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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.145〜P.153)

第二十一話(一九九二年一月二十六日 上九一色村教学センター)

 一九九二年の一月も、もう少しで終わります。わたしたちは一九九七というタイムリミット、そして二○○一から二○一四という、偉大なるこの地上の変革、これらの真っただ中に身を置きながら、それらの現象にいっさいとらわれることなく、自己のなさなければならないことをしっかりと見つめ、そして正しく優れた輪廻転生を繰り返し、最終的に大いなる煩悩破壊によって、いかなる世界へ生存しようとも、あるいは生存を完全に断絶しようとも、それらの世界において完全なる幸福・自由・歓喜という三つの状態を得る、そのために、もしわたしたちが日々の瞬間瞬間の出来事に対して、集中し、そして対象に対して正確に分析し、その分析によって大いなる精通を得ることができるとするならば、それこそ真の意味での到達真智運命魂、つまりポーディサットヴァということになります。
 修行には、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナ、そしてテーラヴァーダの教えが存在しています。一部では、小乗、イコール、テーラヴァーダというふうに考えますが、実際そうではなく、テーラヴァーダの教えの中によく隔々まで検討すると、四つの修行、つまり善の修行、徳の修行、そして法則の修行と寂静の修行、これらの初めから終わりまでの具体的な、かつ実践的な方法が述べられています。そして、これらは、この四つの修行はすべて、四つのヤーナ、つまりヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナの四つの実践体系を表わしていることになります。
 したがって、テーラヴァーダの教えの中には、この四乗はすでに含まれているということかできるでしょう。しかし、このテーラヴァーダは、あくまでも全体的、かつもともと仏教的、あるいは真理に対して特性の優れた人の行なう修行法です。もし、特性が優れていなければ、自己の特性を見つめ、自分に合った修行法、これを確立していくべきでしょう。
 では、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナについて、一つずつ簡単に説明しましょう。
 ヒナヤーナとは、隔絶された空間で、自己の心を止滅する。寂静へと向かうと。これがヒナヤーナの教えの根本です。したがって、この教えは大変一人に強く、また外的刺激の多い環境においては、逆にもろさが生じます。よく、あの人は現世的に徳がないんだが、なぜ修行しているんだろうと。そして、なぜ神秘的な体験をするんだろうと。その人はあまり人付き合いがないという、このような人は、まさにこのヒナヤーナの道を歩く素質を有しているということができるでしょう。
 では、第二のマハーヤーナ、このマハーヤーナというのは、わたしたちが、この現実の世界において、大いに徳を積み、善をなし、そして教えを広めるといったことが、修行の根底に存在しています。したがって、この人たちは大いに人から好かれ、社会的にも高位高官に昇ることは間違いありません。しかし、もし、この人がヒナヤーナの土台、つまり個人、一人になることに対する弱さを含んでいるとするならば、結局それは死のときに、積み上げた徳のすべてを昇華したかたちでの輪廻転生というものは不可能となるでしょう。
 では、次はタントラヤーナです。このタントラヤーナの教えは、まさにこの人間世界の法則に精通し、そしてこの人間世界の法則にのっとって修行を行なうと。もちろん、チベットのタントラヤーナの教え、これは代表的なものですが、これと対比したかたちで、『旧約聖書』における教え、これもタントラヤーナの教えを多分に含んでいるとわたしは考えています。つまり、タントラヤーナの教えとは、この人間の世界において、いかに風の働きを上昇させるかということが狙いです。
 では、ヴァジラの道、ヴァジラの乗り物、ヴァジラヤーナとは何であるかと。これは、わたしたちが、この現実世界における現象に頓着することなく、心の本質を知り−−この知るというのはね、下に日のつかない知るだけども−−そして、しっかりとその心の本質にしたがって、この人間世界を生きていくと。これがヴァジラヤーナの教えです。したがって、この場合、現象を見ただけでは、その人の本質的な修行レベルというものは理解できないと。
 そして、このタントラヤーナやヴァジラヤーナの教えは、別の言い方をするならば、「狂気の悟り」といわれています。なぜ狂気なのかというと、一般的に見て、これが本当に修行だろうかというようなことを行ないながら修行をしていくからです。
 では、例えば、これらのタントラ・ヴァジラヤーナの教えと、テーラヴァーダの教えの共通性を一つ、二つ紹介し、考えてみましょう。
 例えば、ミラレパがマルパの命によって、建物をいくつも建てては壊され、建てては壊されしたという話があります。これらはまさに、テーラヴァーダにおける忍辱の修行であるといわざるを得ません。つまり、いかなる環境であろうとも、心をいっさい動かさない訓練をすること。これをミラレパは実践させられたのです。
 あるいは、マハーモッガラーナの前生において、あるびっこの在家の者を教化したという話があります。これは、そのびっこと全く同じ変化身をとり、そして教化したという話があるわけですが、この話はまさにヴァジラヤーナの教えであるといわざるを得ません。 このような形で、チベットのタントラヤーナや、あるいはヴァジラヤーナの教え、それとテーラヴァーダの教えが、本質的には共通であるということを認識するならば、テーラヴァーダの修行を実践していく上において、わたしたちは大いに北伝的な修行についても、参考として生きていくことができます。
 そしてね、この一九九二年は、まず皆さんに何としてでもテーラヴァーダの全体系、パーリ仏典の翻訳を完成したいと。そして、皆さんにぜひとも読んでいただきたいと考えています。この経典を読むことによって、日本に初めて、仏教の全体系が伝わるんだなと考えているからです。
 わたしたちは、日々、瞬間瞬間を生きています。この日々瞬間瞬間を生きるということは何を意味するのかというと、つまり身の行ない、言葉、そして心の働きという三つ、これを絶えず行為として積み続けているわけです。そしてね、これらの身・口・意の集積こそが、来世を決定します。
 では、わたしたちは、どのような生き方をすればいいのかと。例えば、ある人が家に閉じこもり、経典を読んだと。そして、教えについて考えたと。そして、言葉において沈黙の行をなしたと。これはヒナヤーナにおける、最高の修行法の一つであるとわたしは考えます。
 しかし、それよりもっと優れた方法、それはカルマの現象化しやすい空間に自分を置き、その空間の中で自己のカルマを認識し、それを教義にのっとり捨断すると。これをなすならば、もっと素晴らしい修行法となるのです。
 例えば、例を挙げましょう。ある人が街を歩いたり、あるいは喫茶店に入ったり、あるいは電車に乗ったりすると。そのとき、どこへ行っても、例えば文句を言われると。そうすると、この人は、こう考えなければならない。わたしは、文句を言われるカルマがあるんだと。きっとわたしは今の生において、人に多くの文句を言ったに違いないと。では、自分の言葉についてよく見つめてみようと。そして、もし、この人が自分の他人に対して文句を言うカルマを認識することができるならば、それは一冊の経典を記憶するのと同等の、大いなる価値が存在するのです。なぜならば、その人は、それを捨断することにより、二度と他人から文句を言われる環境へと身を置くことがないからです。
 例えば今、大乗の成就者、あるいはマハームドラーの成就者たちが、アンダーグラウンド・エアータイト・サマディ、あるいはアンダーグラウンド・サマディといった修行を行なっています。これも、まさに同じで、食事のない状態、あるいは水のない状態、あるいは酸素のない状態で、いったい自分自身の心はどうなるのかと、どのような苦しみが生起するのかと、そしてそれらを生起させることによって、自分のけがれを認識すると。そして、自分のけがれを認識し、捨断することによって、その人はいかなる環境においても苦しみがなくなると。つまり、地獄に落ちたとしても、地獄での苦しみは生じないと。これこそが、まさに大乗の修行の本質です。
 そして、大乗の修行の完成をなすためには、わたしたちは四つの無量心の実践をしなければなりません。その四つの無量心とは、聖慈愛・聖衰れみ・聖称賛、そして聖無頓着です。皆さんが、この四つの無量心をしっかりと実践するならば、皆さんは偉大なる、大きな、優しい、そして柔軟な心を完成し、最高の世界へと、あるいはいかなる世界においても最高の魂となることでしょう。
 モーセが二回目の結婚を行なったとき、モーセをイスラエルの民は非難しました。しかし、そこで、ヤハゥ工は、そのモーセを非難した人たちに大いなる病を振りかけ、降り注ぎ、そして心を悔い改めさせました。なぜならば、モーセほどの慈愛の持ち主が存在しなかったからです。それほど、この大乗の修行、四無量心の一つである聖慈愛だけをとっても、その心を培うことができるならば、その魂は大いに形状界、あるいは非形状界の神々の祝福を受けることとなるでしょう。
 それではね、まず四無量心の瞑想、初めは聖慈愛の瞑想をいたしましょう。これは、皆さんが、皆さんの周りにいる人たち一人一人を意識し、その人たちがすべて真理と巡り合ってほしいな、そして大いに高い世界へ生まれ変わってほしいな、あるいは真の意味で苦しみから解放されてほしいな、真の意味で四つの絶対的真理、苦しみ、苦しみの生起、苦しみの滅尽、苦しみの滅尽に至る方法を知り、理解し、記憶し、実践してほしいなと、そう考えることです。はい、それではこれから二分間、しっかりと瞑想しましょう。
 はい、それでは、次は聖哀れみの瞑想をしましょう。この聖哀れみは、いまだ真理を実践していない人、あるいは真理を知っているのに実践できない人に対する大いなる哀れみです。なぜならば、真理を実践しなければ、その人たちがこの人間の世界から低級霊域つまり餓鬼の世界や、動物の発生、あるいは激苦地獄へと輪廻転生することが間違いないからです。それは、先程も述べた経験の蓄積、経験の構成を見ると、例えば殺生を喜び、偸盗を喜び、邪淫を喜び、妄語を喜び、あるいは軽薄な言葉を喜び、悪口を喜び、あるいは仲たがいさせる言葉、中傷を喜び、心において嫌悪、つまり邪悪心、そして無智、迷妄ね、そして愛著といったものを修習することにより、それが起きるわけです。
 ですから、それから完全に捨断させるための道、絶対の真理、つまり煩悩、煩悩の生起、煩悩の滅尽、煩悩の滅尽に至る方法、これを説き明かす真理、オウム真理教との縁ができてほしいなとしっかり考える。この瞑想ができるかどうか、これは大変ね、重要な問題です。はい、それでは、聖哀れみの瞑想、あなた方の周りにいる、迷妄に悩む魂に対する衰れみ、これをこれから瞑想しましょう。二分間です。
 はい、これら偉大な二つの心は、わたしたちよりも真理と縁が遠い、あるいは徳がない、あるいは善の実践に乏しいと、あるいは法則の修行ができていないと、こういう対象に対する瞑想です。しかし、これらの対象に対する瞑想は、確かに下に対する縁、つまり自分より身分の低い者、徳の少ない者に対する縁はできますが、自分よりも徳の上の者、あるいは優れた霊性や智慧の持ち主との縁はできません。
 では、これらの、自分より上の者と同等になっていくための道、あるいは上の世界の魂と縁をつなぐ道、それはいったい、どういう瞑想でしょうかと。どういう実践でしょうか。それは、三番目の聖称賛の瞑想です。したがって、皆さんは、自分より修行の進んでいる人、霊的に進化した人、あるいは心の成熱した人、あるいは徳の修行を実践している人、あるいは善の修行を実践している人、あるいは心の平静な人、これらの魂に対して、大いに称賛する。それは、今まであなた方が生まれ、そして生きている間のいろいろな現象を思い出し、その人たちに対する称賛の心を培いましょう。はい、それでは、二分間行ないます。
 わたしたちが根気、あるいは記憶の継続、記憶修習、これらを正しく実践するためには、無頓着の心構えが必要です。では、なぜ無頓着の心構えが必要なのでしょうか。わたしたちが、もし、わたしは善をなしたと、あるいはわたしは徳を積んだという心が生起していたとして、今の環境が、もし、苦しい環境であるとしたならば、こう考えるはずです。わたしは、これこれの徳を積んだ、これこれの善をなしたのに、なぜ、今苦しい環境でなければならないんだと。
 しかし、今、苦しんでいること、これは過去における、あるいは過去世における、自己の悪業の結果であると。今、喜んでいること、今楽しいことは、過去における、あるいは過去世における善業の結果であると。これらを認識するならば、わたしたちは今の苦しみや喜びに対しては、全く頓着する必要性を感じないし、逆に頓着することそのものが、わたしたちにとって不利益になるんだなということが理解できるはずです。
 したがって、淡々と目の前にあることを一つ一つ消化すること、これこそが最高の心なのです。よって、四無量心の最後にくる聖無頓着とは、いかなる現象に対してもこだわらないと。
 例えば例を挙げるならば、昨日まで転輪聖王であった者が、自分の死期が近づくと、頭を剃り、そして出家すると。そして、托鉢修行によって生きると。これこそは、まさにその典型的な実践だと思われます。つまり、自分のいい状態にも、あるいは托鉢によって生きなければならない状態になったとしても、その点、その点でベストを尽くす。これこそが無頓着なのです。
 そして、最高の無頓着の心の実践は、いまだ真理と縁のない魂に対して、真理との縁を結びつけると。そして、例えば罵倒されたり、嘲笑されたりすると。あるいは、冷淡に扱われると。このような相手方の態度に対して、いっさい心を乱さないこと。そして、それは自己のカルマ落としであると考えること。そして、黙々と努力をし続けるなら、奮闘努力を続けるなら、その修行者は北伝における大乗の四つの土台、布施・持戒・忍辱・精進をすでに確立し、そしてサマディ、智慧という在家における解脱・悟りの道を達成する準備ができたことを表わしています。
 つまり、この無頓着の心、これを完成することこそ、わたしたちが在家において解脱する道なのです。それでは、今まで真理施、その他のいろいろなあなた方にとって苦しみ、これを思い出しながら、それに対して、「ああ、あれはわたしにとっての試練である」と。「わたしにとっての無頓着の修行の試練だったんだ」と、それを考えましょう。これから、二分間です。
 わたしたちがこれら四つの偉大な心を培うこと、これはわたしたちが、いかなる世界に転生したとしても、幸福を約束する四つの瞑想法ということができます。  では次に、わたしたちが、この人間世界を含め、地獄から意識堕落天までの五つの世界へ転生しないためには、どのような実践を行なったらよろしいのでしょうかと。  これは、下位に結びつける五つのきずな、これを完全に断ち切る。つまり、自己の内側にその要素を内在させないことです。
 ではまず第一番目、地獄の要素とは何でしょうかと。これは、有身謬見。つまり”我が身これ我なり”という発想です。ではなぜ、我が身これ我なのかと。地獄は、何度死んでも肉体を持ち、そこで苦しみを味わわなきゃなりません。もしわたしたちが身体に対する愛着がなくなれば、たとえ地獄の要素があったとしても、それはそのカルマの切れた瞬間、その地獄での身体に愛着しない、そういう状態になった瞬間、わたしたちは地獄から解放されるのです。したがって、粗雑な物質、あるいは粗雑な身体に対するとらわれ、これを捨断すること、これこそが、わたしたちがまずなさなければならない瞑想です。
 はい、それでは、これからまず一分間。しっかりとまず、この我か身これ我ではないと。つまりわたしたちの身体は父母の精液と、それから卵との結合によって形成された身体にすぎないと、そのように考え、この身体はわたしではないという瞑想をしましょう。はい一分間。−−はいやめ。
 わたしたちが第二番目に捨断しなければならないこと、それは疑念です。この”疑念”とは何かというと、真理に対する疑念。例えば、善を行なったとしてもそれは利益にならないだとか、あるいは徳を積んだとしても高い世界へ行けないだとか、あるいは真理の法則を実践したとしても解脱しないだとか、あるいは寂静の修行を行なったとしてもサマディに入れないと。このような疑念−−このような疑念をしっかり捨断し、この四つの実践を行なうならば、動物界へ転生することはありません。しかし逆に、もし皆さんがね、例えば、すべては自分のためにあると。善をなすぐらいだったら、自分のエゴを満足させた方がいいと。あるいは徳を積むくらいだったら、自分のために使った方がいいと。あるいは、寂静の修行を行なうより、外側で煩悩を満たした方がいいんだと。あるいは真理の法則を実践するより、今を楽しく生きりゃいいじゃないかと。このような心の働きを持ち、疑念を実践するならば、必ずや動物界へと転生します。したがって、それを捨断する瞑想、疑念の捨断の瞑想−−はい、それではこれから一分間行ないましょう。
 そして第三番目は、戒誓のとらわれの捨断。この”戒誓のとらわれ”とは何かというと、要するに、なんらかの利益を得るために念力をかけるだとか、あるいは、なんらかの願望を成就するために念力をかけると。これが、戒誓のとらわれの”誓”だね。では、”戒”のとらわれとは何かと。例えば、何とかの目的のためにお百度参りをするとか。これが戒であると。そしてこれらの、わたしたちの煩悩を増大させ、愛著を増大させるような生き方をしていると、わたしたちは低級霊域へと転生するわけです。したがって今まで宗教遍歴のある人は、その宗教遍歴に対するザンゲ、あるいはもし政治的誤った見解に立ったり、思想的誤った見解に立った人は、その思想に対するザンゲ、これを行ないましょう。はいそれでは一分間。−−はい。
 そしてね、素敵な異性に対する興奮、この興奮を捨断すること、そして他人を害して、あるいは、け落として、自分か優位に立とうとする心、これを捨断すること。この五つの捨断により、わたしたちは地獄から意識堕落天までの世界への転生までを捨断し、より高い、幸福・歓喜・自由を得ることかできます。したがって皆さんは四無量心、そして五つの下位に結びつけるきずな、これをしっかりと捨断しましょう。



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