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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.339〜P.348)

第五十三話(一九九四年三月二十七日 杉並道場)

 人間にはいろいろな生き方がある。そして、このどの生き方を選ぶかはそれぞれ自由なように感じられる。しかし、実際は自由ではなく、それぞれのカルマに依存しているということができる。
 ところで、それぞれのカルマといった場合、この抽象語のカルマという意味について、あまりにも言及なされすぎているように思われる。実際問題として、このカルマという言葉を別の言葉でいうならば「経験の構成」ということができる。「経験の構成」とは何かというと、その人の経験したこと、持っている知識、あるいはその人の今までの精神的傾向等が、合わさってカルマということができる。
 例えば、その人が自動車の乗り方について全く知らなければ、その人は自転車にしか乗ることができない。しかし、しっかりと独学にしろ、あるいは教習所に通ったにしろ、それを勉強するならば自動車に乗ることはできるようになる。これが経験の構成による、自転車か、例えば自動車かの選択ということになる。その人の傾向とは、例えば近くへ行くときに、足腰を使った方が、つまり実際の自分の足を使って、腰を使って目的地へ行った方が足腰が鍛えられるんだ、という考え方を持つならば、いくら自動車の運転ができたとしても自動車を使わず、自転車やあるいは歩いて行くことになるだろう。その人が精神的傾向として見栄っ張りであるか、あるいはそうではなく実用的であるかによって、例えば使われる車も変わってくる。もし見栄っ張りであるとするならば、自分の給与以上の車を買い、そしてそこで精神的負担を負いながらも一方では、自分はいい車に乗っているんだという満足感にひたる人生を歩くことになるだろう。もし、実務的であるとするならば、その車のシート、振動等を考え、自分の今の給与に合った車を買うことになるだろう。
 そして、これらの総和がカルマである。したがって、「それはカルマですね」という場合、そういう経験の構成や、あるいは識別といったようなものが、あるいはイメージといったようなものが影響を与えているんだというふうに考えるべきである。
 これを現実に当てはめてみよう。例えば、昨日の信徒の質問の中に、夫から暴力を受ける妻がいる、その奥さんの話が出たわけだが、これについて言うならば、なぜその夫と結婚したのか、また、一回別れてなぜ復縁したのか、つまり、そのときの自分自身の心の働き、依存心とか、あるいは経済に対する貪りとかいう妻側の心の働き、これをカルマというのである。そしてそのカルマゆえに、自分は今暴力を受けなければならないということになる。
 したがって、真理の実践者は善をなし、徳をなし、そして法則の記憶修習−−記憶修習とは記憶し実践することを指すわけだが−−記憶修習をなし、そして寂静へ至る絶えず思念、心の繰り返し繰り返しの思いを持つと。これらを持ちながら、あらゆる先程述べたカルマ落とし、ここでいうカルマ落としとは何かというと、過去において積んだ傾向の結果、過去において積んだ心の傾向の結果として現われるいろいろな苦しみに対して淡々とそれを受けとめ、そしてそれを取り除くと。
 では、人間にとって最も大切な時期とは何かというと、それは死の時であるということができる。この死の時にその人が何を記憶修習しながら死ぬのかということがポイントになる。
 例えば例を挙げよう。腹上死というものがある。この腹上死とはセックスの最中にそのまま死んでしまうという死である。この腹上死の場合、一般的には動物界へ転生するといわれている。
 では、例えば酒を飲みながら卒中にかかって死んだ場合どうなんだろうかという問題がある。この場合、二通り考えられる。一つは痛みを生じさせているかどうか、あるいは痛みがないかどうかによって違ってくる。この場合、一般的には低級霊域、あるいは地獄へと転生する。もし、その卒中によって、脳溢血によって、身体的に痛みを感じ−−この身体的に痛みを感じるとは、この頭の病気にかかった場合、ちょうど、半中間状態の経験をするから、ガンガンとした痛みを意識が感じる−−この状態で転生する場合、一般的には地獄である。そうではなく、すっと抜け出した場合、一般的には低級霊域へと転生する。
 では、例えば交通事故で死んだ場合どうだろうか。交通事故で死んだ場合、一般的に二つの転生を行なうといわれている。その二つの転生とは何かというと、まず、ショックにより完全に意識を失った場合、これは無智というものが背景により、その現象が現われるわけだから、動物界へ転生することになる。もう一つは、そのショックにより先程述べた中間状態での圧迫的な痛み、これを経験する場合、その魂は次の生激苦地獄へと生まれ変わるといわれている。
 では、例えば薬を打ちながら死んでいく場合はどうだろうか。俗にいう安楽死などがこれに当たる。この場合、百パーセント動物界へ転生する。つまり人間の意志というものが完全にシャットアウトされたかたちの輪廻になるから、これは動物界へと転生するのである。
 このようなかたちで、いろいろな死の状態を検討し、そしてどのようなかたちで死んでいくのかというのを見るならば、その魂がどの世界へ転生するかわかるし、この死というものがわたしたち修行者にとって最も大切であることが理解できる。
 したがって、例えばテーラヴァーダにおける仏典の中に死の時に僧が立ち会い、そしてそこからニルヴァーナに至るためのポワの技法が提示されるのである。このポワの技法はタントラ・ヴァジラヤーナ的な技法と、そして一般的な意識を徐々に移し変えるマハーヤーナ的な技法と、そしてヒナヤーナ的な技法の三つに分類される。この三つの分類の仕方は、例えばオウム真理教でいうならば、グルヨーガ・マイトレーヤの瞑想のように、別の身体を用意し、そこへ移し変える方法、これがタントラ・ヴァジラヤーナのポワということができる。
 では、マハーヤーナのポワは何かというと、この人間の世界から低い世界の苦しみを記憶修習させ、それより一つ高い世界の喜びを記憶修習させると。これを繰り返し繰り返し行なうことにより、低い世界から高い世界へ意識を移し変えていく方法である。これがマハーヤーナのポワである。これはテーラヴァーダの仏典に見受けることができる。
 では、もう一つのポワは何かというと、これは、例えばある魂が、そのカルマの集積の最後として身体的な痛みを経験すると。そしてそれを三宝と離愛著の瞑想、この二つの瞑想によって完全に痛みから解放され、つまり肉体というものから完全に解放され、そして肉体から意識が離れると。肉体から意識が離れると一般的には低級霊域へと移行すると。しかし、他の低級霊域と違い、離愛著があるがゆえにその魂は、離愛著によって低級霊域から人食い鬼神、人食い鬼神から神聖天、神聖天から光音天といったプロセスをたどることとなる。これがヒナヤーナのポワである。
 ところでわたしは死に際して一つの生き方をしたいと考えている。それは形としては坂本龍馬のような生き方である。これはどういう生き方かというと、要するに自分のボーディサットヴァとしての記憶修習をし続け、そして例えばドブ川の中で前向きで倒れ、その死の瞬間も自分のなさなければならない記憶修習を忘れない死に方である。ではなぜこの記憶修習が必要なのかというと、人間は必ず死ぬべきものである。したがって、この死に対して逃れることができないとするならば、この身体を一つの乗り物と考え、また次の身体を得なければならない。その次の身体を得るためには死ぬ直前の記憶修習が最も必要であると。したがって自分の意志、自分の心の働きというものを決して曲げることなく、堂々と、そしてこの人間の世界を去っていきたいと考えている。
 ところで、今日の話は皆さんにこのような原則的な話ではなく、少し高度な智慧のある話をしたいと考えている。したがって今日のこの話はこの信徒の中でも理解できない人がほとんどかもしれないが、わたしとしては法則を残さなければならない立場にあるから、皆さんに特別な法則の伝授をしたいと思う。それは何かというと、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナにおけるものの考え方の違いである。
 もともとヒナヤーナのものの考え方というのは、先程も述べた離愛著、現象から離れることをポイントとする。この現象から離れることによって、カルマの悪業から来る苦しみというものを経験しなくてすむ状況を作り上げると。そして、もともと本来持っているわたしたちの真我の特性によって解脱をするという方法である。
 第二のパターンはマハーヤーナ的な方法である。このマハーヤーナの方法は、もともと、この世界の構成要累を考え、そして善行や徳行を行なうことにより高い生命体へと至ると。高い生命体へと至ることにより智慧を磨くことが容易となり、そして高い智慧を有するようになると。高い智慧を有するようになることによって、よりいっそう現象に対する理解が強まり、そして解脱するという道である。
 第三番目はタントラ・ヴァジラヤーナの方法である。タントラ・ヴァジラヤーナの方法とは何かというと、この宇宙の構成要素とはこうである、人間の本質的な功徳と呼ばれるものは原理的にこうである、ということをはっきりと提示を受け、その提示によって真理とはこうだという実践をする修行である。
 まず「財」について考えてみよう。ヒナヤーナにおける財の考え方は、離愛著ゆえに放棄である。放棄とは何かというと、財を持たない、そして財を持つことによる貪りの生起等を徹底的に捨断する実践である。これがヒナヤーナにおける財の考え方である。
 ではマハーヤーナにおける財の考え方はどうかと。マハーヤーナにおける財の考え方は二つある。ひとつは自分か功徳を積まなければならないから、一生懸命財を集め、財を稼ぎ、そしてそれを布施するという道である。第二は、例えば財で困っていて、そして真理の実践できない人に対して、それを恵み与えるという方法である。これがマハーヤーナの財の考え方である。財とは財産の財ね。
 では、タントラ・ヴァジラヤーナにおける財の考え方とはどうであろうかと。これはラトナサンバヴァの法則と呼ばれる法則がある。ラトナサンバヴァの法則とは何かというと、もともと財というものは個人に帰納するものではない、帰納とは個人がそれを所有する、そしてこれはわたしものであると呼ばれるものではない、と断定する。なぜ断定できるのかと。それは死ぬとき持っていけないではないかと。あるいは無常を根本とし、増減するではないかと。あるいは悪業をなした人も一時的に財を多く得ることができるじゃないかと。あるいは死ぬまで財を多く得ることができるじゃないかと。したがって、財というものは善でもなく悪でもなく、しかもそれは個人に帰納されるものではないんだと考える道である。ではこれに対して、ラトナサンバヴァつまり、黄色い真理勝者方はどうお説きになるのかと。財は善、あるいは徳のために使うべきであると。財は悪のためにあるいは不善不悪のために、つまり善でも悪でもないもののために使うべきではないと。そして、善・徳のために、もし財を使うことができるとするならば、それは盗み取ってもいいんだという考え方である。
 ここで一つ問題が出てくる。それはヒナヤーナにおける不偸盗の戒と財を盗み取ってもいいんだと考えるラトナサンバヴァの教えの矛盾である。しかし、この矛盾については簡単である。先程述べたとおり、まずヒナヤーナにおける不偸盗の戒と呼ばれるものは、この人が離愛著し、そして低級霊域へ入り、そこから人食い鬼神、神聖天、そして大神聖天、光音天へと至る道を歩くための実践である。一方ラトナサンバヴァの場合、先程述べたとおり、財というものはだれのものでも本来はないと。そしてそれは善にそれをもし化すことができるならば、それは奪い取ってもいいんだと考える。そして、それは功徳であると考える、その記憶修習ができるかどうかによって違ってくるということになる。したがって、ここでの戒律対ラトナサンバヴァの教えというのは矛盾しないのである。つまり、それはその人かどの程度智慧を有するのか、その人がどの程度本質的に真理というものを悟っているのかによって違ってくるのである。
 次は。−−いいですか、この法則はもともとダライ・ラマ法王もお説きになりたかった法則だが、しかし、ダライ・ラマ法王は人間の知性があまりにも低いがゆえにお説きにならなかったとわたしは考えています。それゆえにチベットは滅んだんだと考えています。
 第二。第二はヒナヤーナにおける不殺生の戒と、それからマハーヤーナにおける生命延長という意味と、それからアクショーブヤの教えについて法則を説かなければならない。この不殺生、それからマハーヤーナの教え、それからアクショーブヤの教えについては、相当にこの教えを理解する場合、智慧を有するということができる。というのはヒナヤーナとそれからタントラ・ヴァジラヤーナは真っ向からその教えの本質、つまり解脱のシステムというものが対立するからである。
 まず、なぜ不殺生をした方がいいのか。これは不殺生を行なうことにより、つまり、殺生しない戒律をじっと守り続けることにより、多くの魂に苦しみを与えないということがある。したがって、苦しみを与えないということは、自分自身が苦しまないということである。したがって、わたし、あるいはわたしの弟子たちは小さな生き物、大きな生き物に対してこの不殺生の戒律を守ると。したがって例えば毒ガス攻撃を受けたとしても苦しまないと。そして、最も大切なことは、その生から死へ、小さな生き物にしろ至らしめるときに意識の断絶が起きると。その意識の断絶イコール瞑想の断絶につながると。したがって、この不殺生の戒律というものは素晴らしい戒律であるということができる。
 ではマハーヤーナにおいては、この不殺生についてどう考えるのかと。単純に殺生しないではなく、他の生命体を喜ばせ、そして生命を長引かせる努力をすると。それによって自分自身の寿命を長引かせると。これが不殺生、そしてマハーヤーナにおける生命延長の実践ということになると。
 では、タントラ・ヴァジラヤーナにおいてはどう考えるのかと。タントラ・ヴァジラヤーナにおいてはアクショーブヤの法則というものが存在する。アクショーブヤの法則とは何かというと、その生命体にとってどの時期に死ぬのが一番輪廻にとってプラスになるのかという実践である。つまり、例えば毎日悪業を積んでいる魂がいるとしよう。この魂は十年生きることによって地獄で十億年生きなきゃなんない。とするならば、例えば一年、二年、三年と長くなればなるほど、その次の生の苦しみは大きいと。したがって早く命を絶つべきであるという教えである。つまり、不殺生の戒と、このアクショーブヤの戒律というものは真っ向から対立することになる。しかし、カルマの法則から見るならば、両方とも正しいということができる。ただ、見ている点が違うんだと。
 つまり、ヒナヤーナの戒律においては自己の身体の苦痛というものをポイントとして見ていると。タントラ・ヴァジラヤーナにおいては自己の身体の苦痛ではなく、自分自身の輪廻転生、つまり意識は乗り物の主であり、そしてその乗り物の主は乗り物を移し変える、乗り物から乗り物へ移し変えるときの中心であるから、その主の道が外れないようにすることか必要なんだと考えると。したがってこの肉体の苦痛よりも輪廻を重視すると。これがアクショーブヤの戒律の本質であると。
 第三番目はヒナヤーナにおける不邪淫の戒と、マハーヤーナにおける慈愛と、それからタントラ・ヴァジラヤーナにおけるアミターバの戒律を対比をする必要がある。まず、ヒナヤーナにおける不邪淫の戒というものは、邪淫を行なうことによって自分自身の血流が性器に集中し、スヴァディスターナに集中すると。しかもそれだけではなく、例えば他人の妻−−一般的には他人の妻を盗むことを不邪淫の戒に触れるというわけだが−−他人の妻や他人の夫を盗むことによってその人の意識状態というものは、それを保持する魂の、つまり例えば妻や夫、特に一般的には経済的な面倒を見られているかどうかがポイントになるわけだが、その経済的な面倒を見られている方の魂のカルマを受けることになるから、これは動物界に落ちる。ゆえに不邪淫の戒は守るべきであると説くと。
 マハーヤーナにおいてはどうなのかというと、多くの人に多くの愛を注ぐと。しかし、ヒナヤーナにおける戒律というものは原則的に守られると。
 では、アミターバの戒律はどうなるかと。ここでいうラトナサンバヴァ、アクショーブヤ、アミターバ、アモーガシッディ、ヴァイローチャナという五仏はこれは戒律である。戒律であるというのは何かというと、タントラ・ヴァジラヤーナにおける原則的な思考ということになる。
 これは、その魂にとってその伴侶が、あるいは恋人が、真理というものを考えた場合、その真理に対して益するのか、益しないのかということがポイントになる。例えば、妻に引っかかり、夫に引っかかっている場合、それは真理の実践から見ると、非常に障礙になるわけだが、もし、その場合は盗んでもいいということになる。というよりも積極的に盗め、という教えが存在するのである。これは何を意味しているのかというと、先ほども述べた、カルマの法則というものがすべてをこの五仏の法則においては、基本の修行者の考え方になっているのである。ではそれはどういうことかと。例えば、愛著し喜び合うということは徳の表われである。これは素晴らしいことである。しかし、愛著し喜び合うことにより、例えば真理を実践しないということは、その魂は、次の生において動物界へ転生するかもしれない。したがって、その魂のカルマを最も高い状態で輪廻させるために、魂にとって順縁の偽になっているものを奪い取るのである、これがアミターバの法則と呼ばれるものである。
 次は原因の道と呼ばれるヒナヤーナと、それから中間の道と呼ばれるマハーヤーナと、それから結果の道と呼ばれるタントラ・ヴァジラヤーナの大きな違いを表わした教えが存在する。これは何かというと、アモーガシッディの法則と呼ばれるものである。例えばヒナヤーナにおいては、少しずつ善を積み上げる、少しずつ徳を積み上げるということを行なう。
 しかし、例えばアモーガシッディの法則になると、どうなるかというと、結果のためには手段を選ぶ必要がないと説くのである。なぜならば、もともとこの五仏の実践を行なう魂は、本質的に真我独存位であり、そして真我そのものの中に五つの仏陀の種子というものは存在しているわけだから、その五仏の実践を行なう魂のすべての行為は肯定されるべきである。したがって早く結果を出し、結果を出すことにより、世の中に大きな影響を与え、世の中に大きな影響を与えることにより、多くの衆生を済度しなければならないと説くのである。
 これがアモーガシッディの法則と呼ばれるものである。つまり、結果のためには手段を選ばないということである。
 最後にヴァイローチャナの法則というものが存在する。しかし、このヴァイローチャナの法則と呼ばれるものは、一般的に、まあ、ここであなた方に話したとしてもね、この日本では決して実践できえないものであるから。例えば、それは象の肉とか、いろんな肉が必要になってくるわけで、できないからここでは割愛させてもらう。
 したがって、わたしが今日言いたかったことは何かというと、自分自身がどのスタンスの修行を行なうのか、それはヒナヤーナなのか、マハーヤーナなのか、あるいはタントラ・ヴァジラヤーナなのかによって方法および結果が違ってきますよと。
 この法則については、わたしはわたしがオウム真理教を始めて、説こうか説くまいかずっと迷った内容だ。というのは、もともとあなた方が教育を受けていない魂であるとするならば、この法則は簡単に説くことができる。しかしあなた方は教育という観念の枠組みを自分たちで作り上げていると。その教育という観念の枠組みは何を意味するのか。まあ、もともと教育とは国家体制を維持するためにあるわけだが、それによって例えばこのタントラ・ヴァジラヤーナの法則の真実の姿というものが誤解される可能性があると。
 しかしだよ。もうわたしの生命というものはいつ途絶えてもおかしくない状態にある。だとするならば、今までわたしを信じてきてくれたあなた方に対してこのタントラ・ヴァジラヤーナの五法の中の少なくとも四法についてはお話をしておく必要があると考えたのだ。
 したがって、もう一度言うならば、ヒナヤーナは個人の立場に立っていると。それからマハーヤーナは個人とそして周りの人を救済する立場に立っていると。タントラ・ヴァジラヤーナはこの字宙の秩序、そしてカルマの法則を維持する、そういう状況に立っている。つまり、宇宙の秩序を維持する立場、救済者の立場、救世主の立場に立っている法則であると理解してほしい。いいね。  このほかに、タントラ・ヴァジラヤーナにおいては、いろいろな戒律、および加行、および戒の実践が存在する。まあ、それについてもわたしがこれからどれぐらい生きるかわからんが、生きている間にわたしの過去世からの経験と、そして学んだこと、実践したことを含めて皆さんに話をしたいと思います。



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