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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.4〜P.20)

第一話(一九八八年八月五日富士山総本部)

 今日の話はね、あの君たちのワークと、そして、まあ小乗、大乗、それからタントラね、との兼ね合いとの関係を話したいと考えています。そして、どのようにしたら、君たちが速やかに解脱できるかという話をしたいと考えています。
 まず、小乗の定義、あるいは大乗の定義、あるいはタントラの定義というのはわかるか。はい、じゃあ、大師方答えるように。小乗の定義、これは何だ。大師! 大乗とは、タントラとは。どうだ、小乗の定義は。……、はい、小乗とは。
 小乗の定義というのは、この世の中の諸現象というものを完全に否定し切ると。完全にすべての楽も苦も否定し切ると。楽の裏側に苦が潜んでいるんだということを意識して否定すると。しかもその否定は意志の力によって行なうと。これが小乗だよね。そして、それを完全に実践するためにはだ、きちんと戒を守り、そして、その否定をする瞑想をしなけれぱならない。で、仏教では、ここで、四つの心を専住するところ、四念処の瞑想を挙げてるよね、一般的には。わかるか。そして、否定した、否定し切って涅槃に入ると。こ一れがヒナヤーナの涅槃、ニルヴァーナなんだ。
 じゃあ、次に大乗の定義とは何だ。はい、ミラレパ。大乗とは?
(ミラレパ大師)小乗の上にありまして、小乗の上にあって、世の中をありのままに見る。
 そうだな、小乗の上にあって、世の中をありのままに見つめていく、だけではなくて、四つの無量心を土台としてエネルギーを転化する、昇華すると、そして成就すると。オウムのやり方でいくと、クンダリニー・ヨーガに非常に近いと。これが大乗である。いいか。
 じゃあ、次にだ。タントラはどうだ、タントラは。ケイマ。はい、タントラは? ヴァジラヤーナはどうだ?
(ケイマ大師)−−。
 大乗の上にあって、はい。いいか、ヴァジラヤーナの定義というものは、すべての現象を、諸現象を完壁に解析し切ることだ。もちろん、それは大乗を背景としていなければならない。いいか。じゃあいったい、その諸現象とは何かというと、自己の煩悩だね、あるいは他の煩悩だ、これを解析し切って、昇華して、そして完全にその煩悩から解放されると。これがヴァジラヤーナの教えであると。
 じゃ、ここでだ、まだ大師方は最終解脱しているわけじゃないから、いろんなところで引っかかっている。例えばプライド。そうすると、もう自己はかなりの精神的な経験をしているから、自己はプライドが少ないと思っている。ところが、わたしから見ると、プライドが少ないということはあり得ないわけだね。わかるか、プライドが少ないということがあり得ないというのは。プンナ、わかるか、なぜプライドが少ないということがないといえるんだ?
 それは相対の世界だからだ。つまり、ここにプライドが多い人がいると。その人から見たらプライドが少ないと。しかし、プライドの少ない人から見たら、その人はプライドが多いわけだ。だから、プライドを完全に止滅するまで、プライドがわたしは他の人より少ないということはあり得ないわけだ。そして、そう見る者はだよ、そう見る者というのはわたしには歴然としたプライドがあるんだと。そして、そのプライドをつぶさなきゃならないんだと。そのように見る者は、いいか、解脱が早い。しかし、そうではなくて、わたしはプライドが他の人より少ないんだど。何でわたしにプライド、プライドと言うのだろうと。ブラフマンニ号だとか、ブラフマン三号だとか言うんだろうと。こういう人は、いいか、なかなか解脱はしない。それは、同じように闘争心もそうだ。
 じゃあ、いいカルマについてはどうだろうね。例えば、ここに、他の人よりたくさん功徳を積んでる人がいたとしよう。この人は、わたしは一生懸命功徳を積んでいる、しかし、報われない。こう考えたら、これは正しいものの見方といえんだろうか。ウッパラヴァンナー、どうだ。なぜいえないんだ?
(ウッパラヴァンナー大師)−−。
 ああ、それも一つだね。しかし、それだけではなくて、先程の功徳にしたって相対の世界なんだ。つまり、自己の上を見ればきりがない、下を見ればきりがない。だから、黙々と功徳を積み続けると、これが必要なわけだ。じゃあ、スタッフの皆さん、あなた方は、功徳を日々積んでるわけだけども、心がどんどんいい方向へ変化して進んできてるか、どうだ。つらいと考えることはないか、どうだ。じゃあ、これはブフーとブハーの人に聞こう、どうだ。
−−沈黙をもってよしとするというから、じやあストレスはないんだな。
 じゃあね、いいか。なぜ、そこでストレスが出てくるんだろうかと考えると、なぜだ、それは。じゃ、シャンティー、なぜだ。
(シャンティー大師)−−。
 功徳の総量が減らないから?
(シャンティー大師)−−。
 ストレスがあるんだと。
(シャンティー大師)−−。
 そうだな、うん。自己のエゴというのは、煩悩が功徳を積ませることを嫌がるんだよ。なぜ嫌がるかというと、功徳を積むということは、そのときに苦痛が生じると。逆に、楽しみを求めて動いているときには、功徳は消耗しているわけだけど、煩悩は喜びに浸ってるわけだ。そして、高い世界へ行けば行くほど、修行が進めば進むほど、煩悩が弱まってくる、そのために功徳が積みやすい状態が出てくるわけだ。ということは、初めの状態では、どうだ、功徳が積みやすい状態でないことがわかるね、君たちは。煩悩が強いわけだから。
 そして、いいか、どうしても少しの功徳しか積めない場合、そして、ストレスが限界になった場合、そこで極厳修行に入り、ラージャ・ヨーガの成就が待ってるわけだね。そして、それよりも、強い意志の力があって、煩悩も他の人よりは弱いと。そして、前生からの縁によって、今修行ができると、功徳の積める状態であると、その人は現世にいて功徳を積んで、それでもある時期が来たら限界になると。ただ、時間をかけて積み上げた功徳というものは、容器一杯になってるわけだから、その功徳のエネルギーをトランスフォームしてね、変形して、変化させて、そしてクンダリニー・ヨーガの成就があるんだ。いいかな、ここまでは。どうだ。
 そして、もっと修行の進んだ人は、もっと修行の進んでいる人は、グルに対する完壁な信を持ち、そして、ストレスに打ち勝ち、功徳も満杯になり、しかもまだ心にある程度ゆとりがあると。そして、自己の煩悩について見つめる力が残っていると。その段階で極厳の修行に入り、二番目のクンダリニー・ヨーガと、三番目のジュニアーナ・ヨーガ、あるいはマハームドラー、今わたしは、今日は大乗とタントラという言葉を使ってるけども、この違いは何かというと、本人の功徳の量というのはね、同じだけども、本人の意識の状態が違うということだ。
 大乗で、オウムのシステムの場合だよ、極厳に入る場合、もう限界であると。ほとんど寝た状態、眠りの多い状態になると。それで自己を見つめる力が弱っていると。この状態で極厳に入る。この人の、この人の成就はクンダリニー・ヨーガであると。
 そして、そうではなくて、まだ余力があると。ひょっとしたら一生功徳を積み続けても平気であると。その上に思考する力、ものを見つめる力というものは他の人よりも優れていると。この人はジュニアーナ・ヨーガの成就をすると。ということは、ジュニアーナ・ヨーガの成就というものは何かというと、あるいはタントラの成就とは何かというと、そこに大乗の要素、あるいは小乗の要素が含まれているということになるよね。わかるか、言ってることは。
 そして、スタッフであるあなた方も、この三つに分けられるわけだ。わかるか、それは。あまり功徳が積めないで、「苦しい、苦しい」と言っていると。いいか。少し功徳を積んで、「もう駄目だ」と、「限界です」と、「オウムをやめます」と言う人もいると。こういう人は小乗で行きなさい。極限になったならば、あなた方の精神的限界になったならば、即こもって、そして、煩悩を否定する修行に入り、それを乗り越えなさい。これが一番簡単な方法だ。
 そうでなくて、もっと器の大きい者はどんどん功徳を積んでだ、功徳を満杯にして、そしてそのエネルギーを変化させ、クンダリニーのエネルギーに変化させ、成就しなさい。そのときだよ、いいかな。オウムの要素というのは、タントラの要素がかなり含まれているから、大乗といってもタントラの要素が含まれてるから、あなた方が経験しなければならない次の生の経験、あるいは過去生の経験、あるいは他の世界の経験をいろいろするだろう。これはクンダリニー・ヨーガの特徴だね。ラージャ・ヨーガにおいてはそれはあまりない、いいか。そして、成就する。
 あなた方は覚えてるよね。大乗というのは、ありのままに見ると。でしょう。そうすると、例えば、この世の世界も、夢の世界も、あるいは変化身が住む世界も同じなわけだから、この世で経験すること、あるいは変化身の世界で経験することをだよ、合わせるならばだ、そこで一生分、二生分、五生分、十生分、あるいは百生分、千生にもなる。そして、千生分の経験が、あるいは二千生分の経験が終わった段階で、その修行が終わるんだ。 そして、もう少しグルに対する帰依がしっかりしていて、信の篤い者、そして思考する力の強い者は、その上にジュニアーナ・ヨーガ、あるいはマハームドラー−−これを言い換えるとタントラ的な修行というね−−の修行によってだ、より早く成就することができるわけた。おかしいじゃないかと。なぜ、例えばジュニアーナ・ヨーガ、あるいはマハームドラーの修行によって早く成就することができるんだと、あなた方は考えるかもしれない。ラクシュミー、なぜ早くできると思うか?
(ラクシユミー大師)−−。
(サマナ)グルの力によってです。
 グルの力によって。まあ、それも一つあるな。他には? はい、じゃ、岐部君、質問しよう、なぜだ?
(岐部)本人の状態が−−。
 はい、じゃ、正解を言おうね。ここにコーザルがあって、アストラルがあって、現象界があるよね。いいか。そしてラージャ・ヨーガはこの現象界の煩悩を否定するよね、意志の力によって。OKか、それは。クンダリ二ー・ヨーガはアストラルで経験するよね、OKか。じゃあ、最後のジュニアーナ・ヨーガ、あるいはマハームドラーはどうだ。これはコーザルで叩くよね。わかるか、言ってることは。岐部君、わかるか? そうするとだ、例えばコーザルからアストラル、現象界と降りてきたデータを処理するのとだ、コーザルからアストラルへ降りてきたデータを処理するのとだ、アストラルに降りる前のコーザルで処理するのとだ、どれが一番速いと思う? わかるね。つまり、データだけ処理すればいいわけでしょう、それは。より深い意識に到達してそれができるかどうかはね、あなた方次第なんだよ。結局、ラージャ・ヨーガで成就したとしてもだ、涅槃するなら別だが、また輪廻転生繰り返す場合、クンダリニー・ヨーガ、あるいはジュニアーナ・ヨーガ、小乗から大乗、あるいはタントラと移行しなきゃなんないわけだから、だとしたら今生で一気に最後まで行くというのがね、一番理想なわけだ。どうだ、わかるか。
 よし、では、あなた方かタントラヤーナ、ヴァジラヤーナに入るための条件、これはどのようにしたらいいだろうかね。どうだ。
 真実はストレスをたくさん持つためだ。ストレスのエネルギーというものを昇華して、クンダリニー・ヨーガがあるんだね。もし、ストレスを持たないような生活をしていたら、大乗、あるいはクンダリニー・ヨーガの成就というのはあり得ないわけだね。どうだ、わかるか、それは。プフーの人たち、わかるか。わかったら返事しろ。
(サマナ)はい。
 よし、だから、この二十四時間のワークというのは、あなた方のストレスをどんどんどんどん高じさせるもの、そして、そのストレスを背景として、いや、そうじゃないね、グルに対する帰依というものを背景として二十四時間のワークがあるんだ。そして、二十四時間のワークを背景として、タントラの修行があるんだよ。わかるかな。わかった人は、必ずわかったという返事をしなさい。
(サマナ)はい。
 じゃあだ。自分はまだタントラはだめだけど、という人と、自分はもうタントラの道に入ってんだという人とニつに分かれると思うが、もしだよ、あなた方か大乗の道を歩いていると考えるならば、その背景にあるもの、四つの無量心、いいか、この実践をどのようにしたらいいと考えるか。どうだ。
 えー、まず、平岡さん、いるか。
(平岡)はい、−−。
 四つの無量心を言ってみるよ。大きな声で。
(平岡)愛、衰れみ、誉め称えること、平等心。
よし。じやあ、この実践はどのようにしたらいんだ。じゃあ、ムクタナンダは? ムクタナンダ、言ってみろ。
(ムクタナンダ)平等心を背景として−−。
 聞こえるのか、後ろは。
(サマナ)はい。
 ムクタナンダの声は問こえるね。
(サマナ)いえ、聞こえません。
 じゃあ、聞こえるようにしなきやだめじゃないか。
(ムクタナンダ)はい。平等心を背景として、愛の実践をすることで、自己の苦しみを喜びとして、他の喜びを自己の喜びとしていく。
 そうだね。まあ、模範回答の半分だな。そして、すべての苦しみが自己の中に吸収されたとき、内在したとき、内在するまで修行をやめないぞと考えること、これを完壁なる菩薩心というんだよ。菩薩心というのは四無量心の別名を菩薩心というわけだね。いいか、だから自己の苦悩を喜びとし、他の苦悩を悲しみとすると。それで、すべての苦悩を自己の中に内在すると。このときに、このときまで自分の修行をやめない、やめないぞと。これが大乗の母胎であると。その心を持っている人は、本当の意味での大乗の修行者ということができると。
 それは、このようなもんだ。ここにわたしは大乗を修行しているという人かいたとしよう。この人はだ、修行がどんどん進んでって成就したと。そして最終解脱をしたと。そして、心がチェンジして涅槃してしまったと。どうだ、これは大乗か? 本当の意味の大乗といえるか? どうだ。
(サマナ)いえません。
 なぜいえないかわかるな。四つの無量心というものがある以上、本当の意味での哀れみというものがあるわけだから、その哀れみはすべての魂に対してだよ、いいか、すべての魂に対して向けられなけれぱならない。そうすると、すべての魂に向けるということは、いいか、その魂が本当の意味での自由・幸福・歓喜を得るまで認めなきゃなんないし、そのような状態を作り上げてあげることが本当の四つの無量心だよね、菩提心だよね。わかるか、言ってることは。
 だから、完壁なる四無量心というものは、「すべての魂がマハー・ニルヴァーナに入るまで修行を続けるぞ」という心構えが完全にできた人のことをいうわけだ。そして、あなた方がその実践に入るまでは、自分を大乗だと考えてはいけない。わかるか、どうだ。 (サマナ)はい。
 そして、それができた段階で、本当はもう修行が終わるわけだけども、できた段階ですべてが終わるんだよ。
そしてこれが大乗の修行の土台だ。
 じゃあね、なぜ他の苦悩のすべてが自己に内在したときだ、修行が終わるんだ? これはすごく大切なことだぞ。プンナ。
(プンナ大師)はい。
 はい、大乗の修行者、プンナ大師に聞いてみよう。
(プンナ大師)−−
 よし、わかった。はい、プンナ大師が大乗の定義を説いた。わたしはそうは説かない。いいか、煩悩はなぜ苦しむんだ? 煩悩を持っている者はなぜ苦しむんだ? 苦悩かあるからだろう、どうだ。どうだ、みんな。
(サマナ)はい。
 よし、じゃあ、苦悩が自己の中に内在されてしまったとしようじゃないか。内在されているということは、それに対して煩悩が苦悩を感じているか、感じていないか、どうだ。(サマナ)感じていない。
 感じていないということは、三つの毒、食・瞋・癡、あるいはラジャス・タマス・サットヴァの働きが生じているか、生じていないか、どうだ。
−−生じていないということは、そこで静止が起きているわけだな。それを大涅槃というんだよ。わかるか。ということは、それは最後の解脱じゃないか、どうだ。わかるか、これは言っていることは。わかりますか。わからないか。どこがわからないんだ。
 もう一度言うよ。ここに苦悩があると。その苦悩というものは、こちらに煩悩があるから苦悩があるんだよな。どうだ、それは。そこまではOKか。
(サマナ)はい。
 その苦悩をどんどん上取り込んでいくと。取り込んでいけるということは、どうだ、その苦悩に対して抵抗力ができた状態だよね、どうだそれは。抵抗ができてなければ取り込めないね、どうだ。それはOKか。そして、すべての苦悩が自分の中にあったということは、それに対して、もうすでに苦悩を感じていないということになるんじゃないか。どうだ。心が働いていないということにならないか、どうだ。わかるか、これは。ここまではわかるか。
(サマナ)はい。
 心が働いてないということは、心が止まっているということにならないか、どうだ。そのときわたしたちの食・瞋・癡は働いてるか、どうだ。じゃ、食・瞋・癡が働いていない、止滅しているということは、その状態を涅槃しているといえないか。解脱しているといえないか、どうだ。どうた。
(サマナ)いえます。
 しかも、すべての苦を内在しているわけだから、すべての苦というのは、この宇宙にある、欲界にあるすべての苦を内在しているわけだから、もう経験すべきものはないよね、あるか。どうだ。−−ない。返事が一人しかないじゃないか。どうだ。
(サマナ)ありません。
 これが大乗の解脱だ。だから大乗の解脱というのは決して甘くない。わかるか、言っていることは。
(サマナ)はい。
 そして四無量心なんてものはけして簡単ではない。わかるね。
(サマナ)はい。
 じゃ、それをもっと速く進める、タントラの解脱、これにはカール・リンポチェの説明によると、ジュニアーナ・ヨーガ、あるいはマハームドラーが加わるわけだけど、これはどのような方法で行なわれると思うか。
 じゃ、ケイマ、答えてみろ。
(ケイマ大師)……。
 ずれているね、少しね。じゃあ、質問しよう。苦を経験し尽くすということは、どうだ、ものすごく時間がかかることだと思うか、それとも簡単なことだと思うか。どうだ。  −−よし。ではね、ではね。いろんな苦悩があるわけだけど、その根本的な苦悩というのはたくさんあると思うか、少ないと思うか。
 そして、枝葉を体験する人と、そうじゃなくて根幹を経験する者とは同じ結果に到達できると思うか。どうだ。これがタントラのものの考え方だよね。いいか、つまり、どういことかというと、まず諸現象を理解すると。もちろん、初めは理解する智慧がないわけだから、先程ケイマが言ったようにグルに意識を向けて、グルのエネルギーをもらって、そのデータの解析の仕方を学んで、そしてまず理解しなけれならないわけだけども。また諸現象を理解すると。そして、本質的な部分、苦悩の根本的な部分の取り出しに入るんだ。そして、その苦悩を、根本的な苦悩をバラバラに分解していくと。確かに根本は八万四千とカール・リンポチェは言っていらっしやったけど、根本はいくつだ。三つだよね、わずかに、どうだ。食・瞋・癡という三つだ。だからその根元的なエネルギーを、根元的な思考をだよ、わたしたちが分解できたならば、完全に分解できたならば、どうだ、それは大乗のすべての苦悩を内在したのと同じ結呆にならないか、どうだ。
(サマナ)はい。
 ね、ここにヴァジラヤーナの優位性があるんだよ。じゃ、ヴァジラヤーナは何に対して優位なのかというと、マハーヤーナに対して優位なんだよ。つまり、大乗に対して金剛乗は優位なんだ。優位とは何かというと、短い期間で同じ結果が得られると、わかるか。
(サマナ)はい。
 しかし、しかしだよ、結果は同じだけどプロセスは違うよね。そして、大乗の修行者とタントラの修行者との大きな違い、最も大きな違いは、大乗の修行というものは、もちろんグルというものがあるわけだけど、その苦悩の枝葉に対する教え、乗り越え方、それを中心としたグルであると。そしてヴァジラヤーナのグルというものは、そうでなくて三つの煩悩をバラバラに分解する、分解させる、いいか、ためのグルであるということだね。
 だから、帰依の土台からいったならば、大乗とタントラとを比較するとだよ、それは雲泥の差がなければならない。タントラは、ヴァジラヤーナは、完壁な帰依が必要であると。ねえ、大乗は、一応、尊敬、グルを尊敬すればよろしいと。この二つには、大きな違いがある。わかるな、プンナ。どうだ。
 さあ、あなた方は一応、まず原則だけを学んだわけだ。ねえ、では、あなた方はどの道を歩きたいと考えるか、どうだ。できればタントラの道を歩きたいか、う−ん。それは大変だなあ。それは簡単にできないぞ。近藤!
(近藤)はい。
 お前はどうだ。
(近藤)タントラの道を歩みたいと思います。
 ほんとか?
(近藤)はい。
 じゃ、わたしはヒナヤーナでいいという人はいるか。
 うん、他にはいないか。じやあ、自分はタントラはだめだっていう人はいるか。大乗へ行こうと。どうだ。じゃ、あとはみんなタントラか? これはすごい集団だね。楽しみにしとこう。で、わたしがインドから帰って、あなた方に戒のマントラを与えたよね、覚えてるか。帰依マントラ。「オーム・ナマー」。覚えてるか。
よし、じゃ、近藤、言ってみろ。
(近藤)オーム・アー・フーム
    ヴァジラ・ナマ・シヴァヤ
    ヴァジラ・ナマ・グルヤ
    ヴァジラ・ナマ・サティアンヤ
    ヴァジラ・ナマ・十戒ヤ
 よし、じや、この意味を、鎌田、言ってみろ。言えないか。
(鎌田)……。
 "オーム・アー・フーム"これはわかるね。"オーム・アー・フーム"、つまり、これは身・口・意だったね、における、金剛の"ヴァジラ"ね、"ナマ・シヴァヤ"、シヴァっていうのは、これはシヴァ神のことだけども、オウムでいっているシヴァ神というのは、ヒンドゥーのシヴァ神と、包含されているけども、同じじやないんだね。
 絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜、マハー・ニルヴァーナにいらっしやる救済者の救済者という定義をしているよね、わたしたちは、どうだ。これ以上にない偉大なる四つの無量心を背景としたお方であると。これがシヴァ神の定義だね。みんなわかっているね、それは、どうだ。よって、この"ナマ・シヴァヤ"、"シヴァヤ"にはね、釈迦牟尼如来も含めたすべての仏陀が包含されると考えてよろしい。いいね。
 じゃ、なぜここで、"ヴァジラ・ナマ"例えば"仏陀ヤ"と言わないかと。これは深い意味合いがあるよね。
 日本にも仏教は伝来していると。そして、いろいろな宗派が立っていると。しかし、仏教を真に実践している宗派は一つもないと。そうすると、会員に誤解を招かせることになると、ここで"仏陀"という言葉を使うと。
わかるね、言ってることは。そこでわたしたちはシヴァ神を立てたんだ。わかるね、言っていることは。
(サマナ)はい。
 つまり、名前なんてどうでもいいんだよ。例えばわたしが、例えば「タヌキ」だろうと、あるいは「麻原」であろうと、あるいは「ヘビ」だろうと、そんなのはどうでもいいわけだ、名前は。ここにいる、今、あなた方に講話をしているわたし、で、それを「麻原」と定義しようということで、「麻原彰晃」という名前があるわけだね。それと同じように、シヴァ神もこういう状態のお方と。それをわたしたちはシヴァ神と言っているわけだ。わかるね、言っていることは。
(サマナ)はい。
 だから、わたしたちは仏陀を否定しているものではない。いや、そうでなくて肯定してるわけだ。しかし、仏陀という言葉は今使えない。だってそうだろう、まあオウムが現われて、仏陀の意味合いというものは日本において少しずつ変わってきただろうけども、まだ仏像を仏陀だと考えている人たちが多い。わかるな、これは。だからそれを打破しなきゃなんない。そこで、初めに"ヴァジラ"、"ナマ・シヴァヤ"っていうのがくるんだ。
 それで次に"ヴァジラ・ナマ"ね"グルヤ"これはわかるな。あなた方を導く、まああなた方にとってはわたし、あるいは、ええ、人によっては大師を立てるかもしれないけど、……それは。それはグルになると。で、その人の教えによって、あるいはエネルギーによって成就していくわけだから、これは……な帰依をしなければならない。わかるな。
 そして次は"サティアンヤ"と、"ヴァジラ・ナマ・サティアンヤ"とくる。これは"サティアン"とは何かわかるな。"サティアン"とは「真理」だよね。つまり、これは、仏・法・僧の中の「法」に属するわけだ。しかし、これも同じで、他の仏教団体と混同されてはまずいから、ここで"サティアン"という言葉を使っているわけだ。つまり、「わたしたちは真理に帰依をしております」と。いいかな。金剛の真理というのは、不動の真理、絶対壊れない真理という意味だね。絶対に壊れない真理、絶対に壊れないグル、絶対に壊れないシヴァ神に帰依をしていると。
 そして、小乗を歩くにしろ、大乗を歩くにしろ、あるいはタントラを歩くにしろだ、まずベースは小乗であると。そして、小乗の十戒をわたしたちは受持しなければならないと。そこで、"オーム・ナマ・十戒ヤ"と、もちろんこれはサンスクリット語あげてもいいわけだけど、意味がないよね。だから、例えば、三つ目の文もだよ。"オーム・ナマ・真理ヤ"にしてもかまわない。それはどうでもいいことだ、その意味合いがちゃんと伝わっていればね。いいかな、ここは。
 そして、この帰依文を唱え続けることによって、あなた方の心の中のデータが、少しずつ変わり、グルに意識が向き、そして、いずれ、いずれだ、きちんとした帰依ができて、ヴァジラヤーナに入り、そして解脱するだろう。近藤。
(近藤)はい。
 何回唱えたか、今まで。
(近藤)えーと、帰依文ですか?
 帰依文だ。
(近藤)えーと、三千ちょっとです。
 足りないな、もっとな、もっと唱えろ。で、これを最低何回唱えろと言ったか、わたしは。
(近藤)十万回です。
 うん。ワークをやりながら、ぶうぶつぶつぶつ唱えなさい。よし、そして基礎がきちんとまとまった段階で、いよいよタントラの修行に入っていくわけだ。ここで、一つ気をつけなければならないことがある。それは、二十四時間のワーク、この二十四時間のワークのうち、たとえ二十四時間ワークをしていたとしてもだよ、その中で、例えばあなた方が帰依してるわたしだったら、わたし、あるいは大師の意見があったとして、その意見どおりもしあなた方がなさなかったなら、そのワークは無効となる。その理由はわかるか。悟。
(悟)はい。
 その理由はわかるか。
(悟)つまり、あのグルの意思というのは、我々の煩悩を弱める働き……そのワークを……。
 そのとおりだ。正解だ、言葉は足りないけどね。つまり、どういうことかというと、ここに自己の煩悩があると。わたしはこうしたい、ああしたいという煩悩があると。それに対して、グルは違うことを言っていると。その場合、もし煩悩を肯定したとしたならば、それは単純に煩悩を増大させた結果にしかならない。だから、このワークは無効であるということになるんだ。わかるか。だから、それがヴァジラヤーナに入った人の第一歩であると。そして、それを訓練し続けるうちにグルと似てくると。で、全く同じものの考え方、あるいは同じものの見方、これができたとき、もうすでにヴァジラヤーナの成就をしているといってよかろう。
 だから、ヴァジラヤーナについてもだ、現世で成就することはできる。それはあなた方の、心の持ち方で決まるわけだ。じやあ、なぜ、いいか、現世成就ができるんだ。田中! 田中、来てないか、編集の。
 一つ質問しようね、みんなにね。この世は真実だと思うか、それとも幻だと思うか。どうだ。
(サマナ)幻です。
 幻か、真実か、どっちだ。
(サマナ)幻です。
 じやあ、ちょっと多数決をとろう。幻だと思う人。
(サマナ)はい。
 じゃ、真実だと思う人。何人だ。
 はい、正解は、この世は真実だともいえるし、幻だともいえる。それは、どういうことか。じゃ、ミラレパ、それはどういうことだ。
(ミラレパ大師)幻とか真実とか……わかんないということ……。
 すごぐ悩んでいたみたいだけど、実際はそうじゃないね。この世は幻だともいえるし、真実だともいえる。なぜかというと、経験したこと、それは真実だよね。あなた方にとっては、そうじゃないか? しかし、経験したことが実際に残っているかと。確かに知識とか経験としては残っているけど、それは具体的な形を表わし、形としては残らないわけだから。いや、そうじゃないと、例えばここに彫刻があるとすれば、それを作ったら、作品として残ると、残ってるじゃないかという人もいる。しかし、ここで言う残っているというのは、例えば、制作のプロセスがすべて残っているということを表わしているわけだ。わかるね、言っていることは。で、これは残っていないから、幻だと言うこともできる。
 じゃ、同じようにあなた方が夢で経験すること、あるいは変化身で経験することはどうだ。これは、同じように真実だともいえるし、幻だともいえるんだね。それは同じようにあなた方が夢で経験したこともあなた方の経験として残っている。しかし、その経験として残っているもの、データとして残っているものが、その同じ状況というものが二度と返ってこない。だから、幻だともいえると。なぜなら、真実ならば、存在しているならば、いついかなるところでも同じ状況で接することができるはず、同じ状況で経験できるはずだから。わかるか、これは。
 ということは、この現象も、あるいは空性も、いいか、真実だということもできるし、あるいは幻だともいうことができると。わかるか。どうだ。そして、これを『般若心経』の中の、「色不異空」とか「空不異色」、あるいは「色即是空」「空即是色」という言葉で表わされているんだよ。ということは、瞑想上の体験も真実だといえるし、幻だといえる。この世の体験が真実だともいえるし、幻だともいえる。ということは、瞑想しなくても、この世だけでも、この世で瞑想と同じように体験し、それをきちんと消化していったならば、当然解脱が生じるわけだ。なぜならば、瞑想によって、同じ条件下での瞑想によって解脱が生じるとするならば、この現象界における行為によってでも、解脱は生じなきゃならない。わかるね、言っていることは。
(サマナ)はい。
 そして瞑想中にグルからエネルギーを受けて浄化できるとするならば、ワーク中に同じようにグルからエネルギーを受けて浄化できるはずだ。それがヴァジラヤーナの発想だ、いいか。そして、瞑想中に十分思考できるならば、ワーク中に十分に思考できるはずである。思考ということが合わなきゃ、思索できるはずであると。
 ということはだ、あれっ、ポイントはただ一つになってきたね。何だ、ポイントは。心の持ち方、精神の集中の仕方によって、ステージというものはいかようにも変化するということではないか? どうだ。そうするとだ、あなた方の明日からのワーク、この意味合いが違ってくるよね。
 はい、じゃ終わりましょう。
(サマナ)どうもありがとうございました。



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