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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.166〜P.171)

第二十四話(一九九二年十一月二日 大阪大学)

 救済には、近視的、遠視的、あるいは通常の三つのパターンの救済が存在します。
まず、近視的救済と呼ばれるものは、わたしたちが、この現実の世界に存在しながら幸福であるというポイントをもとに行なわれる救済です。例えば素情らしい結婚をするとか、あるいはいい大学に入るとか、あるいは実際問題としていい就職を行なうとか、まあこういうものを近視的救済ということができるでしょう。
 通常の救済とは何かというと、これは一般的に、例えば南伝仏教や北伝仏教、あるいは他のキリスト教やイスラム教等でも行なわれているように、来世というものを規定し、そして来世のために幸福に至る道を説くという教えです。
 そして遠視的救済とは何かというと、人間が最終的に本質的に自由・幸福・歓喜の道を得る世界へと到達させるということとなるでしょう。
 ここにいらっしやる皆さんは、この三つのパートのどれかに属する願望をお持ちだと思います。この願望を達成する方法は、同じように三つの方向から攻めることができるということができます。それは、個人個人が、まず、一般にいわれている道徳的な善行や、あるいは徳の修行を行なうことにより、幸福を得ようとする道と。そして、第二番目は、これは最高の法則、ハイエスト・ダンマに属するわけですが、自分自身の持っているエネルギーのコントロールを行なうことにより、超人的な思考状態、超人的な瞑想状態を得るという方法。そして第三番目は、これらを合わせた方法の三つということができます。
 この三つは、それぞれ、時間の経過に伴い、違った形の結果をわたしたちにもたらします。
 例えば、第一の、善行や徳行の結果は、わたしたちがあまりいろいろなことを願望せずとも、今の人生を幸福へと至らせますし、あるいは逆に二番目のエネルギーのコントロールについては、エネルギーを上昇させたときには、自分の願望がかない、あまりこれは善行や徳行を行なわなくても、自分自身の願望をかなえるといった現象が起き、逆にエネルギーが落下したときには不幸の状態を経験します。そして、一、二を併せ持った場含、最も高い、精神的・霊的な経験をすることができます。
 とはいえ、例えばここに集まっていらっしゃる皆さんは、このような話について、あまり興味を持たれないかもしれない。しかし、この話に興味を持つ、持たないにかかわらず、今日わたしが話す中心的な命題である、これからの日本の未来と、そして世界の未来について、わたしの得た瞑想からの経験、および過去の偉大な成就者たちの経験をお聞きになるならば、おそらく背筋に冷たいものを感じざるにはおられないでしょう。
 例えばわたしたちは、明日、交通事故に遭うかもしれない。あるいは、これから一カ月後、ニカ月後、重たい病にかかり、それで亡くなるかもしれない。しかしそれはあくまでも個人的な苦しみの範疇であって、「死」というものを当然と受けとめているわたしたちの意識にとって、それほど重たい負担でないということがいえます。しかし、もし大量の「死」、これがわたしたちの周りで起きるとしたら、皆さんはどう考えるでしょうか。
 これから二○○○年にかけて起きる現象は、筆舌に尽くし難いような、激しい、しかも恐怖に満ちた現象が連続的に起きると考えるべきであるというのがわたしの立場です。
 では、どのような現象が起きるのかと。これは例えば、ノストラダムスの予言詩の一つを紹介するならばよく理解できると思われますが、この日本の国土が荒れた大地と変わると。では何によって変わるのかと。これは考えられることは、核であると。ではその時期はいつだと。それは九六年から九八年の一月での間に起きると。ではどのような形でどこが攻めるのかと。それはアメリカを中心とした連合国であると。
 しかし今実際、日本とアメリカは、国際的には、本当に「真の友」と呼ばれるように深い関係ではないかと。
 わたしは一九八○年代に、いくつかの予言をしました。その中で、まだ現象化していないものが一つあります。それはドルが一○○円になるということ。それ以外の予言はすべて成就しています。
 例えば、近ごろ予言した内容で的中した例を挙げると、日本の天皇が「元首」になると。これは今年の九月に、ラジオを通じて放送されています。しかし、実際問題として、それが成就したのは、なんと十月であると。しかもそれは、NHKが、中国の元首、そして日本の元首という形で表現し、それを『朝日新聞』が叩いたという実際の内容があると。しかしこの内容は、別に私が予言したわけではなく、ノストラダムスの予言詩の一つにすぎないと。
 では、わたしたちにとって、これからこのような激しい現象に対して、どのようなアプローチをする必要があるのかと。
 もともと人間は、二つのカテゴリーに分けることができる。その第一のカテゴリーは、情報に流され、そしてその情報が与える喜びと苦しみを経験しながら、ちょうど暴流、荒れ狂う流れに流されるような人生を送る生き方と。もう一つは、情報をいっさいカットし、自分の生き方をしっかり確定させ、そしてしっかり生きるという生き方の二つであると。
 そして瞬間瞬間の喜びを求めている、この中のある程度の人たちは、この前者に属し、そうではなく、本質的な自分自身の喜びや自由や歓喜を求めている人たちは後者に属するということかできるでしょう。そしてこの後者に到達するならば、自分自身がたとえいつ死を迎えようとも、幸福な人生を歩くことができると。
 ではいったい、どの程度の人が、この地上のね、その二○○○年までに死ぬんだろうかという問題に入るならば、自分自身の死の確率かだいたい算定できると。まあ、わたしの精神的力によって見た経験と、それからいろいろな過去の予言者たちの話を総合すると、大都会においては十分の一くらいの人口しか残らないというのが今のわたしの立場です。つまり十人中九人は死んでしまうと。つまりここにいるあなた方も、大阪という大都市に生活しているわけですから、ここにいらっしゃる九割の人は二○○○年までの寿命はないと見るべきだろうと。
 しかし、これだけわたしがダイナミックスな発言をしたのは、まあ今回が初めてだけれども、わたし自体の内的な確信と、それから例えばノストラダムス、あるいは仏教の、『転輪獅子吼経』と呼ばれる経典、あるいはキリストの予言、『ヨハネの黙示録』等の研究の結果、どうしてもこのパーセンテージは譲ることができないという確信を得たからであると。
 ということは、自分自身はその十分の一で生き残る確率に身を委ねるのか、それとも十分の九の死ぬ確率の方に考えるのかという問題が次は生じます。
 もちろん、楽観的思考、それから、今までも生きてきたんだからこれからも生きられるだろうと考える思考、この両方を検討するならば、おそらくあなた方は、十人の中の一人に自分は入ると考えるかもしれない。しかし、現実問題として、現象というのはそれほど甘くなく、確率は確率としてはっきりと九○パーセントの者をこの世から抹殺するという結果になることは間違いないでしょう。
 ではそのときに、どのような心の状態であれば幸福にかるのか、あるいは、どのような心の状態であれば不幸になるのかについて検討する必要かあると。
 これは、密教にしろ、仏教にしろ、あるいはキリスト教にしろ、二つのことを規定しています。それは、今あなた方が今生で培った要素の蓄積、つまり経験の総集編的な意識が次の生を決定するんだと。だから例えば、憎しみや、あるいは妬みや、あるいはそねみや、あるいは害心といったような、けがれた心を持つ場合、その対象が、死の瞬間に現われ、それに対する憎しみとともに地獄へ至ると。これが密教的あるいは仏教的見解であると。あるいは逆に肉体から離れた瞬間、例えば今まで修習した、つまり記憶を修習した意識が神を思念するごとにより天界へと至ると。
 要するに、死の瞬間に、そこまで心の準備をしているとするならば、あなた方は救済された魂、つまりこれは普通に救済された魂ということができるでしょう。
 では、オウム真理教そのものは、いったい何を考えているのかと。これは本格的にわたしたちは水中都市というものを考えています。ではその水中都市とはどういうものかというと、ある程度の人数−−まあ十万人になるか百万人になるかわかりませんが−−要するに核が爆発し、その核の放射能を水により吸収すると。そしてそれだけではなくガンマ線等をね、しっかりその水で吸収し、そして鉄板の厚みがどの程度だったら防御できるんだろうかというような検討に実際に入っています。
 これはまあ今、わたしたちの予算では、一千億円以上は自前で作ってもかかるだろうなという数字が出ているわけだけれども、これは具体的に、いよいよ迫り来た世紀末に対しての準備をしっかり怠らないようにしないと、苦しむのは自分自身であるという立場に立っているからです。
 あなた方もあなた方の立場で、自分の未来をしっかりと見つめ、そして自分を防御する道をしっかり検討していただきたいというのが、わたしがこの大阪大学へ来てのね、あなた方に対するメッセージです。
 人間は、必ず死にます。そういう意味においては核で亡くなろうと、あるいは生物兵器で亡くなろうと、あるいはケミカルな化学兵器で亡くなろうと、あるいは交通事故で亡くなろうと、寿命で亡くなろうと、そういうものは大した問題ではない。
 しかし、死の準備をする前に来る死、あるいは苦しみを周りに見ながら、自分自身が死んでいかなければならない死というものは、また格別に苦しいものではないかとわたしは考えます。
 人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない。もともとわかっているこの命題に対して答えを出すことこそ、最高の生き方ではないか、そう考えるのです。
 今日の話はね、概論的な話になりましたが、少なくとも最後に申し上げておきたいことは、これから二○○○ににかけて大変な変動が起きると。その心の準備をあなた方一人一人にやってほしいな、というのが今日のわたしの話の中心であったとお考えください。
 で、最後に皆さんにお話ししておきたいことは、わたしは近ごろ、完全なる”日本亡国論者”になっています。
 その理由というのは、日本はもともと資源のない国です。この資源のない状態で、もしわたしたちが勤勉さと、そして他の国民より優れた智性というものを取り除かれたら、いったい何が残るんだろうかということについて皆さん考えていただきたい。
 つまり皆さんは、今学生であり、十分に考える時間を与えられています。そして今の世の中の流れが進行した場合、例えば皆さんもご存じのとおり、労働力は台湾、香港、中国あるいはシンガポールといった国々に譲されていっていると。そして、この段階で次に考える力のない若者がどんどん増えた場合、いったい国はどのような形で利益を上げることができるんだろうかと。もし利益を上げることができなければ、わたしたちは、初めに手をもぎ取られ、足をもぎ取られ、そしてしまいには頭をもぎ取られた国民になってしまうと。その場合、わたしたちの経済的な苦しみというものは、それは悲惨なものでしょう。
 わたしは多くの外国、特に貧しい国を回りましたが、その国においていえることは、先程も述べたとおり、「少なくとも知的にもっと向上させてあげられたら、この国は豊かになるのにな」という慈愛の気持ちでした。したがって皆さんは、今、恵まれたこの学生の環境を活かして、そして未来の日本をしょって立てるような一人一人になっていただきたいと思います。そして先程も述べた、二○○○年までにいろいろな社会的変動が起きるでしょうが、それに負けずに頑張ってください。
 それでは、どうもありがとうございました。



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