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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.133〜P.139)

第十九話(一九九○年五月十三日 杉並道場)

 まず、今までのいろいろなオウム・バッシング、そして麻原彰晃叩きというもの、これがあったわけだけれども、そこでまず、皆さんが考えなければならないことが、わたしは一つあると思います。つまり、それは何かというと、まず今のオウム真理教以外で、皆さんに高い世界への道を示している教団があるかどうかということ。もちろん、わたしもこの日本の他の教団のすべてを知るわけではないから、それはないとは言い切れない。でも、少なくとも完壁なかたちで皆さんにそれを提供している教団というものは、オウム真理教しかない。ところが、今までのオウム叩きの内容そのものは、その教団の、つまり皆さんに与えるいい意味での影響というものを全く無視し、偏った情報を流すと。しかも、その情報について、例えば正確に伝わるならばいいけれども、そうではない。
 ここで、一つ皆さんにお話をしておきたいことがある。成就というものには、三つの面があるんだということを、まず話さなくてはならない。そして、成就というものは、六つのものを具足しなくてはならないということを、皆さんに話さなければならない。
 それは何かというと、まずグヤサマジャの三面である。グヤサマジャの三面とは何だと。これは、要するに、強烈なる怒りのエネルギーを爆発させることによって、救済する。よく私が論戦をするときに−−まあ、周りは「過激」という言葉を使うわけだけれども−−強い口調になる。しかし、これは、タントラ・ヴァジラヤーナの成就における、右の気道、つまり完全なるビンガラ気道の浄化が起きるならば、当然生じる状態である。それは、この世の中に対する矛盾というものに対して、救済を背景としてその自分の全エネルギーをぶつけるということが背景となってくる。
 ところが、一般に日本の宗教観念というものは、ヒナヤーナ、小乗的な観念が強いから、要するに宗教家はおっとりしていればいいと、そして、どんと構えていればいいとされている。確かにわたしにとって、どんと構えておくことは最も楽である。しかし、今生、カーリー・ユガの時代に生まれている皆さんを済度するためには、もちろんここに集まっていらっしゃる方は徳の高い方だろうから、その必要はないかもしれないけれども、一方的なマスコミの情報によって落ちていった信徒も一割くらいいることは事実である。すると、その人たちに対して、どのような面でわたしは接しなければならないかというと、あるときは怒りをバックボーンとして接しなければならない。まず、この面が強調される。
 それからもう一つ、次は左の気道の浄化、イダー気道の浄化によって、無智というものが現われてくる。この無智というものはどういうことかというと、いっさい意に介しませんよと、わたしは無反応ですよと、わたしは感じていませんよというような面を示さなくてはならない。
 で、マスコミで表現される麻原彰晃のイメージというのは、おそらくこの二つだと思う。しかし、これもグヤサマジャの三面の中の第二番目の面にすぎない。
 そして、第三番目の面は、サットヴァ性、執着、これがポイントになってくる。このサットヴァ性、執着とはいったい何かというと、これは救済に対する執着である。つまり、自己の解脱、この解脱がすべての魂の救済につながらなければ、その解脱の本質的な意味合いというものはないんだということだね。
 そして、その救済に使われる六つの道具、これが、グヤサマジャの六本の手で表わされている。
 ところが、宗教性の低い日本人にとって、このわたしの三面の顔、三面の様相というものは理解されない。
 では、果たして、麻原彰晃に神秘的力があるのかどうかという点に対してはどうたろうか。まあ、これはいろいろな神秘的な要素というものを備えていなければ、グルとしては存在しないわけだから、例えば一つの例を挙げるならば、選挙期間中、わたしはフジテレビのインタビューに対して、「わたしが今選挙に対して意識を集中しているから、シャモンが二日に一人、あるいは一日一人くらいのペースで落ちています」という話をした。ところが、選挙が終わり、まあ説法の回数そのものは増えてはいないんだけれども、瞑想に入った段階で、出家した弟子たちが落ちなくなった。それどころか、より確信を持って修行するようになった。これは何かというと、コーザルのデータの入れ換え、あるいはアストラルのデータの入れ換えにほかならない。
 それからもう一つ、マスコミの動きを検討しても、この前フジテレビで、グヤサマジャの右の面、つまりピンガラの、怒りの様相を背景として意図的に論争したわけだけれど、それ以後マスコミがほとんど動かなくなった。
 神通力には、二つのタイプがある。一つは見世物の神通力である。もう一つは、救済に使われる神通力である。そして、それは、仏典ではこのような表現をされている。それはどういうことかというと、戒・定・慧、この三つの修行を達成した者は、解脱に到達すると。そして、解脱に到達した者は、解脱智見を得ると。この解脱智見とは何かといったら、その人の欲する神通力を得るというふうに考えてよろしい。そして、わたしの欲している神通力そのものは、皆さんを、多くの魂を、マハー・ニルヴァーナに早く到達させるための力である。よって、あまり見世物的な力は欲しない。
 今、オウム真理教の中で、例えばマハー・ケイマ正大師や、マハー・マーヤ正悟師、あるいはマイトレーヤ正悟師が、神通力を少しずつつけ出している。これは、三番目のヨーガ、マハームドラーが、明らかに解脱の点を示していることの一つの証明であろう。そして、わたしはマハー・ケイマ正大師やマハー・マーヤ正悟師、あるいはマイトレーヤ正悟師のつけている神通に対して、よく「子供だましだね」と話をする。その話は何かというと、確かに仏典に説かれているような神通力ではあるけれども、それはまだまだあまり救済には役立たない。本当に救済に役立つ神通力を早くつけていただきたいと考えている。しかし、この三人が、確実にこの解脱智見を得ていっていることは問違いない。ということは、近い将来において、わたしと同じように、多くの魂を利する神秘的なパワーというものを身につけることになるだろう。
 そして、この戒・定・慧・解脱、そして解脱智見を得た者がこの世に登場すると、何が生じるのか。それは、出家修行者が生じる。出家修行者が生じるとはどういうことかというと、この現世的な束縛の中で解脱をしていくということは、タントラ・ヴァジラヤーナのよほど優れた修行の素質を持っている者以外は不可能である。だとするならば、出家し、そしてこの社会の観念から離脱し、そして新しい解脱のための理念を植え付け、そしてそれによって修行を進め、絶対的な自由・幸福・歓喜を得るという、そういうものが必要であると。そして、その価値を皆さんに提示し、提供し、その価値をわかっていただけるだけの力が必要なんだということだね。
 オウム真理教に対して、「被害者の会」というものがある。しかし、この「被害者の会」というものは、本来は「加害者の会」である。なぜ「加害者の会」なのかというと、つまり、本当の意味で、自由・幸福・歓喜を得ようとしている自分の肉親に対して、それを阻む。完全に地獄へ落ちる道を歩んでいる「加害者の会」といわざるを得ない。これは断言しよう。わたしが否定しようと、あるいはわたしがそれはあり得ないよと言おうと、間違いなく「被害者の会」の者たちは地獄へ落ちるだろう。それは、二千五百年前、仏陀釈迦牟尼が約束していることだからだ。そして、わたしも同じように見解を持っている。同じように、マスコミも地獄へ落ちるだろう。それは、真理というものの芽を摘み取ろうとしているからだ。それは、この宇宙の秩序が約束した、絶対的な真理である。
 では、この世の中の不条理というもの、不合理というものを離脱し、そして戒と定と慧を得、そして解脱に到達し、解脱智見を具した者は、いったいどういう世界へ行くのたろうか。それは、その人の機根と、それからどの程度マハーヤーナの修行、あるいはタントラ・ヴァジラヤーナの修行をしているかによって、到達する世界が違ってくる。
 まず、最高の位、つまり最も優れた解脱智見の持ち主は、この現世にいて完壁な仏陀の状態になり、そして現世大涅槃をするだろう。次に、確かに神通は身につけているけれども、まだ例えば多くの者を出家させ、そして救済させることのできない者は、死の瞬間、マハー・ニルヴァーナへの道を歩くことになるだろう。そして、まだ死後の世界を完壁に理解していない者は、中間状態に入ったとき、つまりバルドーに入ったとき、マハー・ニルヴァーナへと入る光の道を通っていくことになるだろう。そして、まだ観念的な、功徳あるいは悪業というものに対する若干の引っかかりを残している者は、同しように光の道でも白銀の道を通って上がっていくことになるだろう。そして、まだ美しさに対して執着をしている者、あるいは醜さに対して若干の嫌悪のある者は、色界で修行し、それを完全に落とし、マハー・ニルヴァーナに入るか、あるいは色界で単にそのカルマが落ちるまで待って、自動的にマハー・ニルヴァーナに入るかの、どちらかの道を選ぶだろう。そして、この欲界が完全に破壊し終わるまで、つまり、すべての魂がマハー・ニルヴァーナに入るまで、この身を置こうと考えている者は、つまり身体に対する一つのこだわりがある者は、色究寛天−−これは光音天の最高位に属するわけだけれども−−その世界へ生まれ変わるだろう。このようにいわれています。そして、わたしもいろいろな世界を経験している。
 するとね、みんなはこう考えるかもしれない。「いや麻原、それは幻影ではないか」と。では、幻影だという人に対してお聞きしたい。過去において、生まれてからこの方、そういう情報を入れていないのに、なぜそういう経験をしていくんだと。もし、そういう情報を入れているならば、確かにそのイメージの世界で遊べるかもしれないけれど、そういう情報を入れていない者が、なぜそういう経験ができるんだという疑問をわたしは発したい。それは、つまり前生からの植えつけられたデータではないかと。
 つまり、神秘的な体験には二通りある。一つは思い込みの体験。もう一つは、思い込もうとしても思い込めない、つまり経験をしたことのない体験。この二つがある。そして、前者は、要するにラージャ・ヨーガ的な、イメージ的な修行法の一段階にすぎないが、後者は、明らかにその人の前生からの精神的ステージ、あるいは霊的ステージを表わしていることは間違いない。
 皆さんは、これから何をなさなければならないのか。それは、皆さんが肯定しようとも、否定しょうとも、必ず死ぬんだということをまず前提に置かなければならない。そして、例えば今四十歳の方は、あと四十年、あるいは五十年、つまり八十歳、九十歳で死ぬんだと。それまでの間には、必ず完壁な保険を掛けるべきである。
 実は昨日、シークレット・ヨーガの一つで、こういう話があった。自分は、ご主人に引っ張られてオウム真理教に入信したと。でも、自分はオウム真理教に対して理解できないと。これは、ご主人は一生懸命修行なさっていて、奥さんがそれに対して反対した例だ。 そこでわたしが答えたのは、こういう内容だね。つまり、死後の世界はないかもしれないと。しかし、あるかもしれないと。そして、あなたは、死後の世界はないと断定のできる経験をしましたかと。ところが、死後の世界が存在するという経験を、例えば仏陀釈迦牟尼にしろそうだし、それはわたしにしろそうだし、あるいはイエス・キリストに、しろそうだし、マホメットにしろそうだけれども、経験している。ところが、死後の世界がないんだという人に対しては、その死後の世界がないという経験をしていないはずであると。
 この現世に対して、たかだか四十年、五十年に対して、例えば給料の五パーセント、あるいは十パーセントかもしれない、あるいは三パーセントかもしれないけれど、いろいろな形での保険を、わたしたちは掛けている。それと同じような気持ちで、死後の世界に保険を掛けるような気持ちで、ご修行なさったらどうだろうか。ただ、この保険というものは、お金の問題というよりも、自分の人生の一部分の時間を切り割いて、そしてそれに充てなくてはならないという違いがある。
 オウム真理教の信徒として、皆さんがまず考えなくてはならないことは、必ず自分自身は死ぬんだということだ。それは、皆さんが肯定しようと、あるいは否定しようと、死ぬんだと。そして、その死というものは、皆さんの修行によってのみ、乗り越えることができるんだと。それ以外のものでは、決して乗り越えることはできないんだということを断言しなくてはならない。そして、それをもとに、もし皆さんが智慧があるならば、今日から、例えば五分、あるいは十分、あるいは一時間と修行を続けていくだろう。もし智慧がなければ、現世的な煩悩に負け、日々流され、死んだ瞬間、「しまった」と思うだろう。 ここで、わたしの弟子に三種類あるということをお話ししなくてはならない。その第一は、まず入信はしているけれども、ほとんど修行していない人。次は、入信し、信徒として一生懸命やっている人。そして、出家し、わたしの弟子として修行しているという三つのグループがある。
 第一のグループは、三悪趣から離脱するための切符を得たといえるだろう。しかし、その人がその切符を使うか使わないか、その人がその列車に乗るか乗らないかは、その人の自由である。つまり、まだその人は三悪趣から離脱はしていないといえるだろう。
 第二番目の、信徒として一生懸命やっている人たちは、当然今生、この現世というものは悪業の巣窟だから、その悪業に対して善業を積むということによって、悪業と善業のバランスによって、この欲界の中の上位の世界、つまり人問、それから阿修羅、それから天界という三つの世界に生まれ変わる切符を得ているといえるだろう。それで、その三つの中のどの世界に生まれ変わるかは、その人がどれほど一生懸命修行するかによって違ってくる。
 そして、出家した弟子たちは、今生善業のみを積み、そして悪業、カルマを落とすということによって、色界に生まれ変わるか、あるいは先程言ったとおり、解脱し、解脱智見を得、そしてマハー・ニルヴァーナへ到達するかの、どちらかの切符を得ているといえるだろう。しかし、これも同じように、出家し、そして全力で修行した場合の話である。もし修行しなかったならば、それは同じように三悪趣へ落ちるかもしれない。
 皆さんは、稀な徳によって今ここへ集まり、そして修行のチャンスを得ている。これほど膨大な教義があり、そして個々に合った指導法を持つ教団はない。皆さんは、皆さんに合った今できる修行法、これからまず始め、そして一歩一歩修行を進めて、最終的にはマハー・ニルヴァーナへ到達していただきたいと考えている。
 わたしは、ハルマゲドンが来ようと来まいと、そんなことはどうでもいいと考えている。それはなぜかというと、これはグルヨーガ・マイトレーヤ・イニシエーションの中でも少し話したが、どんな状況にあろうとも、もし大いなる功徳があれば、逆にこの人間の悪業の世界から離脱し、阿修羅や天界へ生まれ変わることができるからである。大切なことは、どんな状況に陥ろうとも、自分自身を律し、そして修行し、高め、そして高い世界に生まれ変わるための自分の心を確立することが必要だということだ。
 もちろん、まだ、今死んだら大変な世界に落ちてしまうという人のために、あるいはそうではなくて、もっと長く生き、そして多くの魂を救済したいという人のために、今富沢の方に約二千人収容できるシェルターを用意しています。これは、おそらく五月の十七日くらいに完成するでしょう。
 わたしは、皆さんとの約束は必ず守る。例えば、シャンバラ化計画も進めていくし、それから、多くの解脱者をこれから出していきたいと考えている。あとは、皆さんの、身・口・意の三つの業に、それを受けるだけの、つまり解脱していくだけの善根が生じているかどうかで決まってくるでしょう。



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