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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.140〜P.144)

第二十話(一九九一年二月十二日 阿蘇シャンバラ精舎)

 五蘊形成がその魂のすべてであることは仏典に説かれている事実である。そしてこの五蘊形成を分析すると、次の生、どの世界へその魂が転生するか、よく理解できる。あるいは、どういうカルマによってその魂がそこへ存在したのかも理解できる。例えば、厚い皮膚を覆い、その上に厚い毛が付いていると。そして、そのもののイメージは食べることと、それから性的なイメージ、しかもそれは衝動的な性的なイメージ、そしてその食べることも自分より弱い対象に対してほえ、かみ付くと。その魂の意識は飼い主に対して忠実であり、そしてその飼い主の例えば悪法における指示においても、それに柔順に従うと。
 おやおや、これは何かなと。皆さんのよく知っている猟犬であると。ではこれを人間界に当てはめた場合、そういう魂がいないだろうかと眺めると存在すると。例えば大変エゴが強く自と他の区別をはっきりなし、そしてこの身体こそ我であると自覚する魂がいる。そして、その魂の意識の中にはデータとして食べること、それから衝動的状態において性的交わりを行なうこと、そして弱い者をいじめること、そして強い者の指示なら何でもその指示に従う。つまりこの魂の五蘊のデータによってこの魂は次の生、動物へと転生するのである。
 では、ここに魂が存在していて、その魂は肉体こそ我であると考えている、そして、不死の肉体を持ちたいと。その魂の意識はひたすら対象を傷つけること、破壊することにあると。そしてそのためには手段を選ばないと。つまりその魂の心は殺伐としていて、その対象に対する憎しみしか存在しないと。この魂は当然死のない世界、つまり苦痛しかない、憎しみしかない世界へと転生する。死がないとはどういうことかというと、その身体に対する愛着が消えるまで、何度も何度も死んでは生まれ変わり、死んでは生まれ変わりを繰り返すと。つまり地獄へと転生するのである。ではこのような対象がこの人間界に存在しないかというと、皆さんもよく知ってのとおり、多くの魂が存在している。
 では、多くの食物があり、それを腐らせる。施せばいいのに腐らせると。そして絶えず不安にかられ、大金を金庫にしまい込み、あるいは通帳にしまい込み、その不安を何とかごまかそうとして生きている。そして得られた衣服や食物や、あるいはその他の物質に対して、独占欲の固まりとなり、他の者に対してそれを振りまこうとしないと。こういう魂はこういう魂だけの世界へと転生する。そして一定の物質に対して多くの生存が、生存者がそこに存在し、そして食べられない、着ることができない、あるいは得られないといった苦しみを味わうことになる。もちろんこの世界は餓鬼なのである。
 そして、これら三つの要素を若干でも克服し、ある程度功徳を積んだ魂の行く世界、その世界が人間なのである。
 もともと欲六界という言葉は北伝仏教にのみ存在する言葉である。南伝仏教においては五界、五つの世界ということで表現されている。この五つの世界とは何かというと、地獄・動物・餓鬼・人間、そして天界である。そして次はこの天界、つまり天とは上の世界であり、この上の世界を小さく分けて、憤怒天・戯忘天、この戯忘天も六つの世界へ分けると。正確にいうならば、この戯忘天の第一天界に憤怒天を置いていると。そして欲の天界の上に貪りのない天界、つまり神聖天、梵天の世界を形成させ、その延長上に形のない世界、つまり無色の世界、非存在の世界、コーザルを形成させると。そしてそのコーザルの広がり深さ等在よって、マハー・ニルヴァーナを形成させると。これが仏教観のすべてである。
 もちろんこれに対して、後世の仏教徒は大いなる反論をなすであろう。いや、タントラの世界観はまた違うと、あるいはまたヴァジラヤーナの世界観はまた違うと。しかし、それらの世界観は全く違わないのである。全く同じなのである。では、何ゆえに同じといえるのかと。それは例えばタントラの世界観あるいはヴァジラヤーナの世界観は、欲界の裏側である低位アストラル、あるいは低位コーザルをもって一つの世界観としてその世界を示しているから、つまり仏教的な世界観に比べて、仏教的な世界観は欲界・色界・無色界だけども、このタントラ的世界観においては、まず欲の世界に三つ、それから色の世界に二つ、そして無色の世界が一つと、その上に、まあマハー・ニルヴァーナが存在するということで、実際に六つ、あるいは七つの世界観を形成することができるわけである。
 これはどういうことかというと、仏教的修行とそれから密教的修行との間に隔たりがあり、深い意識状態へ入るテクニックとして、密教的技法が優れてるから、そういうことになったわけである。しかし実際には深い意識状態に徳がなく入った場合、それは悲惨な目に遭うことになる。
 例えば例を挙げるならば、仏教的修行法というのは四預流支という典型的な修行法がある。この四預流支は八正道、七覚支、五根五力、二正勤二正断、あるいは四如意足といったもの、すべての仏教的修行体系を内在している。それはなぜかというと、まず第一に三宝帰依という四預流支の土台。第二にその帰依の対象の教えてひたすら学ぶと。そしてそこで記憶修習するという第二番目の土台。そして記憶修習したものによって、自己の身・口・意について考え分析し、そしてそのカルマを落とすという第三番目の土台。そして身・口・意について考えたものを実際に実践するという第四番目の土台。
 しかし、これはよく考えてみると、例えば第四番目の身についての法行、これは何を意味してるかというと、これは殺生を離れ、偸盗を離れ、邪淫を離れと。口についての法行、これは何を意味しているかというと、妄語を離れ、綺語を離れ、悪口を離れ、両舌を離れると。心についての法行、これは何を意味してるかというと、貪りを離れ、嫌悪を離れ、そして無智を離れると。つまりこれは十の戒めの達成を意味しているわけである。あるいは、法にのっとりものを考え実践するわけたから、当然この中に七覚支も存在してるし、あるいは二正勤・二正断も存在してると。あるいは四如意足、あるいは五根五力も内在していることになる。ということはこの四預流支こそすべてであり、そして四預流支の変形こそ、三十七菩提道品ということになる。
 では次に、この修行を達成するとはどういうことかというと、その人の持っている純粋な心の働きを最大限に生かし、身の行ない、口の行ない、心の働きを統御するということである。ということは、この三十七菩提道品の修行というものは、魔境に入らず、そして、スピードは遅いかもしれないけど、いずれの生においては、必ずや仏陀の境地へ到達できる素晴らしい法なのである。
 では、タントラの教えとはどういう教えかと。あるいはヴァジラヤーナの教えとはどういう教えかと。タントラの教えとは、要するに、その乗り物であるマントラ、実はこのマントラというのは、例えば八正道の正念に当たるわけだけども、その正念、そして正サマディという、正記憶修習、正サマディというこの二つにポイントをおいて、修行法を絞り込んだ修行、これがマントラ修行なのである。それはどういうことかというと、例えば「オーム・ソーハム・シヴァム」という言葉があると、「我はシヴァなり」と。つまりわたしはシヴァ神であるという記憶をひたすら修習すると。そしてサマディに入ることによってシヴァ神と合一すると。つまりこのプロセスはまさに正記憶修習、正サマディなのである。あるいは例えば「オーム・マニ・ペメ・フーム」のマントラがあると。この「オーム・マニ・ペメ・フーム」という観音様のマントラを唱えることによって、オーム、天界から、フーム、地獄界までの六つの世界のカルマを破壊すると。それを記憶修習すると。そしてそのデータによって深い意識状態へ到達すると。しかしよく考えてもらわなきゃなんないのは、このマントラ修行においては、言葉、マントラ、手印、行為、そして観想、これはイメージ、あるいは意志・意識、こういうものすべて含むわけだけど、これにおける善業を積んでるとはいえ、実際に人間の本性である基本的な三業についての浄化がなされていないということになる。逆の言い方をすれば、三業の浄化をしてこそ、初めて本当のマントラ修行ができるわけである。ということは、このマントラ修行によって行く世界は、もし身・口・意の三業の浄化がなされていなければ、当然低いコーザルを見、あるいは低位アストラルを見ることによって、その人は仏教で説かれている世界観と違った、形のある、そしてけがれた世界を見ることになる。それによって、いや、もっと仏教の世界観以外に世界が存在するんだということをその人は主張することになる。
 ヴァジラヤーナの教えとは何かというと、心のみを中心としている。つまり意識のみを中心としている。なぜ意識のみを中心としてるのかというと、これは輪廻転生においてわたしたちのこの肉体も、そしてイメージ的なものもすべて取り払われ、超潜在意識のみがそこに存在すると。だとするならば、超潜在意識のみを浄化すればそれでいいじやないかということになってくる。つまりヴァジラヤーナの教えにおいては自分自身の死イコール仏陀の境地ということになるわけである。なぜかというとこの修行者は、超潜在意識のみを仏陀の境地へと合わせようとしているから、この肉体がなくなったとき、あるいは意識、意志やイメージ、五感がなくなったときがチャンスなのである、仏陀の境地へ到達する。しかし、これも、もし失敗すれば、また次に大変自分自身に合わない身体を持たなければならなくなるわけだから、これも苦しみを経験することになる。そしてこのヴァジラヤーナの瞑想においてはコーザルへ到達して、はじめて価値のある体験をすることになる。
 ということは、あくまでもやはり南伝系の土台の修行をしっかり行ない、そしてマントラ修行を行ない、そしてヴァジラヤーナの心を培うという修行の体系こそ本当の意味で早く、そして絶対的な境地へと到達する修行なのではないかとわたしは確信を持っています。そしてここにその法がある。その法を実践するかしないかはあなた方次第である。人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けらんない。しかしここに集ってる者は、死を超えるために、そして生を超えるために出家したわけである。その意識を強く持って、今日これから功徳を積み、十の戒めを達成し、マントラ修行に励み、ヴァジラヤーナの心を培っていただきたいと思います。いいね。
(サマナ)はい。



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