TOPヴァジラヤーナコース教学システム>内容

●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.37〜P.47)

第五話(一九八九年四月二十七日 富士山総本部)

 今日はね、五道、三乗について説きたいと思います。五道、三乗とは何かと。この五道、三乗というのは、まず第一の道、これはわたしたちが阿修羅・人間・動物・餓鬼・地獄へと至る道であると。第二の道は何かと。これは四天王・小刀利天・夜摩天・兜率天、そして楽変化天・他化自在天へ至る道であると。第三の道は何かといったら、これは独覚とか、辟支仏とかいった世界へ至る道であると。第四の道は何だと。これは多聞の道であると。第五の道は何だと。これは菩薩の道であると。そして、この辟支・多聞・菩薩、この三つの分け方をもう少し違った形で分ける。それが三乗、つまり、小乗、大乗、そして秘密金剛乗であると。
 では、なぜ欲の六つの世界なのに、天界だけ別な扱いをしているんだと。カッサパ、なぜ天界だけ別な扱いをしているんだ。
(マハーカッサパ大師)−−。
 これは他の五つの世界に比べて徳という意味でね、安定した状態だからだ。そして、この安定した徳の状態、これはわたしたちに長い間の喜びを与えてくれる。マイトレーヤ。
(マイトレーヤ大師)はい。
では、なぜ天界へ生まれ変わることは素晴らしいことなんだ。
(マイトレーヤ大師)−−。
そうではない。修行している者が天界へ生まれ変わる、これは素晴らしいことであると。
(マイトレーヤ大師)−−。
 もちろんそのとおりだ。では、なぜ天界へ生まれ変って素晴らしいかと。まあ、マイトレーヤの言っていることは一つの正しい理論である。しかしそれだけではない。よく考えてみよう。天界という言葉と神という言葉は同一であろうか、なかろうかと。どうだ。
 よし、では、神の持つ力にはどういう力があるか。天眼・天耳・他心・漏尽・宿命・神足この六つがあるよね。そして、まあ漏尽というのはね、これは煩悩を滅する修行をしていなければ、なかなか得難いものだけども、今生で、例えば在家でできるだけ修行し、例えば出家してできるだけ煩悩を落とすと。そうすると、落としてない者に比べたらものをどうだ、ありのままに見つめることができると思うか、できないと思うか。これが漏尽の根本だよね。そして、天眼があると。宿命かあると。
 それによってわたしたちはわたしたちの生じ、生じては滅するという輪廻というものをよく理解できると思うか、できないと思うか。ということは前生修行し、そして煩悩をある程度滅却した者にとっては、その天の世界そのものは空しいと思うか、空しくないと思うか。楽しいけども空しいよね。そしてその空しさの背景、それを支えるものは何かといったら、先程言った神通力であると。
 もう一度繰り返すならば、神という言葉と天という言葉は同義であると。ということは神通を持たない修行者という者は、どうだ、よく仏教ではね、サーリプッタ、マハーモッガラーナという二大弟子の名前を挙げて、マハーモッガラーナ、イコール神通力者、サーリプッタ、イコール智慧者と、つまり方便自在であると、いわれている。しかしだ、サーリプッタは神通がなかっただろうかと、どうだこれは。例えば、説法をする場合相手の心の状態がわからなくて正しい説法ができるだろうか、どうだ。
 つまり、わたしたちが最終的には、この欲六界を脱出し、そして「有」の世界である、七つのジャンルに分かれた十七の世界に生まれ変わるためには、天界へ生まれ変わることが一番いいわけだ。もちろんね、人間の世界に仏陀、あるいは素晴らしいグルが登場したならば、そりゃ人間の世界というのは、天界に比べて苦しみが多いから、今生でその苦と楽というものを経験できるから、人間界へ生まれた方がいいだろう。しかし、例えば真理を説く者がいないとするならば、どうだ、この人間界に果たして魅力というものがあるだろうかと。よって、仏典では兜率天で修行者が修行しているんだという一説があるわけだ。
 わたしはこう考えている。徳のある者は、苦悩多きこの人間の世界にね、素晴らしい宗教的な指導者が誕生したときは、人間の世界へ生まれるだろう。次に徳のある者は、天界に素晴らしい指導者が登場したとき、天の世界へ生まれるだろう。そして三番目に素晴らしい徳を持った者は、天の世界に指導者がいないとき、神通を、天に生まれるわけだから、持って、天に生まれ、無常を知るだろうと。そして、最も徳がないのは、指導者のいない人間の世界へ生まれる変わると。
 ここでなぜ特別に人間とそれから天界を、わたしが出した理由というのはわかるよね。阿修羅というのは一般的には修行しづらいといわれている。実際はそうじゃないけど。でもここでね、それをそうじゃないということで、時間を使って説法すること自体、意味がないからここではそれは避けると。そうすると、動物、あるいは餓鬼、地獄に関しては、なかなか真理というものはないわけだから、これは例外であると。だから天の世界と人間の世界を対比してね、今話したわけだ。
 するとだ、グルがいようといまいと、天の世界へ生まれた修行者というものは、しかも煩悩を滅する訓練をしてる修行者というものはどうだ、素晴らしいと思わないか。マイトレーヤ、わたしの言いたいことはわかったか。
(マイトレーヤ大師)わかりました。
 うん。これが第二の道。天へ生まれ変わる道であると。
 では、いったい天へ生まれ変わるためには何をやったらいいかと。これは簡単なことだね。グル、そして真理、そして修行者に対して、大いなる功徳を積み、そしてできるだけ十の戒めを守り、七つの善行を行なうと。
 七つの善行というのは十の戒めの裏返しだったよね。第一は、生き物を殺さないで、慈しむ。第二は、盗みをなさないで施す。それから三番目のね、妻以外の者と、あるいは夫以外の者と、あるいは愛のないセックスをしないと。そして四番目は、嘘をつかないと。五番目は、一日一回の食事をとると。六番目は、堅い寝床で寝ると。例えば床に毛布を一枚敷いてとかね。決して豊かな寝具の上では寝ないと。
 はい。では、このね、六番目、なぜ豊かなね、柔らかい寝具の上で寝てはいけないんだという質問に対してどう答えるか。−−じやあ、パタンジャリ、どうだ。
(パタンジャリ大師)−−。
 今、パタンジャリ大師が難しい言葉、「喜貧」という言葉を使ったけど、これはわかるね。貧りを喜ぶと。そしてどうだ。柔らかい布団に寝ていれば、たくさん寝たいなと思うか、思わないか。ところが、寝床がひどければ、どうだ。早く起きたいと思わないか。そして、眠りが長ければ、それはわたしたちの心を愚鈍にするかしないか。いうことなんだね。よって、六番目にできるだけ堅い布団に寝ると。そして七番目は貪りを離れると。これが天へ生まれ変わる道であると。
 もちろん、この全部を達成すれば、欲界というのはね、エネルギーの世界であると。しかも熱エネルギー優位の世界であると。じゃあ、マンジュシュリー大師に聞こう。ここに一キロの爆薬があったと。ここに一トンの爆薬があったと。どちらの方が熱エネルギーが強いと思うか、爆発したとき。
(マンジュシュリー大師)−−。
そうだね。この一キロと一トンの比喩というのは何だかわかるか。
(マンジュシュリー大師)−−。
 うん。功徳、あるいはエネルギーということができる。例えば、現代人という者は低いレベルで安定している。これはね、君たちがまだ切れていない例えば性的な煩悩があると。そうすると性的な煩悩が高じてくると。これは一種の爆薬だ。ところが、その器が小さいと低いレベルで爆発してしまう。そうするとそれは静まると。またエネルギーが高じてくると。そしてまた爆発すると。これを繰り返すと。そうするとどうだ、爆薬の量というのは増えると思うか、増えないと思うか。
(マンジュシュリー大師)−−。
 ね、ところが蓄えていると、それはつらいんだけども、少しずつ少しずつ器が大きくなると。そして例えば死んでいくと。そうすると、そこで爆発が起きると。そうすると当然熱エネルギーの多い方が高い世界なわけだから、その人の方が高い世界へ生まれ変わると。
 じゃあ、怒りだって、熱エネルギーだから、どんどん怒ってればいいじゃないかと。どうだこれは。どうだ。
(サマナたち)−−。
 ところが怒りというものはエネルギーを生じるのではなくて、エネルギーを発散するんだね。わたしもね、この前、都庁に行ったとき、あまりにも課長や課長補佐の対応がひどかったんで、グヤサマジャの怒りを発してしまった。わたしの周りはものすごく熱かったそうだ。でもその熱かったというエネルギーはどこから出てるかというと、要するにわたしの生命エネルギーだよね。で、エネルギーを発散したということはどうなる。エネルギーを得したことになると思うか、損をしたことになると思うか。
(サマナたち)−−。
 そうだね。よって、必要のないことで怒ることは自己の損失であると、感じなければならない。
 よって、あなた方がエネルギーをできるだけ蓄え、そして功徳をお積みになってね、そのエネルギーを上昇していくと。これが第二の道の天へ至る道であると。
 ということはだ、他の五つの世界に単純に生まれ変わる方法というのは簡単だな。どうだ。まず、喜んで貪る。そして、自分と敵対する者に対してはすべて嫌悪の念を持って怒ると。そして、意味のないことにエネルギーを徹底的に浪費すると。そして、ああ、楽しかったと思うと。どうだ、この後は。わたしたちの行き着く先は五道だよね。五道の、地獄から阿修羅までの世界であると。わかったかな。
(サマナたち)はい。
 でもね、君たちはこう考えるかもしれない。でもこの前のとき麻原はね、怒ったじゃないかと。そこで、先程の小乗、大乗、それからね、秘密金剛乗、タントラ・ヴァジラヤーナという話が出てくるんだ。
 一つ質問しようね。ここに二つの怒りがあると。一つは自己を保全するために怒ったと。もう一つは例えばね、真埋を守るために、あるいは正義を通すために怒りを発したと。この二つの怒りは、本質的には同じだと思うか、違うと思うか。どのように違うと思うか。じゃあ、サラスヴァティー。
(サラスヴァティー大師)−−。
 他にあるか。わたしはこういう意見だというのは、どうだ大師。ケイマ、どうだ。
(ケイマ大師)−−。
 クラ、どうだ。心を成熟させるときの修行、これは自利であろうか、利他であろうかと。自利というのは自己を利すると。利他というのは他を利すると。どっちだ。心を成熟させる修行、それは利他であると。そして、例えば自己の怒りによって、自己のエネルギーの損失が生じると。でもそれによって真理が保全されるということ、これはね、自利であろうか、利他であろうか、どうだ。そしてその利他心というものは心を成熟させるだろうか、させないであろうかと。そして、心を成熟させるということはどうだ。わたしたちが本来持っている、経験していかなきゃならない高い経験をさせてることになるんじゃないか。自己の利益保全のための行、つまり行ないというものは、これはわたしたちを欲の世界に結びつけてしまうよね。わかるね。ところか、利他というものは逆にわたしたちを欲の世界から解放する働きがあるよね、どうだ。
 では、欲界と色界とはどちらが高いであろうかと。欲界と上位アストラル世界はどちらが高いであろうかと。どうだ。色界の方が高いよね。欲界というのは自利の世界であると。色界というのは利他の世界であると。そう考えることができる。
 次にだ。では、色界にはどのようにしたら生まれ変わることができるだろうかと。どうだこれは。じゃあ、ミラレパ。
(ミラレパ大師)−−。
 うん。要するに数学だね。例えば、三引く二は一になるのと同じだ。つまりわたしたちの持っている貪り、嫌悪、そして無智といったこの三つを取り除くと。しかし、ただ一つ取り除かないものがあると。それは生命に対する欲求であると。もう、もともと、貪り・嫌悪・無智を取り除いたら、その世界はすごく美しい世界なんだね。よって君たちか煩悩を滅却し、そして利他の心を持ち、そして生命に対する愛着はまだ切れないと。このとき、君たちは色界に生まれ変わります。
 そして、生命に対する愛着すらだよ、その生命に対する愛着というのは、わたしは生命に対する愛着はないよといっている人も中にはいるけど、ここでいう生命に対する愛着とは、この肉体から魂が抜け出すとき、これは瞑想で経験するわけだけど、それに対して平気で、しかも「有」に対して執着しないと。「有」というのは形あるものに対して執着しないとき、その人は無色界に生まれ変わります。しかも、かなり高い無色界に生まれ変わることができる。これは、オウムの言葉を使うならば、コーザル世界だよね。いいですか。
 はい。では、弟三の道。辟支、あるいは独覚というのはどういう道であろうかと。これはグルが与えた瞑想課題をただひたすら瞑想すると。例えばそれはツァンダリーの瞑想かもしれない。あるいは五蘊の瞑想かもしれない。あるいは十二縁起の瞑想かもしれない。あるいは五根五力の瞑想かもしれない。あるいは五感を滅する瞑想かもしれない。いろんな瞑想がある。それをただひたすら行じ、そして、その人が周りの影響を受けない状態で解脱したと。この状態が辟支の状態であると。
 君たちに一つね、プレゼントをしてあげよう。それは何かというと、いいか。オウムの成就をして在家にいるとね、欲界に生まれ変わる可能性が強い。これはわかるか。どうだ。カッサパ、わかるな、理由は。
(マハーカッサパ大師)−−。
 そうだ。現世の煩悩にまみえて修行してるから徳は積むと。しかし、欲が生起しないかといったら、生起する場合もあると。よって、欲界に生まれ変わる可能性が強い。だから、もし欲界に生まれ変わりたくないと、色界でも嫌だと、無色界に生まれ変わりたいと。こういう人はクンダリニー・ヨーガの成就をしたら、だれにも言わないで黙って消えるべきだ。そして人里離れた所で静かにね、涅槃すると。でなかったら、わたし自体はね、今日の最後に説く菩薩の道を君たちに歩かしたいと考えているから、せっかく得た君たちの色界、あるいは無色界に生まれ変わるチャンスをね、棒に振らせるからね。
 そして、辟支に至るための瞑想法、これは、来月号の『マハーヤーナ』から、『マハーヤーナ』の中で『阿含経典』の解説を始めるから、その瞑想を一生懸命やればいいと。
 そして実はね、オウムの中に三つの修行体系が含まれているのを君たちは知っていたかな。一つは立位礼拝、および極厳修行、あるいは忍辱精進修行、これは独覚の道であると。そして、今日みたいに瞑想修行と関係ない世界観、あるいは真理の素晴らしさを聴くこと、これはこの次に説明する多聞の世界であると。そして君たちの日々のワーク、これは菩薩の修行であると。つまり、君たちはオウムのシッシャとして頑張っている限り、絶えず三つの修行をしているんだと。しかもそれは一定の期間必ず修行できるという素晴らしい功徳を君たちが持ってるわけだね。
 はい。話は元に戻そうね。よって独覚というのはね、意志の力さえ強ければそんなに難しい成就ではない。またグルの教えをね、さえ着実に実践すれば必ず独覚、この成就はあり得ると。そう考えましょう。いいね。
(サマナたち)はい。
 では次は多聞だ。このいったい多聞の修行とは何だろうと。多聞の修行とは何だろうと。多聞というのは大いにわたしの講話を聴き、君たちの場合だよ、そしてそれについて考えると。これが多聞の修行であると。ではいったい、多聞の修行はどういうメリットをね、君たちに与えるだろうと。マハーナーマ、どういうメリットを与えるか。
(マハーナーマ大師)−−。
 そうだ。多聞のメリットというのは他人に真理の法を説くことができるようになる。しかし、神通がないとね、的外れの説法をしてしまう可能性があるから、そこはね、神通をつける修行もしなければならないよと。いいね。そしてこの多聞の修行はもう一つ君たちにメリットを与える。それは。じゃあ、もう一回カッサパいこうか。
(マハーカッサパ)−−。
 そうだね、そのとおりだ。よってこの多聞の修行者というのは救済活動向きということになる。
 では、次は菩薩の修行とは何だろうかと。菩薩の修行というものは、自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとすると、いうことがもともと菩薩の修行の根本なんだ。ではそれはいったいどういうことなのかというと、徹底的な利他心、他を利する心を持つと。
 はい。今日は新しいことを一つ加えようね。この菩薩にも二つあってね、タントラの菩薩とそれから大乗の菩薩、二つあるんだよ。では、ウッパラヴァンナー、タントラの菩薩と大乗の菩薩、これはどう違うんだ。
(ウッパラヴァンナー大師)−−。
 ヴァンギーサ、どうだ。
(ヴァンギーサ大師)−−。
 ティローパはどうかな。
(ティローパ大師)−−。
 はい。ええ、その二番目のね、タントラの菩薩と大乗の菩薩のタントラの修行をする菩薩と、大乗の修行をする菩薩というのがあったけども、それはどのように違うと思いますか、具体的に。
(ティローパ大師)−−。
 そうですね。もう少しつけ加えよう、それについて。大乗の菩薩というのはね、根本的になっているものは善が背景なんです。善というのは善きこと。しかもそれは、自分にもよく他にもいいこと。これが大乗の菩薩の定義なんだね。だから例えば、もし自分に悪く、他人にいい場合、もちろん自分に良く他人に悪い場合は当てはまらないけど、自分に悪く、つまり自己の悪業になり、他の善業、他を利する場合というのは大乗の菩薩は、そういう行動をとらないんだ。
 ところが、タントラの菩薩というのはね、自己は悪業を積むことになると、しかしそれが、他に対して利をなすならば、それを最高の実践課題とするわけだ。
 ではみんなに聞こう。なぜタントラの菩薩というのはその実践を行なうんだ。そして、なぜその方が早く成就をするんだ。どうだ。じゃあ、カッサパ、もう一度いこう。
(マハ−カッサパ大師)−−。
 プンナはどうだ。
(プンナ大師)−−。
 ん? はい。人の心の働きをよく考えてみよう。例えば、いいか。悪い世界へ行きたいと、苦悩の世界へ落ちたいと思う心があるだろうかと。どうだ。それを知っていてあえて行なう、そのときの心の強さ、この人の心の成熟の状態というのは、いかなるものだろうかと。どうだ。それに比べて、ただ単に善を行なうと。これは、他に対する利益でもある、例えば肉体を供養するときもね、その肉体を供養することによって、例えば発願し、未来において仏陀になりたいと発願すると。これは素晴らしいことだ。しかし、いいかな。そのときは自分にもよく、他人にもいいわけだね、どうだ。
 しかしここにタントラの菩薩がいて、このタントラの菩薩というものは、自分に悪く、他にいい修行をしていると。例えばここでこれをなすならば、せっかく自分の持っているエネルギー、あるいは、せっかく自分の積んできた功徳が台無しになってしまうと。しかし、それでも他に対して他を利するためにそれを行なうと。どちらの方が心が強く、そしてどちらの方がね、本当の意味での愛を持っているだろうかと。どうだ。わかるかな、言っていることは。
(サマナたち)はい。
 マンジュシュリー、まとめてみろ。
(マンジュシュリー大師)−−。
 はい。でもそこで一つ矛盾があるよね。だって高い世界へ生まれ変わるために修行してるんじゃないかと。この質問に対してはどうだ。
(マンジュシュリー大師)−−。
 マイトレーヤ、どうだ。
(マイトレーヤ大師)−−。
 そうだ。それも一つはあるかもしれないね。ケイマはどうだ。
(ケイマ大師)−−。
 仏陀の定義を考えてみようじゃないか。仏陀の根本というのは大慈、大悲じゃないか、どうだ。大いなる愛、大いなる哀れみじゃないか、どうだ。たとえ、悪い世界へ落ちたとしてもそれがすべての魂のためになるとするならば、もうすでにそれは仏陀の心の、その人の心の中に仏陀の種子が蒔かれているという答えにならないか、どうだ。
 たとえいったん低い世界に降りたとしても、そんな低い高いというのは、一時的な現象ではないか。最終的な絶対的な世界に入るためには、高い世界低い世界関係ないわけだね。つまり、その途中のプロセスは関係ないと。だからたとえ地獄に落ちようと餓鬼へ落ちようと、そんなのはどうでもいいと。大切なことは最後の瞬間なんだね。いかに早く、そしていかに多くの人を救済できるかと。そして自分自身がいかに早く本当の意味での慈悲を身につけることができるかと。どうだ。それを考えたならば、大乗の仏陀とタントラの仏陀ではタントラの仏陀の方が当然早く心は成熟するよね、どうだ。そして、これがだぞ、ポイントは。タントラが早く仏陀になる意味なんだよ。
 今日は、五道そして三乗を説いたけども理解できたかな、みんな。そして、五道、三乗があるということは、いかにこの五道、三乗が難しいか大変であるかということ、これを理解しなければならない。そして、日々、集中、精進、功徳、ザンゲ、戒、これをね、きちんと守るようにしなさい。いいね。
(サマナたち)はい。
 今日は新人シッシャには大変難しい話だったと思う。しかしね、今日のこの説法は、特にね、プンナ大師の目指している世界、あるいはマイトレーヤ大師、彼らが目指している世界についての今日は話をしたわけです。だから今日の内容について理解できないとき、ことはね、どんどん大師に聞いて、大師をいじめてやってください。いいね。




ヴァジラヤーナ教学TOPに戻る

TOPに戻る