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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.48〜P.53)

第六話(一九八九年四月二十八日 富士山総本部)

 昨日は少し難しい話をしたけども、今日は逆にやさしい話をしましょう。
 今日は瞑想のプロセスにおいて、まず八正道があると。それは、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定というね、正念の中の”法は無我なり”について語りたいと思います。
 ”法は無我なり”と。これはいったい何なのかと。法、これはわたしたちを構成しているものの中の外的要因である観念ということができると。まず、この観念についてとらえたいと。
 ここに、資本主義があったと。そして資本主義は、自己の利益のために金を儲けることが大切なんだと。まあ労働者には、そこそこ金を与え、金を儲けることが大切なんだと。これは資本主義の基本であると。これは、資本主義社会においては肯定されることだよね、どうだ。ではこれがだよ、社会主義社会になったらどうだろうと。もし、そういうオーナーがいたならば、それは労働者から搾取しているということんなるよね。どうかな。
(一同)はい。
 じゃあ、社会主義社会においてこれは正しいか正しくないかと。正しいとは認められないよね。
 ではだ、ここに、盗人がいたと。十年前盗人であったと。この人が発願し、そして修行し、今成就者になったとしよう。いいかな。この盗人という者は、善人であろうか、悪人であろうかと。どうだこれは。今の時点では。しかしもし、わたしたちの心の中に、十年前盗人だったという心の働きがあれば、その成就者に対してどのような思いが生じるだろうか。どうだ。
 ありのままに見つめるということは、その点、その時点その時点で正しく見つめるということなんだね。
 これは、サーリプッタがよく言ってることなんだけども、心というものは、四つのパターンがあると。まず、以前善き心を持っていた人が今も善き心を持っている場合と。いいですか。第二のパターンは、以前悪しき心を持っていた人が今善き心を持ってる場合と。いいですか。第三のパターンは、以前善き心を持っていた人が今悪しき心を持っているパターンと。いいですか。ということは第四のパターンは、以前悪しき心を持っていた者が今悪しき心を持っている、という四つだね。いいね。
 そして、その法無我、観念にとらわれないことが、わたしたちを本当に自由なものの見方をさせてくれる、わたしたちを正しく、判断に導くための条件であるということを君たちは考えなければならない。
 例えば、ここに娼婦がいたと。この人はいろんな事情で、例えば肉体を売って生活しなきゃなんなかったと。しかしその背景には、例えば子供がいて、養うためには肉体を売るしかなかったんだと。じゃあこれは善行といえるだろうか、悪行といえるだろうか、どうだ。−−どうだ。−−どうだ。
 「善行」と言った者は無智であると。「悪行」と言った者も無智であると。正しく見つめるならば、子供に対して、例えば、親の愛情によって養いたいという気持ち、これは善の部分ということができると。しかし、例えば肉体を、そのために楽をしようとして肉体を売ると。これは悪行ということができると。だから善と悪というものは両方存在しているんだということだ、例えば。
 では例えば、ここに悪い友人があって、いいかな、その悪い友人が盗みを働いたと。それを見た人間が追いかけていったと。そのときケガを負わせてしまって、そして警察に捕まったと。これはどうだ。−−善業を、ケガさせた人はなしたといえるか、悪業をなしたといえるか。どうだ。−−ね、悪業をなしたとか善業をなしたと言ったら無智だと言われるからね。なかなか答えらんない。これは、例えば傷をつけたわけだから、法律的には悪といえると。しかし、心の働きとしては善といえると。
 例えば、いいかな、ここに、悪いことをなして大金を持っていた人がいたと。その人のことをよく知っている者が、「あの人は来世餓鬼道に落ちる」といって、こっそりそのお金を盗んだと。そして、例えば真理のために、例えば貧しい人のために、そのお金を布施したと。これはじゃ善業といえるだろうか、悪業といえるだろうか。どうだ。−−どうだ。
 これは完全なる善業といえる。なぜならば、心の働きの中に相手を害そうという気持ちがないからだ。そして相手を高い世界へ至らしめたいと。
 実は、今日の話は、最も難しいタントラの話なんだよ。だからわかりづらいんだね。だから、タントラというものは深遠であるといわれてるのはこういうことなんだ。例えば、大乗の、あるいは小乗の教えの中の十戒に”盗むなかれ”というのがある。しかし、今のような心の働きというのは、例えば肯定されると。これがタントラの教えなんだね。
 では例えばだ。ここに、このままいくと地獄に落ちる人がいたと。そしてそのカルマを見極めた者が、そこで少し痛めつけてあげて、そしてポワさせることによって人間界へ生まれ変わるとしようと。その人は、それを知って痛めつけ、そしてポワさしたと。つまり殺したわけだな。人間界へ生まれ変わったと。これは善業だと思うか、悪業だと思うか。−−ところがね、観念的な、法無我の理論を知らない者は、それをそれとして見つめることができないんだね。観念的な善にとらわれてしまう。そうすると、そこで心は止まってしまうんだ。いいかな。
 じゃあ、わかったと。今日から物を盗もうと。今日から、例えば人を痛めつけてやろうと。このように考える人は、どうだ。−−無智だ、そのとおりだ。では、どのような状態になったら、この実践を行なってもいいと思うか。−−ありのままに見つめる力がついたときということになるね。
 それからもう一つの条件がある。それは何だ。−−心が自己の利益、煩悩から離れたときということができる。そして、あなた方が今実践してる十の戒めというものは、表の教えと裏の教えがあるんだってことだ。当然、殺生に対しての教え、つまり今話した教えだね。偸盗に対しての教え。そして邪淫に対しての教え。妄語に対しての教え。綺語に対しての教え。悪口に対しての教え。両舌に対しての教えと。ところがだ。心の貪り、嫌悪、そして無智というものを使って修行する方法もあるんだよ。これはどうだ。
 例えば、ここに人がいたと。この人は大いなる救済を実行してるとしよう。そしてこの人は、さあ徹底的に、例えば金を集めてやるぞと。徹底的に人を集めてやるぞと。そう考えたと。例えば徹底的に金を集める、徹底的に人を集めると。これは、心の働きとしては貪りになるだろうか、ならないだろうかと、どうだ。来ても来ても、集まっても集まってもそれに飽き足らないと。どうだ。−−当然この人は貪りのカルマを受けることになるよね。では、この人は善業を積むことになるんだろうか、悪業を積んだことになるんだろうか、どうだ。なぜ善業といえるんだ?−−個人的な心の貪り、これが例えば真理を広める、あるいは真理を守る場合、それは善業になると。ここまでの話をしたあとだ。じゃあ、カッサパ、質問しよう。嫌悪はどのような使い方をすれば、タントラの修行者といえると思うか。
(マハーカッサパ大師)−−。
 怒り……いいか。サラスヴァティーはどうだ。
(サラスヴァティー大師)−−。
 心という今意味を使ってるわけだね。貪・瞋・凝の瞋は心の働きだからね、一応。それもちろん態度に出る場合もあるけども、心の働きと。
(サラスヴァティー大師)−−。
 そうだね、だいたい二人の答えというのは半分正しいといえると。
 本来、嫌悪というものは、個に向けるべきではないんだね。だからツァンダリーの瞑想のときに、もっと大きなもの、「なぜすべての魂は真理に気づかないんだ」と、あるいは、真理でないものに対して絶えず嫌悪すると。このような心の働きを持つならば、真理以外のものが近づかなくなると。
 これはね、例えば経典の中で、よく出てくることだけど、悪魔に対して徹底的な反撃を加えてるわけだね。なぜ十悪を否定している釈迦牟尼の弟子たちが、悪魔に対して強烈な、嫌悪を持つかと。例えば「悪魔よ立ち去れ!」とかね。「汝は負けたのだ」とかね。これはすべて心の中で起きることなんだね。そして、嫌悪の向けられる対象というのは、内と外、一つは自己の内側にある魔性、つまり煩悩性だね。それからもう一つは、あ、もう一つの方が正しいわけだけどね、もう一つは対外的なもの。しかもそれはできるだけ大きなものに対して嫌悪すると。それを実践するならば、この嫌悪というものはタントラに大変有効になるだろうと。
では、無智の使い方はどうだ。ミラレパ。
(ミラレパ大師)−−。
 それは無智を使った修行になるか? だれかいるか。
(シッシヤ)−−。
 うん。なかなかいい答えだと思うね。無智の使い方というのは、例えば修行者というものは、個々のステージにおいて真理というものをある程度持っているよね。これはどうだ。ということは、真理にとらわれてしまうならば、例えばその真理の、自己の今まで経験した、学んだ真理によって判断をしてしまうと。どうだ。ところが、例えばタントラの修行というものは、グルに対しては絶対的な信とか帰依を培うわけだね。その背景となっているものは無智なんです。−−だから、逆の言い方をするならば、タントラのグルというのは大変危険な立場にあると。それはどういうことかというと、もし弟子を正しくない方向に導いたならば、それは自分ですべてのカルマを受けなきゃなんないから。
 そして、法無我の話から、ここまで発展してしまった。ということは、心無常、あるいは、受苦ね、受は苦なり、あるいは、身不浄、身はけがれているという話も、大いに発展させ、瞑想することができるということだね。
 ただだよ、今わたしの話したことは一通り小乗の修行ができ、ものをありのままに見つめる訓練ができてきた段階で消化しなければならない内容であると。
 最後に。ここにお金持ちの息子がいると。その息子は一見、行動は法にかなっていて、正しいように見えるとしよう。あなた方はこの人を信じるであろうか、信じないであろうか。どうだ。−−どうだ? この人に対しては、信じることをしてもいけないし、信じないことをしてもいけないと。話してみると。そして、この人に対して結論を出す時期というものは、その人の言っている口の行ないと、身の行ない、これが同一であるかどうかを確認することなんだね。わたしたちが、力のないわたしたちがね、確認するただ一つの方法というのは、相手の言っている口の行為と行動とが一致するかどうかなんだ。
 ではもう一つ質問しよう。ここに、ボロボロの衣をまとった者がいるとしよう。この人は、大変口が悪いと。この人を君たちは信じるか信じないか、どうだ。−−これも、同じように信じることもないし、信じないことないと。同じように、口の行と身の行とを比較していると。一度二度、口と身とがずれるとするならば、三度目もずれる確率は大変高いということだね。そして、慈悲というものは、その相手の状態をありのままで見つめた、それを含んで相手を認めてしまうと。そして例えば、だまされることも含んで認めてしまうと。そして相手を教化育成すると。これが本当の慈悲なんです。
 今日は法無我の話をしたけども、今日の話をよく、もう一度かみしめてほしい。そして、この三乗の教えというものは、本質的には一つであると。何だかわかるか、一つというのは。それは、わたしたちも含めたすべての魂の心を成熟させ、幸福にすることであると。そして、ステージによってその戒律が違うんだと。いいかな。−−元気がないじゃないか。理解できなかったか? どうだ。みんな理解できたかな?
(一同)はい。
 はい、あの今ね、大師方が、少しずつ少しずつ教学をしよう、学ぼうとしてきてるから、わたしも、徐々に徐々にタントラの話、大乗の話、道の話を始めた。君たちが日々、性欲・食欲、あるいは嫌悪・現世的執着といったものを捨てね、「わたしは説法が聴きたいんだ」と、「わたしは法を学びたいんだ」と、「法を実践したいんだ」と、一日何回も何十回も求めるならば、もっともっとわたしの説法の時間も長くなり、そして君たちが求めている内容を話すことになるだろう。
 はい、じゃ、今日はこれで終わりましょう。


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