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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.253〜P.263)

第三十九話(一九九三年四月十八日 杉並道場)

 世界にはいろいろな宗教が存在する。
 そして、その宗教の特性を大きく分けて、二つに大別することができる。その一つは「一元宗教」である。もう一つは「段階的宗教」であるということができる。そして、一元宗教イコール「顕教的要素」、段階的宗教イコール「顕教的要素を持った密教的宗教」ということができる。
 この顕教と密教の間の差は何かというと、要するに、人間が人間を超えて神々へ至れるかどうかということになるのである。この、顕教的要素と密教的要素の中で、まあ顕教的要素は除外し−−というのは、ここではせいぜいが、人間のもともと持っている通常の思考による、理解による、現世における判断、これをより善の方向へ導くという程度のものだから、人間が一生において到達し得る世界というものは、たかだか知れているという意味において除外し−−段階的宗教について少し検討してみたいと思う。
 例えば、わたしたちの最も近くの国である中国。この中国には仙道、または道教と呼ばれるものが存在する。この道教とは何かというと、中国武術を根本とし−−まず中国武術による、粗雑なエネルギーを練ることから始め、そして次の段階で座り、小周天・大周天へと移行していくと。そして、魂の本質はエネルギーであることを悟り、最終的にはそのエネルギーにより、別の身体−−まあ中国仙道では”陽神”といっているが、オウム真理教の言葉では”変化身”と呼ばれている身体−−を作り出し、そして、最終的にはそのエネルギーから完全に解放された状態、つまりニルヴァーナへと到達する。これが中国仙道のプロセスである。
 これを、オウム真理教流に分類すると次のようになる。
 まず第一は中国仙道の土台である拳棒次に気功といった順になると。この次の段階でヨーガのアーサナが入り、そしてプラーナーヤーマを含んだムドラー、および、精神集中による小周天・大周天の技法ということになる。この大周天、変化身の状態等については、君たちはクンダリニー・ヨーガの成就者の体験、その四つの体験の中の「化身」、そして「光への到達」等の内容を見れば、これが小周天・大周天を通過した上において生じる現象であることをよく理解することができるはずである。そして、その後、完全に「意識の連続」、および「この肉体のエネルギーからの解放」という第四静慮へと到達する。これが、中国仙道の最終段階であるということができると。
 中国からもう少し西へ行き、インドへと飛んだらどうなるかと。このインドにおいては、二つの流れの宗教が存在する。一つはヒンドゥー教と呼ばれるものである。このヒンドゥー教は、あくまでも所作ヨーガや行ヨーガといったものを中心としている。彼らは、神々に対してプレイ(pray)することにより、つまり祈りを続けることにより、神々との合一、あるいは神々をじかに見るという現象によって、この世界だけではなく、より高い世界の存在を確認する修行を営む。
 しかし、所詮はここまでである。なぜならば、神々すべては「有」の世界に属していると。この「有」とは仏教的な特殊用語で、現代のオウム真理教の用語を使うならば、形状界ということになる。もちろん、非形状界にも神々は存在する。しかし、その非形状界の神々とのコンタクトというものは視覚的なものではなく、あくまでもフィーリング的なものであるから、ここでは除外したのである。
 もう一つの流れは何かと。これはヨーガ派と呼ばれるものである。これは、現世を捨て、そして、ヒマラヤその他の山の奥地へ入り、熟考と吟味を繰り返す。当然、その熟考と吟味の土台となるものは、「三ヴェーダ」と呼ばれる経典である。この経典を土台とし、自己の本質とは何かを徹底的に見つめる。これがもう一つの派、ヨーガ派と呼ばれるものである。
 では、同じく、今から二千五百年以上前に登場した仏教は、このどちらに属するのかということについて検討しなければならない。これは明らかに、前者と後者を併わせ持った要素のものということができる。
 その典型的な例が、北伝仏教であるチベット仏教を見ればよくわかることである。つまり、所作、行、ヨーガ、そしてアヌッタラ・ヨーガタントラという四つのプロセスの中身は何かというと、まず儀式的なもの、祈りによって神々への近づきを行なうと。そして次の段階で、形ある神々との合一を果たすために、例えば「チァクラサンヴァラのヨーガ」とか、あるいは「グヒャサマージャのヨーガ」とか、あるいは「ヤマーンタカのヨーガ」とかいった形ある瞑想へと移行する。そして最終的には、無色のヨーガへと移行する。つまり「すべての現象は実体がない。すべての現象は、原因・条件・結果の三つによって成立するんだ」ということを認識するためのアヌッタラ・ヨーガタントラへと移行するのである。
 では、この極東である日本はどうであろうかと。残念ながらオウム真理教が登場するまで、一応密教の形は存在していたが、これはあくまでも形状界までの密教、しかもそれは現世御利益的密教しか存在しなかったということを皆さんは認識すべきである。
 では、なぜ現世御利益はいけないのかということについてここで考えなければならない。それは、原因・条件・結果を考えた場合、当然、この現世におけるある願望をかなえる場合、その、かなえる原因というものは、この現世に縛られるということである。
 では、なぜこの現世に縛られてはいけないのかについて、次に考えなければならない。それは、この現世のしがらみ、特に欲望の貪りに執着した場合、それはわたしたちが低級霊域へと転生する因を修習することになるからである。また逆に、例えば恋愛における願望成就等の精神集中を行なった場合、それはスヴァディスターナ・チァクラを開発することになり、そして動物の世界へと転生することになる。逆に、例えば恨みに対して密教的技法を使うならば、それは邪悪な心の修習ということになり、地獄へと至るのである。
 これらのことについては、一般的に見た場合、それを全く見ることができず、あるいは聞くことができず、あるいはにおいをかぐことができず、味わうことができず、感じることかできないがゆえに、わたしたちはそれを否定しがちになる。しかし、わたしたちが謙虚な心を持つ場合、「わたしたちの知っている世界というものはほんの一部である。それは今この地上に行なわれているいろんな現象においても、ほんの一部の現象しかわたしたちは見ることもできず、聞くこともできず、あるいはにおいをかぐことも、味覚的に味わうことも、触覚的に感じることも、意識によってとらえることもできないんだ」ということを認識すべきである。
 では、もう一方の極まりであるユダヤ教はどうであろうか。もともとこのユダヤ教は、ヨーロッパの根本的宗教の一つであるということはできる。
 このユダヤ教には三つの段階が存在する。第一段階は、『旧約聖書』により一生懸命その信仰を進める。第一段階は、『タルムード』と呼ばれる分厚い経典を読むと。そして実践すると。これは、仏教的にいうならばマハーヤーナ仏教と非常に近いということができる。そして第三段階は、カバラ密教であると。そしてこのカバラ密教は、神への合一、および宇宙の創造主と合一するということを目的としている。
 ここで、興味深いことがある。このカバラにおける宇宙観と、そして、今オウム真理教が説き明かすテーラヴァーダの宇宙観は全く同じであるということである。その魂の落下は、階級的意識世界、つまり神聖世界がまず存在し、次に男女の成立。そして、邪悪な世界の成立という三つに大分していると。もちろんオウム真理教の教えは、その上に、光音天の世界をはじめとする上位形状界、あるいは上位非形状界というものが存在する。したがって、「このカバラの教えというものはオウム真理教の教えに内在している教え。しかし、その内在している部分については、全く、何ら変わりがないんだ」ということを認識すべきである。
 そして、彼らの説き明かす修行法の基本的なものは、極限の蓮華座、ムドラー、ビバリータ・カラニー(Viparita-Karani)といったヨーガ的技法であることはいうまでもない。では、なぜ彼らがこれに気づいたのかと。それは、もともとユダヤ教の教えの中にその法則があったわけではない。この法則は、あくまでもヨーロッパが、今のインド、あるいは中国と接して、その後持ち帰った内容であるということができる。そしてその後、秘密裏にこの宗教改革は押し進められているのである。
 ところで、人間には二つのタイプが存在する。それは、情報によって魂をコントロールする側に立つ者と、情報によってコントロールされる側に立つ、二つの衆生である。この二つの衆生は、別の言い方をすれば、高い知性と知能を有しているグループと、それから低い知性と知能を有しているグループということができる。なぜそのように断言できるのかについてこれから少しお話をしよう。
 それは、もともと、情報によりコントロールされるということは、わたしたちが瞑想体験を行なってもわかるとおり、まさに悪趣へ至るときのプロセスとそっくりだからなのである。そこで現われるヴィジョンや、あるいは色、光といったようなものを自分自身でコントロールし、そして高い世界へ上がっていく教え、これこそがバルドの教えであるが、実際、ほとんどの魂はそうではなく、自分の修習した経験の構成により現われ出るヴィジョンに巻き込まれ、そして、輪廻を繰り返すと。
 つまり、低い世界へ至る魂の基本というものは、情報である。ということは、その魂は生前から情報にコントロールされていなければならないと。そのコントロールされている現実が、今まさにこの日本に生存しているわたしたちであるということを認識したとき、わたしたちは何を考えなければならないのかと。それはいかに情報を遮断し、そして内側に、自分の内側に何が存在するのかということを認識する必要があると。
 そして、この日本をはじめ、世界で起きているいろいろな現象は、ほとんどが嘘、デタラメであると。それは、あなた方自体、オウム真理教バッシングというものを経験してよくわかっている……と思う。この、ほとんどが嘘・デタラメの中で、では、何をどのように確信を持って達成すればいいのかと。それは、心を浄化するもの、そして意識を鮮明にするものを良しとし、心をけがすもの、意識を不鮮明にするものを悪しとするならば、わたしたちはおのずから、なさなければならないこと、そして、なしてはならないことに気づくはずである。
 ところで、この、わたしたちの無智を根本とした結果として、いよいよ九三年以降、何がどのように存在するのか、何がどのようなかたちで現象化するのかについて話をしなければならない。
 これはある信徒の情報だが、間もなくカンボジアの自衛隊は武装するそうである。つまり、自動小銃を持つそうである。これは、まさにわたしが「九三年再軍備、つまり自衛隊が軍隊に変わるよ」と言った予言の成就を裏づけるものということができる。今までは丸腰の自衛隊員がカンボジアへ行っていたと。しかし、その丸腰の自衛隊員がグループとなり、そして自動小銃を備えると。これはまさに軍隊である。「外国へ出兵された軍隊」ということができると。
 わたしはこの軍隊の出兵について、肯定的意見も否定的意見も持っていない。なぜならばそれは時の流れであり、すべてはカルマの集積だからである。しかし、この再軍備が仮になされたとするならば、そして−−これは八○年代の終わりから言っている−−一ドルが一○○円になったとするならば、そして、日本の国力が今以上に衰退し−−つまり、今の、再び上昇した株価の下降が瞬間的に起きたとするならば、そのときわたしたちの前に待っているものは何であろうかと。いよいよ、第三次世界大戦ということになる。
 ノストラダムスは、この日本に対して大変興味深い予言詩を残している。それは、一九九九年にこの日本はどうなるのかというと、「まず血の洗礼を受ける」ということと、それから「小麦の輸入がストップされ、小麦が欠乏し、わたしたちの食生活というものはジリ貧になるんだ」と予言しているのである。
 これに対してどのような対処をすればいいのか。それは、外的環境から離し、つまり例えば山へこもり、五年分七年分の食料をしっかり備蓄し、そしてひっそりと暮らす。まあこのような方法を採るならば、なんとか生き延びられる”かも”しれない。
 ではなぜ、「なんとか生き延びられる”かも”しれない」とわたしは言っているのだろうか。それは、第三次世界大戦においては、局地戦ではなく、地球規模の大戦になるからである。しかも、その地球規模の大戦の中心は、アメリカ、日本、ヨーロッパ、そして中東といった場所がすべて巻き込まれると。ということは、今の原爆・水爆以上の兵器であるプラズマ兵器、あるいは反射恒星砲と呼ばれるロシアの兵器等がもし使われるならば、どこにいたとしても、瞬間的に焼け野原になってしまうのである。
 しかし、わたしたちは無智なるがゆえに、眼の前の瞬間的喜びに、あるいは瞬間的苦しみに翻弄される。その瞬間的喜びや瞬間的苦しみに翻弄されるがゆえに、わたしたちは少し先のこと、つまり数年先のこと、あるいは十年ぐらい先のことについて、全く見えなくなっているのである。
 では、なぜ見えなくなっているのだろうか。この件については、このような表現をすればよくわかる。ここに透明な水があったとして、その透明な水にいろいろな絵の具を落としていくと。初めのうちは綺麗に湖底が見えるかもしれない。しかし、その湖底はいろいろな色が混ざると同時に徐々に徐々に見えなくなり、最終的には視界が全く表面だけ、水の表面だけしか見えなくなるのである。
 これがまさに、わたしたちがいろいろな現象に対して、色眼鏡で現象を見ている状態によって起きる現象である。そして、これらの色を一つずつ取っ払って初めて、わたしたちは今から一週間後がわかり、今から十日後がわかり、今から一カ月後がわかり、今から一年後がわかり、そして今から五年後、十年後がわかるのである。
 わたしは、君たちに成就を示してきた。そしていろいろな予言をなし、その予言が達成される度にわたしはこう言っている。「君たちの前にいる、麻原彰晃は予言された人物である」と。なぜ予言された人物か。それは予言どおりの形状を有し、しかも、君たちに、過去において現象を予言し、そして現在において、あるいは少し過去においてその予言の成就を達成したとき、「わたしはこのときこのように予言したではないか」という話ができるただ一つの魂だからである。
 このような予言をなす魂というものは、今果たしてこの日本に、そして世界に存在するだろうか。
 これは先程述べた、わたしが日々、色をいかに取り払うか、あるいは苔をいかに取り払うか、あるいは沸騰した水をいかに静めるかという修行を行なっているからである。そしてもちろん、わたしの弟子の中で、高弟の中で、この修行を行なっている魂は、少しの予言、あるいはそれより少し大きな予言等の神秘的な力を有し出していると。
 これは当然である。なぜならばもともと、わたしたちの心を浄化することの時間というものは、一生、二生、五生、十生、千生程度ではとうてい達し得ない。しかし、その努力は必ずやわたしたちに報いるのである。しかも、それは短い期間でも多くの利益をわたしたちに与えてくれることはいうまでもないのである。
 オウム真理教は、マスコミに叩かれて、それでも発展してきた。その一つの現われとしては、渋谷から始まった十坪の道場が、今では道場の空間は一万六千坪になっていると。これは約千六百倍である。もし、マスコミの戦いに遭わなければ、今ごろその十倍あるいは百倍の空間を有していただろう。しかしわたしは、叩かれたことを喜んでいる。感謝している。なぜならば、叩かれることが予言だったからである。そして叩かれることは、予言として成就しなければならなかったのである。その叩かれた中でこの千六百倍に拡大した教団の道場の空間は、間もなく二千倍になろうとする。これは数カ月の内にね。
 ではなぜそうなるのか。それはどうだ、君たち。徳の理論というものは? どうなるか。もし大いなる善の実践・徳の実践を行なうならば、それは現世の果報として現象として現われるはずである、どうだそれは。ところが、そこに到達するためにはそうとう勇気が必要であり、その実践においては忍辱と、そして精進が必要である。どうだそれは。
(一同)はい!
 その魂を多く有するオウム真理教が、教団としてどんどん拡大していくことは当然である。どうだ。
(一同)はい!
 確かにマスコミによって叩かれたわけだが、その叩かれたがために、本当は真理に気づかなきゃならない魂が真理に気づいていないという現状がある。しかし、その叩かれた、カルマ落としを受けている人たちの集合体であるオウム真理教の道場が拡大することは本則として当然である。どうだ。
(一同)はい!
 しかしだ。より、以上の功徳を持つ相手が現われ、その功徳を有する者が、この地球を完全に支配したいと考えた場合、君たち、どうだ。当然、徳の高い方に軍配は上がる。どうかな?
(一同)はい!
 つまり、グリフォン対アフラ・マズダの対決というものは、いかに偉大な徳を有するか、いかに偉大なる善を実践するか、あるいは、いかに偉大なる法則を理解するか、あるいは、いかに完壁なる寂静を達成するか、この四つの修習をなし、そして実践した者が勝つのである。
 これから約二千年後、地軸は逆転する。この地軸の逆転と同時に、この今の人類は完全に滅亡する。もし、このままの進化をたどったならば−−である。つまりわたしたちがいくら頑張ったとしても、過去の歴史を科学的に検討するならば、この人類は二千年しかもたないのである。したがって、二千年以上もたせるためには、より発展した、発達した智慧・知能を有する魂の一群に、この人類は進化する必要がある。そしてその試練が、わたしは、ハルマゲドンではないかと考えている。今、アメリカのバックについている大いなる智慧を有する者たち、ロシアのバックについている大いなる智慧を有する者たち、中国のバックについている大いなる智慧を有する者たちが何を考えているか。それは、彼らは一つ、つまり、この人類を、より神々の方向へ近づけようとしているのである。ということは、本来、ここに集っている君たちは、救済され得なければならない魂ということになる。
 では、その彼らとわたしたちの違いは何であろうかと。それは四無量心という、四つの偉大なる心の覚醒というものを有するか有しないか、ということがポイントになる。つまりわたしたちは、すべての魂を、できたら引き上げたいと、すべての魂を救済したいと考える。どうだ。
(一同)はい!
 しかし、時がない場合、それをセレクトし、そして必要のない魂を殺してしまうこともやむなしと考える智慧ある者、あるいは徳のある魂がいたとしてもそれはおかしくはない。どうだ!
(一同)はい。
 そして最終的には、この二つは大きなぶつかり合いになるのである。もうすでに、その選定は始められている。例えば、カンボジアがそうであるようにね。カンボジアはPKO、つまり平和維持機構という名のもとに、カンボジア人自身がその自治を行なうことを許されていない。これは、今の国連の流れ、つまり「世界は一つ」の思想にそぐわない国だからである。別の言い方をするならば、カンボジアが仏教国だからである。
 タイもそうである。そして、スリランカは完全にその群下にくだっている。インドはどうか。インドは、君たちも知ってのとおり、すでにイギリスの洗礼を受けていると。
 このような形でじっくりじっくりと、世界は一つの方向、「世界は一つ」−−この世をいかに楽しく生きるか、そして、死後三悪趣へ至るか、という方向に向かっている。
 それはなぜかと。それはね、人間と動物の違いについて検討すればわかる。わたしたち人間が動物の上に君臨できたのは、火を発見し、火を使ったからだと一般的にいわれている。そうだね。
(一向)はい。
 つまり、これは何を意味するかというと、動物よりもより高いエネルギーを使ったからだ。そして、今の人間を支配するためには、今の人間を動物化する。動物化するためにはどのような情報を提供すればいいんだ?
 まず個人主義における「嫌悪」。どうだ。
 次に、ものが考えられない「無智」、今さえ楽しければいい。ね、性的喜びを含めて「無智」と。どうだ?
(一同)はい。
そして、物質をたくさん貯め込んで喜ぶ「貪り」と。どうだ。
(一同)はい。
 スポーツもこの無智に入るけどね。これらのものを提供することにより、わたしたちのもともと持っている動物的要素はどんどん解放され、そして、高い思考ができなくなる。これが今の日本であり、今の先進国であると。
 そしてその一方では、これらは身の破滅であるということを認識した魂が、それらを捨断し、そして世界をどのように統治するかを検討し、動いていると。これには「フリーメーソンである」とか、あるいは「イルミナティである」とかいういろいろな意見があるが、わたしはこれは名称にすぎないと考えている。
 つまり、これらこそまさに「マーラ」、悪魔であると。ではなせか。それは、もともと物質によってわたしたちを支配する者、これを、マーラと聖典で規定しているからである。
 わたしたちは、好む・好まざるとにかかわらず、大変な時期に生まれてきたことは事実である。そしてこの大変な時期に生まれてきたことを、わたしは大変な誇りであると考えている。なせならばこの時代に、もし一つでも二つでも多くの魂を救済することができれば、それはこの人間の世界に生まれてきた価値があるからである。
 もともと、人間というものは、低い世界へ至る条件・高い世界へ至る条件のちょうど中間位に属する、最もジャンプ力のある立場にあると。神々の場合、功徳の消耗というものが中心であるがゆえに、なかなかそこからジャンプすることができないが、人間の喜びというものは苦しみと約半々と。したがって、喜びを捨断し、そして苦しみを止滅するならば、わたしたちは愛欲の世界の神々以上の世界へ至ることができるのである。
 これから激動する九三、九四、九五、そして二○○○年と。この時代に、たとえ君たちが何らかの大きな異変によって死んだとしても、君たちがしっかりと小乗のツァンダリーを修習し、大乗のツァンダリーを修習し、グルヨーガ・マイトレーヤの瞑想をしっかり行ない、グルヨーガを行ない、ね、そして五大エレメントで伝授されたマントラをしっかりと唱え、三宝を絶えず思念し、観想できることができるならば、必ずや人間界以上の世界へ生まれ変わるだろうということを、わたしはここで約束しよう。
 もし、ハルマゲドンが起きないとしても−−仮にだよ−−そのときはそのときで「長く修行できて良かった」と考えればいい。だね、どうだ?
(一同)はい!
 しかし、もし起きたらだよ、そのときは君たちが日々時間を割いて努力していたことの結果が必ず現われるはずである。
 今、この現象を見る限りにおいては、「備えあれば憂いなし」というような中途半端な状態でないことは確かだ。どうだ?
(一同)はい!
 したがって、しっかり、今日これから、瞬間瞬間をね、無駄にしないように不放逸に徹し、そして、奮闘努力しようじゃないか。いいね!


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