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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.358〜P.361)

第五十六話(一九九四年四月三十日 京都支部)

 わたしたちは外側の感覚器官と同時に内側の感覚器官を有する。この内側の感覚器官を理解できるようになる段階、これがクンダリニー・ヨーガの完全なる成就である。
 外側の感覚器官と内側の感覚器官の違いは何かというと、わたしたちは一般的に、今日の大阪でも説いたとおり、放出の歓喜、あるいは放出の喜びに浸っている。つまり、自分自身が培った多くの功徳、あるいは善行によるプラーナの喜びを外側に放出すると。外側に放出するときに、外的対象と結びつき、そして外的対象と結びついたその対象を経験することにより喜ぶと。その典型的な例が性愛である。そして、その究極が、完全なるプラーナの源の放出であるボーディチッタの放出ということになる。ボーディチッタとは何かというと、“偉大なる覚醒の心の種子”とでもいうのが正しいだろう。
 ではなぜ、偉大な覚醒の心の種子ということができるのだろうか。これはもともとわたしたちの偉大な心の覚醒に必要なものとして、“歓喜”を挙げることができる。この歓喜は蓄積の歓喜である。つまり、多くの功徳を積み、善行をなし、そして悪業を捨断し、完全にザンゲによって浄化し尽くすと、わたしたちの内側のプラーナ、特にイダー・ピンガラ・スシュムナーという三つの気道に歓喜が浸る。この歓喜は何を意味するかというと、わたしたちは本来、五感ではない内側の感覚器官によって最高の喜びを経験することができるんだ、ということをわたしたちに指し示すのである。
 この歓喜の経験が第一の覚醒ということになる。そしてこの歓喜はわたしたちの心に大きな影響を与え、精神の安定と同時に完全なる平安を与える。
 そうすると、こういう人がいるかもしれない。「いや、外側のプラーナの経験は、よりダイナミックである」と。初めのうちはそうかもしれない。しかし、内側の歓喜・蓄積の歓喜を経験し出すと、外側の喜びというものは大したことがなくなるのである。そして例えばわたしたちが外側の喜びのために放出を続けると、つまり蓄積された喜びのプラーナの放出を続けると、次には精神が不安定になり、心が殺伐とし、そしてどんどんどんどん現象が悪化し出す。これが徳の消耗である。
 では、第一番目の歓喜の状態、第一番目の覚醒の次に何が起きるのかというと、先程述べたとおり、第二番目にそのプラーナは心に大きな影響を与え、安定と同時に至福を与える。これが第二番目の覚醒と呼ばれるものである。
 第三番目の喜びは何であるかというと、そのプラーナの動きが完全に静止すると。そして完全に静止し、それによって内側の世界と外側の世界が完全に同化されたような状態を経験する。というより、これは完全に同化された状態ということができる。つまり、内側の充実したエネルギーが感覚器官をシャットアウトし、そしてそれによって外側の現象、これを正確に止めたかたちで観察できる状態を培うと。
 この段階が寂止の完成ということができる。そしてこの第四段階の覚醒は、この歓喜のプラーナがよりいっそう充実し、そして完全に頭頂を満たすと。そしてそれは滴として落ちるという段階を超え、前面後面ともに充実された状態が生じると。この状態で、先程述べた寂止、プラス対象に対する正しい認識、つまり、正観が生じる。
 この寂止と正観が完全に完成していく段階が、ボーディサットヴァの道であり、そして、このボーディサットヴァの道の最終地点が覚者なのである。
 では、一般のヨーガとどこがどのように違うのかという点について考えなければならない。一般のヨーガの場合、確かに心を静めるために座るというプロセスが存在する。しかし、現代のようにカーリー・ユガの時代−−このカーリー・ユガの時代というのは、まあ、ちょっと難しい言葉を使うならば、成劫とか住劫とか壊劫とか空劫とか呼ばれる、つまり宇宙の創造期の状態、宇宙の維持期の状態、宇宙の破壊期の状態、そして宇宙の虚空期の状態の四つがあるわけだが、この住劫の最後の段階に入っている状態、この状態がカーリー・ユガである。
 このカーリー・ユガの最後の段階でどのような現象が起きるかというと、生きていることそのものが悪という現象が起きる。例えば、まさにそれはこの日本がそのとおりである。目で見るものを修習したらどこへ行くのかと。それは地獄、つまり邪悪心を生起させられたり、あるいは単なる性的欲望を生起させられる、動物、あるいは正しくないいろいろな実践をさせられる低級霊域、といった要素しか存在しない。
 このカーリー・ユガの時代で、ただ単に一日のうち何時間か座ればいいんだと考えるとした場合、わたしたちの徳は知らず知らずのうちに消耗される。つまり、放出の喜びの状態により、プラーナがどんどんどんどん消耗される状態であると。したがって単なるヨーガ瞑想でわたしたちが最終地点へ到達することは不可能なのである。
 したがって、カーリー・ユガにおいては必ず、大乗、あるいはタントラ・ヴァジラヤーナと呼ばれる教えがそこに存在する。これは何を意味するのかというと、偉大な覚醒の魂からプラーナを借りてきたり、あるいは多くの善行を周りに与えることにより、その喜びのプラーナを自分の内側に吸収し、そしてそれによって完全なる第一の覚醒を達成し、第二、第三、第四と覚醒を進める修行を指すと。
 つまり、わたしたちが布施の実践や、持戒の実践や、忍辱の実践や、多くの人を救済する精進の実践や、あるいは瞑想の実践や、あるいは智慧の実践という六つの極限を行なわなければならない理由というのは、この時代がカーリー・ユガだからなのである。
 例えば、もしこの時代がもっと優れた時代、つまり目で見るもの、耳で聞く音、あるいは鼻でかぐ匂い、舌で味わう味覚、あるいは触覚器で経験する感覚における触覚、このようなものがすべて真理のデータであり、そして真理の実践にプラスになる時代であるとするならば、わたしたちはただ単にその世界に生きているだけで解脱し、悟りを開くことができるのである。しかし、それはキリスト統治が始まらない限り、訪れないということができる。
 仏教の予言ではまもなく大きな戦いが生じ、そしてそれによって、山に隠れて住んでいた人が「さあこれから戒律を守りましょう」といって戒律を守るような、良き時代が到来することを予言している。また聖書においても、新しい、今から二千年前に登場したイエス・キリスト以上のキリストが登場し、そして千年王国が出現することを予言している。
 この千年王国とか、あるいは新しい時代の条件は先程述べた、目で見る、耳で聞く、鼻で喚ぐ、舌で味わう、あるいは触覚器官で感覚を経験するこのすべてが、自分たちのステージを上げるような世の中が出現するということである。
 ではなぜ、そこで例えば千年王国という、例えば今八十年、あるいは百年といった短い寿命しかない時代から、いきなり千年王国へと至っていくのだろうか、という点について考えなければならない。
 この内側の歓喜の蓄積というものは、神々への移行を表わす。神々への移行を表わすということは何を意味するのかというと、それは人間の寿命から神々の寿命へと移行することを表わしているのである。つまり、神々の寿命へと移行するということは、わたしたちが死なない身体を形成していくことを表わしている。そして、この千年というのは、まあ人間界のある程度歓喜を蓄積した場合、可能となる年数である。
 ではなぜ、可能となる年数といえるのかというと、これはインドのヨーギー等が瞑想修行に励んだ場合、千年、あるいは二千年生きているという伝説的な話をわたしもインドで何度も聞いたことがあるし、実際、瞑想修行を行なっていて百五十歳とかあるいは二百歳とかいう人たちがヒマラヤに住んでいるとかいう話を直接何度も聞いたことがあるからである。つまり、これは先程述べた内側のボーディチッタを完全に保全することにより、ボーディチッタが増大し、そして寿命を延ばす効果を表わしているとみるべきである。
 人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死を避けることはできない。そして、その死に対してのわたしたちのアプローチこそ、この人間として生きている上における最高の挑戦、また最高の生き方ではないかと考える。さあ、あなた方がただ単に現世にまみれ、このカーリー・ユガの毒を吸収し、そして三悪趣へ落ちないことを祈りたいものである。



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