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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.60〜P.68)

第八話(一九八九年八月二十日 富士山総本部)

 今日、一人のシッシャを破門した。その破門した理由というのは、そのシッシャの存在によって二人のシッシャが巻き込まれ、そして、三人で昨日の朝三時にオウムを勝手に抜け出し、で、自宅へ帰ったと。で、信徒としてやらしてくださいと。それで大師の方から連絡をしてもらい、呼んでね、その中心の人を破門した。
 まず、君たちに聞きたいことがあるんだけども、いったい信徒とは何であるかと。あるいはシッシャとは何であるかと。どうだ、これは。信徒とはオウムの教義を理解し、そして現世的な生き方をしながらも、できるだけ真理の実践を行なうと、これが信徒だね。そして、グル、それから大師およびシッシャ、そして真理に対して帰依をし、協力し、救済活動のお手伝いをしていくと。どうだこれは。
 では、ここにシッシャがいて、シッシャが帰依をしなければならないものは、グル、真理であると。もちろん、尊敬できる大師もいるだろうし、できない大師もいるたろうから、一応大師は除外するとして、グルと真理であると。で、この人が自己の煩悩に負け、例えば周りを誹謗、中傷し、そして、勝手に家に帰ると。で、わたしは信徒としてやらしてくださいと言ったとしようと。君たちは、この理論というものは成り立つと思うか、成り立たないと思うか、どうだ。なぜ成り立たないかわかるかな。つまり、信徒の条件の根本というものは、信、信じることだね。どうだ。
 ということは、例えばシッシャがシッシャをやめて在家へ帰るとする場合は、きちんとそれなりの手続きが必要なんじやないか。どうだ。信があれば、当然その手続きを踏むだろう。どうだ。信がないから踏めないと。
 では、なぜこういうことが起きるのだろうかと。実はその信徒さん方は、その三名のうちの二人は、わたしがシッシャ入りを反対した人だ。なぜシッシャ入りを反対したかというと、シッシャになってもやっていけないだろうと。この人たちは仕事ができないわけではない。ただ、まだシッシャとしての功徳に満ち、功徳が足りないと。
 君たちにもよく話すとおり、シッシャの功徳というものは相当に高くなければならないと。だから、例えばこの中で揺れている人がいたならば、こう考えなければならない。わたしは徳が足りないんだと。そして徳が足りない、これは言い方を換えるならば、信徒として本来やっていくことも難しいと。なぜ難しいんだと。出家して修行をしている者は、ある程度法というものによって、あるいは法友というものによって守られていると。しかし、信徒はなかなかそうはいかないと。周りはすべて煩悩の世界であると。すべて、エネルギーは下降している世界であると。否定的な世界であると。煩悩を増長させる世界であると。
 じゃあ、シッシャをやめ、信徒をやめ、凡夫の生活をしたらいいじゃないかと。あるいは、他の教団に布施でもして生きていけばいいじゃないかと。
 しかし、ここで一つ考えなければならないことがある。それは仏典にうたわれている欲六界の構成だ。昼間見える星、そして夜見える星の比喩をよく使うよね。つまり地獄というものは夜見える星の数であると、餓鬼というのは昼間見える星の数であると。次は、餓鬼の数を夜見える星の数だとするならば、動物は昼間見える星の数であると。昼間見える星の数、これを人間だとするならば、動物は夜見える星の数であると。夜見える星の数を人間だとするならば、阿修羅は昼間見える星の数であると。夜見える星の数を阿修羅だとするならば、天界は昼間に見える星の数であると。
 つまりどういうことかというと、この比喩からいくなら、単にね、地獄を十万と、それから餓鬼を一としようと。マンジュシュリー、ちょっと数えてくれよ。そうすると、餓鬼を十万と、動物を一としようと。動物を十万と、これはもちろん、一対十万の比ということでいってるわけだから、十万人という意味じゃないよ。動物を十万と、人問を一としようと。人間を十万と、阿修羅を一としようと。阿修羅を十万と、天界を一としようと。ということは、天界とそれから地獄との比はどうなるか。地獄。一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億、十億、百億、千億、じゅう、ん……。一兆の十兆倍対一の関係と。いや、正確にいうならば、もっともっと大きい広がりがあるだろうと。大きい差が出てくるだろうと。なぜかというと、例えば砂丘と一握りの砂とのたとえとかあるからね。
 ということは、いかに真理を実践し、そして、この三道、地獄・餓鬼・動物から抜け出すのは大変であるかと。あるいは、欲界の天界に入ることば大変であるかということになるわけだ。
 ということは、このシッシャの生活で苦しいという人は、もう、一度シッシャになりね、シッシャの生活が苦しいという人は、済度されないと。自分自身で、自分を本当に叱咤激励し、自分の魂の浄化を考え、乗り越えようとしない者は、済度されないということになると。救済されないということになると。例えば、現世へ帰って苦から解放されたつもりになってるかもしれないと。しかし、それはちゃんとつけが回ってくるんだよっていうことだね。
 例えば、わたしは寝るときに畳の上で寝るようにしてると。いっさい、何も敷かないで寝るようにしている。なぜ、何も敷かないで寝るんだと。それは、自分自身が修行者であるということを絶えず意識しなければならないからであると。意識しなければ、慢に陥ってしまうと。そして、慢に陥るということは徳の消耗が始まることを意味していると。あるいは、先を見なくなってしまうと。先を見なくなるということは、救済者としての、すでに役割の終焉を意味していると。もちろん、わたしが工夫しているものといったら、その畳だけではなくて、いろいろな工夫を自分の中に凝らしている。そして、絶えず救済を意識できるように、あるいは自分自身が修行者であることを意識できるように心がけている。
 わたしですら、自分に対して絶えずそういう心の働きを持っている。ましていわんや、まだわたしよりも修行の進んでいない者は、当然自分自身に注意を払うべきである。わたしの心の働きは修行者として適当だろうかと。わたしは三悪趣に生まれ変わるための道を歩こうとし出してるんではないかと。わたしは小さな世界の中でうぬぼれているんではないかと。あるいは、わたしの言葉はわたしの法友たちに害を与えるような言葉ではないかと。わたしは周りの人たちがちゃんと修行できるように応援をしているだろうかと。わたしは周りの人たちの心を否定的にするような言葉を吐いてはいないだろうかと。このようなことを日々考え、逆にすべての人が修行に向かうように、すべての魂が苦悩の世界から脱却できるように祈り、修行を続ける。これが麻原の弟子の役割である。
 心は無常である。無常なるがゆえに、今まで善き心を持っていた人が、法友、悪い法友の影響によって悪しき心を持つ。逆に、今まで悪しき心を持っていた人が、心は無常、心は無常なるがゆえに、善き心を持つ。
 そして、君たちが交わらなければならないもの、君たちが絶対的根本としなければならないものは、グルである、法である。それ以外のものを、絶対的な根本としてはならない。なぜならば、絶対的な修行の道、絶対的な救済の道を絶えず志向している、これがグルであるからである。あるいは、法、真理というものは、君たちの心を浄化し、君たちを欲界から、あるいはプラフマンから、あるい光音天から解放し、マハー・ニルヴァーナへの道を指し示してくれるからである。
 なしたこと以外返ってはこない。なさなかったことを要求するのは、お金のない者が金持ちの生活を羨望するのと同じである。わたしのように、絵の全くかけない者が、「ああ、ああいううまい絵をかきたいな」と考えるのと同じである。すべてはなしたこと、努力したこと以外返ってこないんだということを意識しなければならない。はい、この話についてはここで終わろう。
 次に、簡単にね、三乗について説明しよう。ここでいう三乗とは、タントラヤーナ、マハーヤーナ、ヴァジラヤーナのことである。
 まず、タントラヤーナというものは、わたしたちの最も低い次元のエネルギーの一つである性エネルギーを上昇させるための修行であると。わたしたちは、ラージャ・ヨーガによって、すべての煩悩を否定し、ラージャ・ヨーガの成就をすることができる。しかし、オウム真理教のように救済というものを根本として修行する教団にとっては、ラージャ・ヨーガでは大変もろい。したがって、現世にまみれながら、例えば煩悩に巻き込まれながらも、それを、エネルギーを回復し、救済活動をなすような修行法が必要であると。これが、タントラヤーナであると。
 しかし、タントラヤーナというものは、現代のモラルに合わない。例えば、政治倫理が説かれている現代、例えば教祖の女問題が取りざたされる現代、タントラヤーナは合わないと。
 次はヴァジラヤーナであると。わたしたちは、わたしたちを構成しているもの、身・口・意の三つを浄化しなければならない。つまり、身の行ないと、言葉と、それから心の働き、これを浄化しなければならない。しかし、あまりにもカルマがけがれている場合、例えば殺生の罪がわたしたちの体を覆っている場合、わたしたちはなかなか身の行ないを浄化することはできない。また、日ごろから口のカルマを積んでいる者が、口のカルマを浄化するということはなかなか難しい。心については、瞑想をさせることによって浄化することができると。
 ヴァジラヤーナの基本は、グルが弟子に対して、そういった行為のカルマ、あるいは口のカルマといったようなものを逆に落としてあげる、これが原則の修行法であると。
 そして、マハーヤーナであると。マハーヤーナの修行は何かといったら、回つの無量心であると。四つの無量心とは、愛、哀れみ、そして平等心、それから相手を心から誉め称えることの修行であると。そして、近代のチベットの修行は、マハー、タントラ、ヴァジラヤーナ、大乗、そしてタントラ、そしてこの金剛といった三つの修行を兼ね備えているといわれていると。しかし実際は、先程も言ったとおり、この条件を満たしている者が少ないわけだから、だからチベットは滅んでしまったと。
 君たちが意識をしなければならないこと、それはまず自己のステージであると。自己のエネルギーの状態であると。自己の心の状態であると。こういうものに絶えず気を遣い、そして、自分はまだまだであると、絶えず考えることであると。絶えず考え、絶えず浄化し、絶えず実践するならば、当然最終地点であるタントラヤーナ、あるいはヴァジラヤーナ、あるいはマハーヤーナに入り、大乗の仏陀としての完成をなすことができるだろう。しかし、見よう見まねで、自分はタントラを歩いてるんだとか、あるいは、自分はヴァジラヤーナを歩いてるんだとか、あるいは、自分はマハーヤーナを歩いてるんだとかいったような錯覚に陥ったならば、それは致命的な修行者としての、致命的な落とし穴に落ちることになるだろう。
 では、タントラの条件とは何だと、あるいはヴァジラの条件とは何だと、あるいはマハーの条件とは何だと。
 まずタントラの条件とは、いかなる下降のエネルギーを吸収したとしても、即それに対して対応し、エネルギーが上昇できると。つまり、エネルギーが落ちないことが条件であると。そして、第二には、完全に感官の制御、つまり味覚に対してもそうだし、例えば触覚に対してもそうだし、すべての感覚に対して、心を切り離すことができるということが条件であると。そして、三番目には、いっさいの執着を離れていること、これが条件であると。ただ、心の中には、すべての魂の済度があると、これが条件であると。
 じゃあ、次はマハーの条件に入ろうと。マハーとは回つの無量心が根本であると。すると、まず何が第一にくるかと。それは平等心であると。平等心とは何かと。すべてのカルマの状態を知り、そのカルマにおいて平等な心の働きをすること、これが平等心であると。そのカルマにおいて平等という意味合いは、自分自身もその中に含まれていると。ということは、すでに彼らは、その発覚の発端をなした人に対して批判をしたということによって、まず自分自身の魂の状態が理解できていないと。
 なぜならば、修行者の第一条件はザンキの念だったよね、どうだ。自分のなした行為に対して、あるいは自分のなした口業、口に対して、日のカルマに対して、あるいは心のカルマに対して、絶えずザンゲをすると。心を絶えず悔い改めると。これが第一条件であると。すでに第一条件を見失っていると。
 じゃあ、なせそれで戯忘なんだと。それは、膨大な功徳があったから、クンダリニー・ヨーガの成就をしたわけであると。膨大な功徳の行き先は、そして欲望を持った人の行く先は、戯忘という天界であると。戯忘という天界とはどこかというと、君たちのよく知っている欲六界の中の最高位に属する、四天王衆天から他化自在天に至るまでの天界であると。
 では、次にマハーの愛とは何だと。これは先程言った、すべてのカルマというものを正確に見つめ、そして、それをもとにすべての人に対して慈しみを持つことであると。慈しみとは何だと。「ああ、この魂が、あるいはその魂が、あの魂が、自分の知っている、あるいは自分の知らない、すべての魂が今の煩悩から脱却し、そしてマハー・ニルヴァーナに入りますように」と。「早く無智から脱却し、この世が苦悩であるということを悟り、マハー・ニルヴァーナに入りますように」と。これが、愛の真の意味合いであると。そして、そのためのお手伝いをすると。
 では、哀れみとは何だと。これは、すべての苦悩に対して、すべてのものの苦悩に対して、先程と同じように平等心を背景とし、「ああ、あの人はこのカルマによって今苦しんでいる」と。「かわいそうだな」と。その背景にあるものは根本無智であると。「早く根本無智から脱却しますように」と。「ああ、あの人は根本の怒りによって今苦しんでいる」と。「かわいそうだな」と。「早く根本の怒りから脱却しますように」と。「ああ、あの人は、前生においてこれこれの悪業をなし、それによって貧りのカルマが生じ、その貧りのカルマによって現在苦しんでいる」と。「かわいそうだな」と。「早くその貧りのカルマが消滅し、脱却し、そして、最後にはマハー・ニルヴァーナに入りますように」と、気づいたよね、君たちは。
 つまり、初めの愛と二番目の哀れみというのは表裏の関係であるということだ。そして、その背景にある平等心。これ三つを合わせるとどうだ。三つでセットと。四無量心といいながら、この三つは切っても切り離せない関係にあると。だから、一つということができると。
 そして、四番目の誉め称える訓練と。これは、心を、器を大きくしていくと。「ああ、あの人がこれこれの善行をなし、これこれの修行をしている」と、「素晴らしい」と、「あなたは素晴らしい」と、「どんどん修行しましょう」と、勇気づけると。そして、このように勇気づける人は、高い世界へ生まれ変わる条件を備えると。なぜならば、すべてはカルマの法則によって成り立っていると。ということは、どうだ君たち。そういう誉め称える訓練をする人は、周りに誉め称える訓練をしている人が集まるんじゃないか、どうだ。
 よって、絶えず誉め称える訓練。しかしだよ、これは相手のカルマを見切らなければならないという一つの条件があると。なぜならば、もしここで誉めることによって相手が慢に陥るとしようと。それは誉めてはならないんだね。もともとマハーの意味合いというのは、すべての魂の昇華・解脱、そしてマハー・ニルヴァーナに至らせるということが狙いだから。だとするならば、誉め称えるべきでないときは沈黙をすると。
 これをよく、わたしは大師やシッシャを見てて、「ああ、正しく使ってないな」と思います。その理由というのは、誉めるがために増長に陥ると。増上慢に陥ると。そして逆に、その裏返しである卑屈さを増大させると。
 おやおや、ということは、このバックボーンにも回つの無量心かあるなと、の中の平等心があるなと。いや平等心だけではなくて、まず平等心があって、心の働きとして愛と哀れみがあって、この愛と哀れみというものが完成された段階で、本当の意味での誉め称えることができるんだなと。つまり、本当に深い心の状態で他に対して誉めると。その深い心とは、愛であり哀れみであると。つまり、すべての魂がマハー・ニルヴァーナに入りますようにという心の働きで誉めると。これがマハーの意味合いであると。
 じゃあ、次はヴァジラとは何だと。金剛の心を持たせるためには、金剛の口を持たせるためには、金剛の身体を持たせるためには、わたしたちのカルマのけがれというのを取り除かなければならない。例えば、A君がB君を殴りつけたと。このとき、B君の今までの殺生などのカルマがA君に移行すると。そうすると、そこでA君はいっそう暴力的になり、そして身体を痛め、解脱に対する道筋が失われるようになると。例えば、A君がB君を罵倒したと。そうすると、今までのB君の口のカルマがA君に移行し、A君のアストラルはけがれ、そして本当の意味での神聖な、清らかなヴァイブレーションのマントラが唱えられなくなると。
 しかし、ここで問題になってくることは、なぜA君がB君を罵倒しなければならなかったかであると。もし、A君の心の働きの中にB君を本当に真理に目覚めてほしいと、本当に真理の実践をしてほしいという心があったならば、例えば暴力を振るったり罵倒したりしたとしても、A君の心は成熟するであろうと。もちろん、身体を痛めたり、あるいはアストラルを痛めたり、ケガしたりするかもしれない。しかし、少なくとも心は成熟するであろうと。なぜならば、A君は自分のなした行為、例えば殴ると、この行為によって自分の身のカルマはけがれると、例えば罵倒することによって口のカルマがけがれるということを知っているからであると。知っているというのは、頭の中で知っているだけじゃなくて、実際に経験してるからであると。しかし、もしA君がここでB君に対してそれを行なわなければ、B君は地獄へ落ちてしまうだろうと。A君がそう考えたならば、これぞヴァジラヤーナであると。
 しかし、もう少し深く検討を進めるならば、ここでA君の行なった行為によって、A君が修行できなくなったらどうだろうと。逆にA君が本当の意味で地獄に落ちたら、落ちるカルマを持ったらどうだろうと。心が成熟し、そして地獄へ落ちたとしても、それは大した問題ではないと。しかし、身・口のカルマが重たくなりすぎて修行できなくなったならば、A君と縁のある者が当然修行できなくなると。よって、これも正しい選択ではないと。
 つまり、ヴァジラヤーナの条件、これは身、それから日のカルマから完全に解放されてることであると。何が解放されてるんだと。心が解放されてることであると。そして、ここ、心の解放されていない者は、これを行なってはならないと。そして、そのための土台、そのためというのは、ここでいうのは、先程言った三つのヤーナだね、つまりタントラ、ヴァジラ、マハーという三つのヤーナ、この三つのヤーナの土台は何だと、これは布施・持戒・忍辱・精進、そして瞑想・智慧であると。これらの六つの極限、これこそが三乗の土台であるということを理解しなければならない。そうすると、初めの戯忘天人とは何かと、この第二番目の布施・持戒の持戒で、すでに落ちてしまっていると。
 じゃあ、ヴァジラヤーナの、巻き込まれる、暴力によってね、自己のなした暴力によって、あるいは悪口によって、あるいは両舌などによって巻き込まれると。これは何だと。これは、もちろん持戒、これも絡んでるね。そして、アストラルや、あるいは身の苦しみ、これに耐えらんないという、忍辱ができてない証拠であると。これらのすべての条件を備えたとき本当の意味でのタントラ、あるいはヴァジラ、あるいはマハーといったヤーナ、これが実践できるんだということを理解しましょう。


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