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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.21〜P.25)

第二話(一九八八年十月二日富士山総本部)

 はい、夜礼。次女のね、まず有布がこの三日ぐらい前から三昧に入り出したみたいで、それから今日、満生さんのダルドリー・シッディが起きて、十月二十日がね、十月十日とか、十月九日とかそれぐらいまでに成就させるんじやないかなという目安がついてきたと。で、ぼつぼつと結果が出だしてる。で、あと麗華がいろんな人間にシャクティーパットをやっているみたいだけども、まあ麗華にいじられた人たちの成就というものは、おそらく極端に早くなるだろうと。
 で、何をわたしが今言いたいかというと、いよいよオウムが、ヴァジラヤーナのプロセスに入ってきたと。そして、このヴァジラヤーナのプロセスというのは、善も悪もないと。ただ心を清め、そして真理を直視し、目の前にある修行に没頭し、あとは神聖なるグルのエネルギーの移入によって成就すると。
 大乗においては、善行というのはものすごく重きが置かれる。小乗においては、遠離というものが中心となる。そして、金剛乗においては、強い帰依、それからエネルギーの流れ、これが重きを置かれると。
 では、この三つというものはいったい、どのようにして違うのだろうかと。小乗の世界というものは、この苦というものが存在している中に自己を置いて、そしてその苦悩、苦からすべて離れると。そして離れることによって、まあ言い方を換えれば「離れる」という言葉が合わなければ、「押し退ける」といった方が正しいのかもしんない。押し退けることによって自己を現象と隔離し、そして自己を見つめ、解脱すると。これが小乗のプロセスである。
 大乗というものはどうかと。もともと苦というものは存在してるんだと。そして本当の意味でのすべてを知るためには、その苦を直視しなければならない。そして直視すると。そうすると、例えば善行をなせば、苦というものの総量はどんどん減ってくると。そして、功徳優位、あるいは完全なる功徳だけの状態になれば、この世というものはすべてが楽に変わると。これが大乗のプロセス。そして、すべてが楽に変わったということは、苦悩から解脱したということになる。
 金剛乗の教えというものは、もともとグルというものを絶対的な立場に置いて、そのグルに帰依をすると。そして、自己を空っぼにする努力をすると。その空っぼになった器に、グルの経験、あるいはグルのエネルギー、これをなみなみと満ち溢れさせると。つまり、グルのクローン化をすると。あるいは守護者のクローン化をすると。これがヴァジラヤーナだね。
 そして、オウムのこの三年の足取りは、まず小乗を説いたと。それは、四念処の観によって小乗を説いたと。我身これ不浄なりと。感覚そのものは苦悩であると。そして、人の心というものは絶えず変化すると。観念というものは自己を苦しめるものであって、それは真実ではないと。身・受・心・法といわれるものです。そして次に『マハーヤーナ・スートラ』をはじめとする善行を説いたと。功徳がベースであると。功徳によってこの現象は変わり得ると。そしてあなた方、わたしの弟子は激しい修行によって自己を空っぽにし、グルだけを意識することによって、グルの神聖なエネルギーをあなた方に注入されると。それによってあなた方は霊性の向上を行なうと。
 そして、わたしの後継者である三女が、自己の立場というものに目覚め、真の意味で帰依のできている……にシャクテイーパットを行なっているみたいだ。で、これは彼女のエネルギーとわたしのエネルギーというものは全く同一だから、おそらく異常なスピードでその祝福を受けた者は進むだろう。もちろんわたしも、今日から少しづつ、少しづつ、成就させようと考えた人たちにエネルギーを入れていきたいと考えている。そして来週の土曜日までには、七名ぐらいのクンダリニー・ヨーガの成就者を出したいと考えている。ただこの七名は、四月、あるいは五月、六月から激しい修行をしてきた人たちだ。今年、わたしは四十名の成就者を出すと約束して、まだ四名の成就者しか出ていない。ということは、あと三十六名の成就者を出さなければならない。おそらく十月中に二十名、成就者が出るだろう。そして十一、十二月であと十六名の成就者が出るかどうかがね、わたしの言業のカルマ、嘘をつかないという実践に大きな影響を与えることになるだろう。
 わたしは修行上の嘘はつきたくないし、またつかないつもりでいる。ただそれはあくまでも素材があって、その素材が全力で自己を磨いたとき、初めてエネルギー移入によって成就というのは成り立つ。
 今日、わたしは立位礼拝を見てびっくりした。なぜびっくりしたかというと、ああ早く時間が経てばいいと、できるだけ怠けようと、そういう心でみんなが立位礼拝をやってる。「あ−、雑念だ」と、苦だと思いながらやっている。そういう心の働きでいったいどうして成就があり得ようか。あるいはどうして自己を超越する解脱というものがあり得ようか。
 わたしは以前からこう言っている。修行というものは、この現世を超えた人のみ達成することができる。「現世を超えた」とはどのようなことか。ある者は才能を持ち、ある者は人並み以上の優しさを持ち、ある者は人並み以上の自己に対する厳しさを持つ。そしてその修行の途中の過程では、才能や、あるいは優しさや、あるいは厳しさを磨いていく、これが修行であると。そして、その修行の終焉に最終解脱がある。
 つまりここに成就者といわれる人がいて、その人が凡夫と変わらない思考をし、凡夫と変わらない才能しかないとするならば、それは成就者でも何でもない。なぜならば、解脱、これを英語ではエンライトンメントという。エンライトンメントとは何かといったら、人智の進歩と。知性が向上することと訳されている。そして、わたしがカール・リンポチェに、解脱とは何だと聞いたとき、同じように、たくさんの解脱があって、その解脱というものは人智の進歩なんだと言ってらっしゃる。だとするならば、修行し、才能が向上することは当たり前であると。だとするならば、意志のカが強くなるのは当たり前であると。だとするならば、幸福になり、豊かになることは当たり前であると。もし、そういうものが植えつかないような修行をしているとしたならば、それは本当の修行ではない。
 今日からは、もう一度、今までの自分の修行を振り返ってみようじゃないか。まず立位礼拝のムドラーは、大きな詞章を唱え、そしてさっと五体を投地すると。そのときできるだけ腰を伸ばすと。そしてさっと戻ると。これが立位礼拝のムドラーであると。そうだね。
(サマナ)はい。
 それからワークは、ワークの最中、そのワークに集中する。あるいはグルに集中することによって集中力を養う。そうだったね。
(サマナ)はい。
 そういうことを意識しないで、できるだけ手を抜こう、できるだけゆっくりやろうと、ああ疲れたなと、そういう心に支配されているようでは、まだまだ解脱はおぼつかない。そして、たとえ祝福があったとしても、たとえシャクティーパットがあったとしても、たとえイニシエーションがあったとしても、その人が自己を集中すること、自己の心を成熟させることに集中していなかったならば、結果は得られないだろう。
 今日からもう一度考えよう。わたしたちが今、あるいは今から経験することは、苦しみはね、それはすべて未来において苦しまなければならない経験だ。
 例えば、今日から独房に数名の人問が入る。この人たちがもし、独房の真っ暗閣を恐いと考えたならば、それは間違いなく死後の世界において、輪廻転生において正しくない転生を行なうだろう。なぜならば、闇の恐怖というものが、その人の正確な判断を崩し、そして正しくない光に飛び込む、あるいは正しくないヴィジョンに飛び込んで苦悩の世界に生まれ変わるからだ。
 例えば、立位礼拝のとき、カルマが出てきて痛みがあったと。その痛みを必要以上に意識するならば、その人が地獄一の炎の中で焼かれるときの苦しみというものは、同じようにすごいはずだ。なぜそういえるかと。
 例えば、護摩法のとき、放射熱というものか出る。その同じ距離にいて、炎が同じように赤くなるにかかわらず、ある者はあまり苦痛を感じない。ある者はものすごく熱がる。外的条件は同じだ。しかし内的条件によって苦悩は違うということだ。地獄のカルマがなければないほど、その熱さ、あるいは寒さというものはその環境にあったとしてもこたえない。あるいは闇の恐怖もそうだ。
 だからもし、そういうものが心に引っかかっているとしたならば、それはいずれ超さなければならない道であると。いずれ超さなければならない自己の限界であると考え、できるだけ耐え、そして超すように努力しなさい、いいね。
(サマナ)はい。
 それが速やかに成就する、解脱する、あるいは幸福になるための道であると、そう考えなさい。いいね。
(サマナ)はい。
 よし、では三つだけ質問を取って終わりにしよう。ないか、よし、じゃあ終わりにしよう。
 全力で頑張んなさい。



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