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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.160〜P.165)

第二十三話(一九九二年九月二十七日 富士山総本部)

 今から四日前、アストラル世界において、放射能を浴びるヴィジョンを見た。これは九七年から二○○一年にかけて必ず起きるであろう核戦争の疑似体験であると考えている。そのとき、わたしの状態は端から見て何の変化もない。しかし、自分自身では明らかに放射能の影響を受けているという体験であった。周りに数名の弟子たちがいて、数名の弟子たちは一部ただれが起きていたりといった状態があった。間違いなく、最終戦争と呼ばれる戦争は起きると。しかも、それは九七年から二○○一年の間に必ず起きると。戦争のポイントはどこか。それは中東であると。そして前回行なわれた湾岸戦争は、その模擬戦争であると考えるべきである。
 ところで、これらの戦争、あるいはこれから起きるいろいろな破局に対して、わたしたちはどのように考えればいいのだろうかと。まずわたしか過去においてなした、はっきりと述べた予言、このほとんどは的中し、円が一ドル百円台になるという予言だけがまだ成就していないと。しかし、一九九二年の段階ですでにPKO法案は成立し、再軍備ともいえる外国への出兵がなされたと。そして、これらの現象に対して、わたしたちは次のことを考えるべきである。
 まず自分自身の死、これを直視するべきであると。つまり、たとえ第三次世界大戦が起きようと起きまいと、ということをわたしは以前から言っていたわけだが、まあ起きるとして、死ぬ確率はかなり高いと。起きないとしてもいずれ死ぬと。この二つの条件を考えるならば、死を直視し、そして死の後、どのような形でわたしたちが輪廻転生を行なえばいいのかについて検討に入り、努力する時期がやってきた。そして、死の準備のためには数週間や数時間ではなかなか間に合わないと。自分自身の本当に決定的な輪廻転生を考えるならば、それは明らかに今から準備をするべきである。
 では、そのためには、どのような方法があるだろうかと。それは、まずしっかりと真理の法則が、現世のデータに負けず実践できるように、「決意」、あるいは「欲如意足」といわれるものを徹底的に行ない、そして自己の欲求、これを捨断し、そして正しい生き方、正しい方向に向かって努力できる加速度をつけるためのデータの入れ替えを行なうべきであると。
 次に自分自身の身・口・意、つまり、身の行ない・言葉・心の働きの三つが来世を決定するわけだから、その一つ一つを検討し、そして来世の要素、つまり来世自分自身を形成する心の要素である“意”、アストラルの要素である“口”、身体の要素である“身”の行為、これを浄化し、積み上げていく努力が必要である。
 これらをなし続けるならば、いかなる現象が起きたとしても、あなた方は救済されることは間違いない。
 もう一つの方法は大乗の考え方である。これは自分自身が早く速やかに第三段階のマハームドラーの達成を行ない、そして清らかな受け皿としての、つまり煩悩を滅尽した状態での身体・言葉・心を完成させ、その後に高い次元の神々を身に宿すという方法である。これは、例えば神聖世界、あるいは光音天の世界、あるいは総美天の世界、あるいは色究竟天の神々がもしこの人間界へ何神となく降りるとするならば、それによってこの現象界のサットヴァ度は高まり、そしてカルマの清算もなされるだろうが、その後の新しい世界の登場も速やかに起こるはずである。
 しかし、このためには先程述べた第一の条件の最終段階ともいえる供養値魂にまずなるべきである。そして、その後に受け皿としての決走を行なうべきであると。この話は大乗論の中でも最も難しい部類に属するから、新しい信徒もたくさんいるだろうから理解できないところがあるかもしれない。
 では、次にこの大乗論、あるいは小乗論、この二つの背景をバックボーンとして、いったいどのような未来構造、未来の新しい世界が約束されているといえるのだろうか。それは一言でいうならば自由、一言でいうならば平等、一言でいうならば豊か、このようなものが総合された社会であると考えるべきである。
 では、その自由、そして平等、豊かさの背景にあるものは何だろうかと。それは、個々の意識の覚醒であるということができる。例えば、ここにある会社があったとして、そこでの会社は、会社の給料は大変高いと。しかし、そこで勤めている人たちはそれぞれが煩悩を滅尽し、そして高い給科の必要な分だけをとり、あとはすべての衆生のために布施をするとするならば、給料の高さにより豊かさは約束され、そしてその余りによって、つまり布施によって逆に徳のない魂も含めて平等な社会が形成されるはずである。そして、それに対するいっさいの束縛のない自由というものが約束される。このような社会的セオリーを土台とし、そして、次のステップへと入っていくと。
 次のステップとは何かというと、それは来世と今生、あるいはアストラルと現象界のつながる社会であるということができる。これは何を意味するのかというと、霊性の高い者たちが集団を形成するようになると、現実のこの肉体の世界だけではなく、変化身の世界と、そしてこの現象の世界とがオーバーラップされた形で見えたり聞こえたり感じたりすることができるようになる。
 この現象界でのカルマの生起と、それからカルマの滅尽との操り返しのスピードは大変遅いと。そしてその他にいろいろなカルマの要素が複合的に形成されるから、大変わかりづらいということができる。しかし、アストラル世界がそこに関連してくると、関与してくると、アストラルでのカルマの返りはより速く、コーザルに至ると瞬時にカルマの原因とそして結果というものが理解できるのである。
 これらのカルマの法則の理解は、すべての魂を善の方向に向け、徳を積む方向に向け、そして寂静を実践する方向へと向かうと。なぜならば、わたしたちの身の行為、言葉の働き、心の働き等の結果が理解できないがゆえに、つまり無智なるがゆえに、わたしたちはカルマの法則の現象を理解することができないのである。
 したがって、このような新しい時代の登場を達成するためには、個々の霊性が向上し、今のクンダリニー・ヨーガのレベルが、例えばマハームドラーのレベルに発達し、そしてマハームドラーのレベルが大乗のヨーガ、大乗のヨーガのレベルが報身のヨーガ、報身のヨーガのレベルがコーザルのヨーガ、コーザルのヨーガのレベルが最終解脱に移行する。このような状態でサットヴァの光が強まった段階で、初めて起きる世界なのである。
 そして、これらを現出するもの、この世に現わす者こそ救世主であるということができる。例えば今から約二千年前、イエス・キリストと呼ばれる救世主の一人が登場した。彼はわずか十数人の弟子の前において、いろんな予言をなしたり、あるいはいろんな現象を見せることによって、その世界を信じさせ、そして真理のメッセンジャーとして自分の死ぬ前の弟子十二人を選んだといわれている。
 しかし、彼がその世界の様子、つまりアストラルの様子やあるいはコーザルの様子や、あるいはいろいろな神秘的な要素をこの世に表わしたのはたった十二名の前であるということができる。もちろん在家の一般の信徒の前で病気を治したり、いったん死んだ人間の息を吹き返らせたり、いろんな奇跡を行なっていることは事実である。しかし、そのようなものは他の呪術的方法でも、たまに成功するという例があることによって、すべての人たちはイエス・キリストを救世主として信じなかった。
 そして、このキリストクラスの成就者は、インドやチベット、あるいはブータン、あるいはネパール等、あるいはタイ等にね、多く出現したと。そしてそれは仏教という形をとり、あるいは密教という形をとり、あるいはヨーガという形をとり展開したと。
 しかし、先程述べた世界全体をサットヴァの光で包む救世主は登場しなかったと。もともとその救世主の役割というものは、世界に真理の法則をのべ伝えさせ、そしてサットヴァの光を強めさせることにより、すべての魂に未来際において真理を実践させ、すべての魂を偉大なる最終の煩悩破壊の世界であるマハー・ボーディ・ニルヴァーナへといざなうことが役割なのである。そして、この偉大なる未来の素晴らしい世界が現出するか否かは救世主の力だけにかかっているわけではなく、それを信奉する者、つまり信徒、あるいはそれにつき従う者、つまり弟子の努力にかかっているということができる。
 人は必ず死ぬ。そして、右の前提をもとに、その死後・来世をいかに幸福にするか。あるいは、いかに来世の前兆を今生で現象化するかということが救世主の役割なのである。つまり、ある宗教が「あなたは来世天界へ行きますよ」と言ったとしよう。しかし、その前兆はガンにかかり、苦しみ、食べたくても食べられない状態で死んでいったとしよう。この状態で果たして来世天界へ行けるだろうかと。これは決して行けないと。なぜならば身の行為の現象を分析すると、それは低級霊域、つまり餓鬼の世界へと至る前兆が現われているからであると。
 例えば老人性の痴呆症になり、そして死んでいったとしようと。この状態で果たして来世天界に行けるだろうかと。当然これは行けないと。それは無智が成就しているわけだから、来世は動物の世界へと転生するわけである。例えば、身体があちこち痛み、苦しんでいる状態で死んだとしよう。この状態で来世天界へ行けるだろうかと。当然行けるはずがない。それは、その痛みの苦しみがそのまま来世に継続されるから、当然来世は激苦地獄へと転生するのである。例えばある異性を思い続けながら死んだとしよう。この魂が来世天界へ行けるだろうかと。これは当然行けるはずがない。その魂は、来世“愛欲の興奮”により人間の世界へと転生するのである。
 このように死の前兆においては、必ず来世を規定する。この来世の規定を、つまり現象を正確に見つめることができるならば、今自分自身が実践していることは正しいんた。あるいは逆に、自分自身が実践していることは正しくないんだということが理解できるはずである。
 では、このような場合はどうだろうか。真理の実践に入ったと。そして一気に悪い現象が起きたと。これに対しては、どのように考えたらいいか。どのように答えたらいいかという質問があると。これは今まで悪い現象は起こさないようにして、悪い行為を積み重ねていた場合、必ず激しいカルマ落としを含めたカルマの清算が生じる。このカルマの清算に対して心が動揺するかしないかを見るべきである。
 もし心が動揺するとするならば、それはその人にとって完全にオーバーなカルマ落としということになる。したがって、そのときには師、あるいは正悟師や正大師に頼んで、もう少しカルマの現象化を緩めてもらうと。それによって、少しずつ少しずつカルマ落としをし、心が強くなった段階でカルマを一気に落とすと。
 例えば救世主のように、多くのカルマをしょうことを発願としている場合、その発願が消えることは、ほとんどない。しかし一般の場合、カルマが消え失せるまでには、半年や一年かければ十分であると。もし真剣に真理の実践を行なうならば、必ず半年や一年でカルマの清算は起きるはずである。そして、その後はいずれすべての現象が好転し、そして幸福な人生が待っている。一般的にわたしたちがそこまで待つことができず、つまりカルマ落としに耐えることができず、そこで挫折した場合、それは最悪の状態ということになる。
 したがって、それを理解する上においても、教学をしっかり行ない、あるいは体験談をしっかり読み、じっと耐える心を修習し、そして必ず真理はすべてに打ち勝つんだということを理解していただきたいものである。
 人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない。そして、今生において今なしていることの結果はすで現われるのだということを理解してほしい。



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