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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.288〜P.292)

第四十五話(一九九三年十月二十五日 清流精舎)

 今から十日ほど前、亀戸で一人のマハーポーシャの社員が死んだ。この死は、吐き気・頭痛を伴い、最期はろれつの回らないような状態で亡くなったそうである。もともと、この人は、頚部リンパ節に異常があり、そして、子宮筋腫を摘出してると、つまり取り除いている肉体の持ち主だったと。
 ところで、ここ二週間の間に、家族や、あるいはいろんな弟子が、わたしに対していろんなことを言ってきたと。「頭痛がする」「吐き気がする」、あるいは「目の奥が痛い」等である。これらはすべて、例えばマスタードガス、つまりびらん性のガスや、あるいは神経ガス、つまり、これはまあサリン、あるいはVXと呼ばれるようなね、ものなどがそうだが、要するにわたしたちの神経を冒し、そしてわたしたちを死に至らしめるものであると。そして、この第二サティアンの出来事は、このびらん系のガスと神経系の毒ガスが混ざったもの、これを長期にわたり第二サティアンに対して攻撃した結果としての現象であったと。
 実は昨日、三十八名いる二階の修行者−−第二サティアンの二階に修行者がいるわけだが−−にアンケートを取ったところ、そのうちの二十五名は、先程述べた神経系のガスやあるいはびらん性のガスの影響を受けていることが判明した。そして家族と、まあ、わたしがそうであったと。実はこの出来事というのは、去年の十一月の終わりぐらいから続いているのである。
 ではなぜ、オウム真理教は攻撃をされなければならないのかと。それは、予言された団体だからである。つまり、オウム真理教の拡大というものは−−ちょっとね、論理が飛躍的になるかもしれないから、まあそこは、「ああ尊師は、毒ガスの影響を受けてちょっとおかしいんだ」と思って聞いてくれ−−オウム真理教の拡大は、この日本の偏った社会機構を崩壊させ、そして、世界の偏った統治機構を崩壊させ、そして新しい機構を作り出す力というものを内在している。これはロシアのある外交官の話だが、今のロシアにとって、オウム真理教は欠くべからざる存在であると。それは平和を維持するために、であると。
 このオウム真理教の存在、そしてオウム真理教のこれからの予言等を見ると、やはり早く、その教祖、および系統を殺してしまう必要があると。
 ところで。わたしが君たちに言いたいことは、殺す・殺されるの話よりも、もっともっと重要な話をしたいからこの話を導入に使ったのである。つまり、「個人」という点から考えた場合の話と、それから、「この日本に生を受けた一つの魂」という話の二つである。まず「個人」という点からの話について、これからお話をしよう。
 わたしは、とっくに死んでもいい体験を、先程述べた神経系のガス、あるいは昨日もそうだ。たが、実際に三時間、バルドに放り出され、そして心臓が止まったり、あるいは実際に心臓が動いたり、あるいは呼吸が止まったり呼吸が動いたりという現象が続いた。しかしわたしにとってバルドというものは、全く知らない存在のものではない。つまりよく経験する存在のものであるから、そこでの経験というものは、例えば意識を緊張させ、それによって肉体と意識が切り離されるということが起きるわけでもないし、また中間状態に入った場合、今まで積み上げてきている帰依および修行の実践によって、苦しみがそこに存在するわけでもないから、別に大した問題ではないと。
 しかし、真面目に真剣に修行しない魂にとって、「死」というものは特別な意昧があると。つまりそれは、悪い意味でトランスフォーム、今の形を変えなければならないということである。
 したがってこのような死にかかる、あるいは死ぬ、そして復活するといった現象は、別に悪いことではないのである。つまり、わたしたちが本当に真理の実践を行なうとするならば、当然死に対する防御・死を完全に打ち破る経験を、死の前には、なしてなければならないと。そのなせるかどうかということは、君たちが日々のワークにおいてしっかりと功徳を積み、そして瞑想修行において、あるいは記憶修習において、できるだけ心を平静にし、そしてすべての現象を見極め、そして自分自身のエネルギーのコントロール・意識のコントロールのできる状態を作り上げられるように、日々努力し続ける以外方法はないんだと。その、修行を促進する上における死の経験、擬似死の経験というものは、マイナスではないんだということをここで言いたいのである。
 したがってわたしは、わたしを攻める、つまり肉体的に殺してしまおうとする魂に対して、まあある意味で、そのような経験をさせてくれたわけだから、大変な感謝をしている。これが「個人の立場」、つまり人間として生まれたとき、何を目標としなければならないか、なぜ「死」というものと対決しなきゃならないかということに対する、わたしの見解である。
 次に、人間として生まれた、このけがれた日本における自己の存在について考える必要がある。それは例えば、今から十数年前・貿易摩擦というものが本格化し出したと。とはいってもそのころは、今の貿易摩擦とは違っていたと。まだ、まあ日本の黒字に対してアメリカが何か一つ二つを要求し、それをのむ・のまないということを政治的に解決することに対するテレビのコメントとして、多くの経済学者が、「経済に対して政治が立ち入るということは、もうこれは経済の末期症状である」と言うのをわたしはいくつかのテレビで見たものである。しかし今はそうではなく、政治というものが中心となり、そのコントロール下に経済は置かれている。つまりそこに、自由というものは存在していないのである。
 そして、これらの状況、つまり今から十数年前と今の状況とを対比した場合、当然今の方が、より社会的に病んでいるわけだが、もうこの政治的解決について、だれ一人としてそれを非難する魂はいなくなったと。つまり、マスコミの、マスコミにおいてである。また、新聞や大新聞の、あるいは、テレビ・ラジオ等の動きを見ても、完全なる思想統制、一つの方向に国民を考えさせる訓練が始まっていると。
 これらの状況に対して、わたしたちは何もしなくていいのかという問題がある。もちろん、例えば左翼的な考え方・あるいは右翼的な考え方によって、宣伝カーを乗り回し、あるいは刀を振り回し、あるいは拳銃を持って対決するというのも一つの道かもしれないが、それでは世の中は変わらない。では、どうしたら変わるのかと。それは、聖典を読み、そして、今いったい、わたしたちが存在しているこの時代というものは、どの時代に属するのかと、そして次にはどのような時代が来るのかと、その過渡期には、つまり、今の時代から次の時代の間にはどのような変化が起きるのかと、あるいはどのような戦いが起きるのかと、そしてそれに対しては、どのような防御がなされるのかと、あるいはどのような攻撃がなされるのか−−ということを徹底的に研究し、そして、それに対して準備をすると。そして、その時代の流れの、まさに、ここにいる一人一人が、キーパーソンになったとき、そのときこそまさに、あなた方がこの日本に生まれた意義、つまり、すべての衆生に対して最も大きな利益を与える意義というものが存在するはずである。
 なぜならば、もちろん未来というものはすべて決定ではない。しかし、個のカルマ、あるいは生まれてくる魂の質等を検討するならば、これはほとんど決定されているということになる。そして、そのどちら側の陣営に立つのか、あるいは両方の陣営に立たないのか等の立場によって、その人は大きな功徳を積んだり、積まなかったり、あるいは悪業を積んだりするのである。
 もともと、善業・悪業というものは、相対的な観念によって成立している。例えば、ここで例を挙げよう。ある人が、ある人を殴ったと。この殴ることによって、その殴られた人が例えば恐怖を覚え、そしてそれから、その殴った人を怖れる。ただこれだけを修習するとするならば、これはある魂を動物界へ転生させるカルマをつくることになるから悪業であろうと。しかし、ある魂がある魂を殴ったとき、その殴られた対象がそこから心を入れ替え、例えば一生懸命に正しい真理の実践を行なうとするならば、それは殴ったということは功徳になるであろう。
 では、この現象を見て、「すべては結果オーライなのか?」という問題が出てくる。実際、結果オーライではない。この前者の要件が満たされるか後者の要件が満たされるかは、その殴る側の心の働きの中に、四無量心、つまり対象に対しての聖慈愛・聖哀れみ、あるいは称賛や無頓着といった心の働きが成立してるかどうかということがポイントとなる。一般的にこれらの行動を規定する場合、二つの要素、つまり愛著や嫌悪という要素か、あるいは四無量心という要素の、この二つの要素のどちらかが心の働きを成立させ、それによる結果を引き起こすのである。
 したがってわたしたちが、偉大なる四無量心の実践を行ない、ボーディサットヴァとしての心にのっとり、すべての現象を動かすとするならば、その行為というものはすべて完全肯定・完全功徳・完全なる善ということになる。しかしもしわたしたちが、対象に対する単なる憎しみによってすべての行動を起こすとするならば、それは、完全なる否定・完全なる不徳・完全なる不善ということになるのである。
 したがって、君たちは、今日のね、まず、個人における死というものに対する課題、これをこなすこと、そして個が集団、あるいは社会に対して偉大なる四無量心を発揮することにより、「すべての衆生を済度するぞ!」という大願を持つことを念頭に置いてもらいたいと思います。
 もともと、ポテンシャル、これがアビリティに変わり得るかどうかということは、当然ポテンシャル以上のアビリティというものは成立しない。しかし君たちがここに存在してるということは、君たちは普通の魂と違い、多くのポテンシャルを有してるのである。そしてそれは例えば、アビリティに還元できるのである。
 実はわたしは、マハーヤーナ、つまり多くの人を救済するという動きにも今は力を入れ出している。そして、例えば例を挙げるならば、九月の入信が東京で八十七名だったと。しかし十月では、今週一週間、五十二名の入信をしていると。そして間もなく、九月一週間分(※一カ月分)の八十七名、これを一週間で達成するべく、東京本部は動き出すはずである。そして最終的には、今ロシアで入信が行なわれている、一週間に五百名、あるいは六百名といったね、入信から最終的には、一週間で一万名ぐらいの入信にまでもっていかなければならないと考えている。なぜならば、予言の時は近いからである。
 さあ、奇跡を起こそうではないか。そして、奇跡を起こす前に、必要な智慧を磨こうではないか。そして、智慧を支える偉大なる四つの無量心を確立しようではないか。そして、今の自分のけがれた五つの構成要素の終焉である、死を経験しようではないか。いいね。
(一同)はい!
 しっかり、頑張ろう。


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