの動きを見るならば、襲いかかったライオンに対して哀れみを覚えるだろう。なんて彼らは馬鹿なんだと。彼らはこれによって、三悪趣へ生まれ変わる一つの因を作ったと。そしてその条件は空腹であると。
 では次にだ、この条件、縁というものを君たちは貴重なものだと考えるか。どうだ。どうしてこの縁を貴重なものだと考える? わたしはそう考えない。この縁を滅してこそ、つまり空腹という感覚がなければ、彼らは殺生する必要なかった。だからこの条件を滅してこそ、本当の真理に到達できるんだと。だから、遠離・離貪の修行が必要なんだっていうことだ。
 君たちは麻原彰晃の弟子である。君たちは類いまれな功徳を持って、今オウム真理教のシッツャとなっている。君たちは、功徳によって解脱のチャンスを得ている。君たちは、心を成熟させる機会に恵まれている。
 では君たちはだ、これらのもっと加えればね、たくさんあるだろうこれらの条件を考えて、シッシャをやめる、これを脱走するという言葉を使うか。それとも、落ちるという言葉が適当だと思うか。どうだ。そして、この「落ちる」という言葉、この言葉は、相手に対して軽蔑を込める言葉であろうか、それとも本当に悲しみ、哀れみを込める言葉であろうか。どうだ。そしてその点に立つならば、君たちは今の自分たちがいかに幸せな魂であるかが理解できるだろう。君たちはまだ落ちていない。どころか、君たちは修行を続けることによって、必ずや上がっていくだろう。どうだ。
 今日この瞬間を境に、小乗であろうと大乗であろうと、少なくとも哀れみ、少なくとも愛の感情を持つようにしよう。
 では、愛とは何だと。もうわかるね、哀れみの反対の意味だ。愛というのは、皆が三悪趣から脱却し、そして高い世界へ上がっていこうとするとき、「うれしい」と、「本当によかった」と、そう考える心の働きだ。
 そして君たちが、愛・哀れみの実践をするならば、新しいシッシャが来ても、その人は本当に素晴らしい−−神聖という言葉ではないぞ。神聖というのは神の聖と書く。神を超えた者、仏聖、仏陀の聖だ−−仏聖のヴァイブレーションにまみえ、必ずや今生において、あるいは今生駄目でも、未来際において菩薩となり、仏陀となり、すべての魂のために、あるいは、まず自分自身の苦悩を完全に滅却しようと、そしてすべての魂のために修行しようと誓うんじゃないだろうか。
 そして、そう思わせるなような神聖な言葉、あるいは心のヴァイブレーション、これを発することが大師の役割であるということを、あるいは古いシッシャの、一日でも早く入ってきたシッシャの役割であるということを理解して、今日の話を終わりたいと思います。




ヴァジラヤーナ教学TOPに戻る

TOPに戻る