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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.127〜P.132)

第十八話(一九九○年四月四日 富士山総本部)

 今日はまず初めに、ダライ・ラマ政庁の方から、この前の『夕刊フジ』のまあ内容をウッタマーに英訳させて送ったわけだけども、それに対する返事が来ております。で、これはまず、マハーマーヤ大師の方から読んでいただいて、そして今日の講話に入りたいと思います。
(マハー・マーヤ大師)では日本語訳だけ読ませていただきます。

 麻原尊師へ(これはカルマ・ゲーリック・ユトック、『夕刊フジ』のインタビュー、永岡さんのインタビューに答えたとされている人物からの手紙です)
 麻原尊師へ、わたしは、この手紙を非常な、個人的懸念をもって書いています。尊師の三月十六日付の個人的お手紙により、尊師がわたしの、永岡弘行氏、およびその一行とのインタビューに関する『夕刊フジ』の内容をそのまま信じてしまわれたことを知りました。とても残念です。手紙に添付されていた記事の翻訳を読みましたが、発達した文明国の一員が非文化的、非道徳的、かつ違法的な行為に屈して、意図的に問題を起こし、人間関係を壊そうとするなど全く信じ難いことです。しかも皮肉なことに善という名のもとにです。
 記事の中でわたしが言ったとされていることの九九パーセントは、全く本当のことではないと知ったときには、怒るというよりも驚きました。はっきり言って、ねじ曲げられていない部分は一つもありません。永岡氏が大ウソツキであるか、彼のインド人の通訳が下手であったかのどちらかでしょう。
 わたしの地位以外にある自尊心を持つ人間なら、だれでも永岡氏とその一行を訴えたことでしょう。日本の社会および政府がこのように無責任で程度の低い公共のメディアを野放しにしているとは全くショックなことです。明らかに、永岡氏によって後援されているこの記事に対する、わたしの言い返しのコピーを近々送ります。
 良いにしろ悪いにしろ、永岡氏はわたしとの七十分のインタビューをビデオ撮りしています。もしその録音でのわたしの声を聞いてもらえるなら、そのときすべてが明らかになるはずです。わたしは最初から永岡氏が何をもくろんでいるのかがわかっていたし、このドラマのすべてが何なのかもわかっています。しかし、わたしたちはこのことについて話し合い、理解し合い、現在のこの状況を解決しなくてはならないと思います。
 どうかわたしの意図を誤解なさいませんように。
一九九○年三月二十七日カルマ・ゲーリック・ユトック
−−以上です。

(尊師)とまあ、こういう手紙が来たわけなんだね。で、まあわたしは、そういうこの手紙の内容に書かれている誤解という文があるけども、それはどうでもいいと考えています。どうでもいいというのはどういうことか。それは今日の本題、つまり信、あるいは帰依というものに対するわたしの考え方をこれからあなた方に話すことによって、あなた方はそのわたしの立場というものを理解していただいたらいいと考えます。
 まず、わたしの帰依というものの考え方は投げ出すこと。投げ出すことというのは何かというと、自分のいっさいのものを捨てて、自分自身を投げ出すこと。これがわたしにとっての帰依です。
 そして、わたしにとっての信とは何かというと、それはシヴァ神、あるいは仏陀をはじめとする、本当に成就なされた方々に対する信、そしてその方々がお残しになった、まず教えに対する信、そして現在、生を受けてらっしやる高い霊性をお持ちの方に対する信と、この三つがわたしの信であると。そして、その信ずるものに対して、例えば「これはわたしは食べます」「これはわたしは食べません」「これはわたしは、行ないましょう」、「これはわたしは行ないません」というような帰依の実践を、わたしはしていない。つまり、わたし自体を、まあ犠牲にするという表現は、ちょっと格好がいいかもしれないけども、要するに投げ出すこと、これがわたしの修行であると。そしてそれこそわたしは、帰依の実践であると考えています。
 そして、一般的な修行のレベルだと、要するに仏陀に対する、法に対する、あるいは修行者に対する帰依、あるいは信ということになろう。しかしわたしは、一般的な修行をしているだけではなくて、菩薩の修行、あるいはタントリックな修行、あるいはヴァジラヤーナ的な修行を行なっています。ということは、わたしの帰依の対象というものは、単なる仏陀、法、そして僧伽、だけではなく、例えば、この世界、この宇宙の秩序を司っている者たちに対する帰依、そして絶対的な真理の守護者に対する帰依、そしてもちろん、わたしの本質的な帰依の対象というものは、そのすべてを包含しているシヴァ大神に対する帰依ということになります。つまり、そこに一寸の、あるいは五分でもいいけども、エゴというものが存在するならば、それは帰依の実践をしているということにならないんだね。
 まあ今日ミラレパ大師の方から、被害者の会かどういう手紙を配ってるかという内容もちょっと読ませていただいたけど、まあはっきり言って読まない方が良かったと。それはなぜかというと、その内容、「麻原彰晃は、どうこう…」という、書かれている内容だとか、ほんとに心の汚れ、口の汚れみたいな内容を羅列してある内容だったんだね、それを聞くことによって、例えば少なからずカルマが彼らに返るということ、読むことによってカルマが返るということを気にすると、やっぱり読まない方が良かったと考えている。そして、わたしのその帰依というものはいかなる状況であろうとも揺るがないと。
 で、ここで問題になってくるのは、なぜわたくしがカルマ・ゲーリック氏のその言葉に対して「どうでもいい」と言ったかというと、わたしはカルマ・ゲーリック氏を理解している。カルマ・ゲーリック氏の立場も理解している。そして、理解した上で、今回の、要するに手紙の内容というものをダライ・ラマ政庁に英訳して送り、そして「チベット政府の立場というものは理解していますから、いかなるコメントが出ようとも、オウム真理教としてはいっさい反論をするつもりはございません」と。「ですからどうぞ、自分たちの、つまりね、チベット仏教を守る立場の菩薩の修行をなさってください」というような内容の手紙を送ったわけだね。で、そうではなくて、実際まあ返ってきたのはこういう内容であったと。
 そして、これはオウム真理教にとってはプラスに働くでしょう。しかし、プラスに働いたとしても、それに対して興味を示さないと。あるいは前回のように、今マスコミが行なっているように、すべてがマイナスの方向に行ったとしても、それにけして心は動かないと。
 自分の修行の目的は、完壁な帰依の完成だからであると。言い方を換えれば、悪い条件のもとで、自分自身を投げ出すと。悪い条件のもとで、自分自身の信の実践をすることこそ、わたしは崇高な修行者の実践であると考えているからです。
 そして、この帰依の実践こそ、ヴァジラヤーナの菩薩の修行であると考えています。
 よく、大師方と話していて、「これはOKだけど、これはOKでない」と。例えば「これはグルの言うことだから行なうけども、これは自分の意に合わないから行なわない」という発言をよく聞きます。そのときにわたしは、よく、以前のわたしはこうだったんだなと、そして、今、彼らが修行の途上にあるんだということを、そこで再認識すると。そしていずれ、彼らも必ず今のわたしと同じように、完壁なる信、あるいは完壁なる帰依の実践の修行に入っていくだろうと。それまで辛抱強く待つしかないなと。
 あるいは、シャモンになりたての人が大師の批判をすると。そのときにわたしは、今の大師の中で批判をされる大師は、やはりシャモンのときに大師を批判してた人たちたったんだなと、それを再確認すると。ま、いろんな人に確認してね。そこであらためてカルマの法則というものは完壁であると。批判をする人は必ず同じかたちで批判をされると。つまりカルマの法則というのは完壁なんだと。それによって自己の帰依の実践というものを、よりいっそう強く行なう。そして確認をしながら進んでいくと。
 そして、今の被害者の会の方々、あるいはマスコミの方々がいかに哀れであるか。例えば聖者を誹謗した場合、いったいどういう世界へ生まれ変わるんだろうと。例えば修行者を誹謗した場合、いったいどういうカルマが返ってくるんだろうと。例えば神々を誹謗した場合、いったいどのようになるんだろうと。しかし、それがまかり通ってるように見えると。確かに小さい期間、眺めれば、それはカルマの法則から逸脱してるかのように見えるかもしれないと。しかしそれは長くは続かないと。
 それは、ちょうど低温やけどに当てはめることができると。ここに、例えば四○度の湯たんぽがあったとしようと。四○度の湯たんぽは熱くないと。だから、それをずーっと体に当てていたと。痛みもないと。ところが、それが例えば六時間、八時問、十時問と続くと、そこの部分はただれると。今彼らのなそうとしていることは、そういうことなんだなと。
 そしてわたしたちは、ここで正念をして、しっかりと自分自身を見つめて、そして自分のいったい帰依していたものは何なのかと。帰依の対象とは何なのかと。それをもう一度認識する必要があるだろうと。
 例えば、信徒の中で、ダライ・ラマ法王政庁のカルマ・ゲーリック氏が『夕刊フジ』、あるいは雑誌・TVで言ったような内容を見て、そしてそれによって信がなくなって落ちていった人たちがいると。しかしそれはおかしな話であると。なぜおかしいのかと。では彼らはチベット仏教に対して帰依をしていたのかと。だとしたら、オウム真理教に入信すべきではない。だとしたら、チベット仏教に入信すべきであったと。しかし、人間というものは情報に流されやすい。そして、無智なるがゆえに、その情報の正当性、あるいは誤謬性といったようなものに対して、全く判別がつかなくなると。
 そして、最も大切なものは、今自分の行なっているもの、これに対してひたすら実践をし続けることであると。
 オウム真理教は受難の時代であると、これは大師方がよく口ずさんでいる言葉だけどね、しかしわたしは、今のわたしは受難の時代ではないと考えています。なぜならば、例えば叩かれたら、それだけ時間ができると。時問ができれば修行すりゃいいじゃないかと。それだけステージが上がると。ステージが上がることによって、例えばホーリーなヴァイブレーションを振りまくことができると。あるいは思索をする時間ができると。そうすると次に、例えば信徒と会うとき、あるいは凡夫・外道と会うとき、よりいっそう高いステージのもと、相手と接することができるじゃないかと。−−つまり、こういう社会的活動が阻害されてるとき、内側を充実すればいいじゃないかと。わたしはこれが修行者のとるべき態度だと考えます。
 もちろん、例えば成就してしまった菩薩、あるいはヴァジラヤーナの菩薩、あるいはタントラヤーナの菩薩、あるいは仏陀、こういう状態になった場合は、また違った視点でものを見なければならない。しかし少なくとも、まだ道のスタートに立ってる人たちは、例えば「周りを入信させることができないんですよ」と、例えば「支部活動がうまくいかないんですよ」と言う暇があったら、自分自身の霊的ステージ、あるいは心のステージというものを充実させる方向に向けると。そして、確固たる自己を確立すると。確固たる自己を確立することによって、その人の修行というものは実を結ぶと。そして実を結んだことによって、その人と話をする人、あるいは悩みの相談を投げかける人たちが楽になると。あるいは問題が解決すると。これこそわたしはヒナヤーナの実践を行なってる者のとるべき道ではないかと考えます。
 今回のカルマ君の手紙でわかるとおり、情報というものは無常である。そして、ある意図によって作られた情報というものは、すべてわたしたちを苦しみの世界に叩き込むんだということを再認識しなければならない。そして今、あなた方が、あるいはこのビデオ説法を聞いている方々が何を実践しなければならないのか、そして目的は何なのかということを再確認しなければならない。
 ”人間、万事塞翁が馬”。これわたしの好きなことわざの一つです。つまり、楽しみの状況にあるとき、その楽しみに溺れない。苦しみの状況にあるとき、その苦しみに悲嘆しない。ただ自己のなさなければならないことを淡々と消化していく。黙々と行なっていく。これこそが必要なことなのではないかと考えます。
 わたしは今の被害者の会の行動そのものは”名人の木登り”だと考えています。いずれ彼らは墓穴を掘るでしょう。そして、マスコミも同じように、いずれ墓穴を掘るでしょう。それはカルマの法則というものは絶対だからです。そしてわたしの帰依してるもの、その最も中心をなす理論、それはカルマの法則だからです。



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