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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.121〜P.126)

第十七話(一九九○年三月三十一日 富士山総本部)

 今日の講話は少し難しいかもしれないけれども、まあ君たちは今一生懸命教学をやっているわけだから、しっかりと理解するようにしなさい。
 それは、よく質問がある、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナ、これとラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、マハームドラーについてである。チベット仏教では、このラージャ・ヨーガ、クンダリ二ー・ヨーガ、マハームドラーのプロセスを、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナに当てはめているという話を私はよくするわけだけれども、この詳しい話を少ししなければいけない。そしてそれと同時に、もう一つは、師匠の三つのステージ、グルの三つのステージというものについても、今日は話したいと思います。
 まず、ラージャ・ヨーガの原則は否定である。そして、ヒナヤーナの原則も否定である。これはよくわかるはずだ。ということは、ヒナヤーナの中心はラージャ・ヨーガといえないことはない。そして、マハーヤーナの原則は否定も肯定もしないことである。クンダリニー・ヨーガの原則、否定も肯定もしないことである。ということは、クンダリニーヨーガの要素を持っている人は、大乗の要素、これを持っているといえないことはない。同じように、マハームドラーの修行というものは、これは、苦というものを創造する、あるいは煩悩というものを肯定する。そして、それを課題として修行を進めていく。タントラ・ヴァジラヤーナのタントラの修行、このタントラの修行は、人間の持っている煩悩、楽というものを中心に修行を進めていく。ヴァジラヤーナの本質は、逆に苦というものを見つめ、修行を進めていく。
 ということは、ラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、マハームドラーの中に、修行のヒナヤーナ、マハーヤーナ・ヴァジラヤーナの基本的修行体系というものは内在されていると考えて間違いない。
 では、なぜラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、あるいはマハームドラーが小乗の部類に入るのかと言うならば、この三つの修行には四つの無量心というものが欠けているからである。つまり何を言いたいかというと、このラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、マハームドラーという修行、これらの修行法は、すなわちヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナに通じるわけだけれども、そこに四つの無量心、つまり大乗的背景というもの、あるいは救済者としての意識というものが根付いているかどうかということが、ここにおけるポイントとなってくる。
 もう少し詳しく説明しよう。ここにラージャ・ヨーガがあると。このラージャ・ヨーガはすべてを否定する。例えば、煩悩も否定する。例えば、現世的に生きることも否定する。そして、すべてを否定した段階で現われてくる集中、この集中をもとに修行を進めていくということになる。
 では、次のクンダリニー・ヨーガは、そのクンダリニーの覚醒から、サハスラーラ・チァクラにエネルギーが至るまでのプロセスにおいて起きるいろいろな心の働きというものを放っておいて修行する。よって、これは現世的に修行することも可能である。しかし、当然そこで引っかかるから、もし次の生グルに巡り合えなければ、落ちてしまう。でも、一千生、二千生、あるいは三千生とかかる大乗の修行、これとクンダリニー・ヨーガのプロセスというものは大変よく似ているといわざるを得ない。
 次は、マハームドラー、あるいはジュニアーナ・ヨーガである。ジュニアーナ・ヨーガというものは、例えば煩悩について、あるいは苦について、あるいは楽について、今まだ生じていないもの、過去に生じたもの、これを課題として考え、思索し続ける。ということは、経験をしていないのに、心の働きにおいてはそれをあたかも経験したかのようなかたちになる。
 マハームドラーについて言うならば、これはグルがいて、その人の最も引っかかっている部分に課題を絞り、そしてその課題を瞑想修行の中心として置く。そして、それを乗り越えさせる。もちろんそれは、その修行者の引っかかっている部分だから、当然その課題を乗り越えると修行ステージというものは飛躍的に進歩することになるだろう。
 そして、もちろんラージャ・ヨーガの到達点に限界があるように、ヒナヤーナの到達点にも限界がある。
 クンダリニー・ヨーガは多くの経験をするというメリットがある代わり、その完成に至るまでの道はものすごく長い長い道のりということになる。これは同じように、マハーヤーナもものすごく長い長い道のりを歩いて、最終のマハーヤーナ仏陀に到達することになる。
 では、ヴァジラヤーナはどうかというと、その人の気づかない潜在的な煩悩、あるいは思考のプロセスというものに対してグルが完壁にそれを見抜き、そしてそれを瞑想課題として突き付ける。当然突き付けられるわけだから、その人は苦しいだろう。その苦しみというものは、百生分かもしれない、あるいは二百生分かもしれないけれど、その苦しみを乗り越えたとき、その人は二百生分ジャンプしたことになる。あるいは、煩悩の喜びというものがあって、その煩悩を突き付ける。例えば、君たちが行なっているツァンダリーの瞑想法などは、その一つの例だ。もし、これをアストラル世界において、瞑想体験において体験することができるならば、その歓喜というものは、君たちが実際、生身の体でセックスをするその比ではないはずだ。それを実際に経験することによって、そしてその煩悩を昇華させることによって、一生分、五生分、十生分といったその歓喜を経験し、それを昇華させていく。ということは、この経験は、当然大乗の仏陀に到達するスピードを速めることになろう。
 そして、三つの修行法がある。もちろん、これに合わせて、三つのグルのタイプが、師匠のタイプがいる。まずその第一は、ラージャ・ヨーガの指導者である。この人は現世否定、そして行中心、そして自分の経験した霊的体験を相手に伝えることができる。当然その弟子も現世否定、行中心、そしてそのグルの得た経験を聞き、今自分がそのグルの経験のどの段階にいるのかを確認しながら進んでいく。
 第二のタイプのグルは、マハーヤーナタイプのグルである。このタイプのグルは、現世あるいは厭世−−つまり世を離れた生活−−この両方に通じ、そして多くの教義を理解し、そしていかなる問題点に対しても答えることかできる。しかし、それはあくまでも顕現されたカルマの状態を理解するだけであって、その人の煩悩の本質というものにはまだ理解が及ばない。
 そして第三番日のタイプ、この第三番目のタイプにはAとBというのがいて、このAは、タントラヤーナのグルである。このタントラヤーナのグルは、弟子がどういう欲求を持っているかということを素早く見抜き、それをうまく与えながら導き、そして解脱させる。あるいは、Bのタイプがいる。これは、弟子の苦の状態を見抜き、そしてその苦をぶつけ、その苦に対して乗り越えさせ、解脱させる。
 この三番目のグルは、本質的に煩悩というものの状態、そして煩悩というものの本質、これを完壁に見抜いていなければならない。もちろん、この三番目のグルは、Aの場含もあるし、Bの場合もあるし、あるいはA、B兼ね備えている場合もある。
 そして、このヒナヤーナのグル、マハーヤーナのグル、タントラ・ヴァジラヤーナのグルという三種のグルがいるということを理解しなければならない。そして、三種の修行があるのだということを理解しなければならない。そして、その三種の修行、三種のグル、これらのどの修行を行ない、どのグルに付くかということが修行のすべての要素となる。つまり、その人が高い世界へ行けるのか、行けないのかという問題である。
 例えば、もしその人が本当の意味での自由、そして大いなる救済を考えていて、ヒナヤーナのグルに付いたとしよう。ヒナヤーナのグルは大変綺麗である。なぜ綺麗かというと、それは世を離れているからである。しかし、世を離れているグル、このグルの心には、ただ自己の世界の完成だけがあり、他の人の本当の意味での幸福・自由を考えた生き方というものは存在しない。
 では、早く結果を出したい、早く解脱をしたいと考えている人がここにいたとしよう。この人がもし、教義中心、そして出てきた煩悩についてはその教義を背景に解明することのできるグルに付いた場合、どうなるであろうか。
 人間の進化というものは、魂の進化というものは、修行に入り、そして何千生、あるいは途中で失敗がある場合、何万生、何十万生、何首万生とかかる。例えば、仏典を読めばわかるとおり、一つの過ちによって五百生をふいにするとかいうのは、ざらである。ということは、早く解脱をしたい、早く結果を出したいという場合、このマハーヤーナのグルに付くということは時間的に大きなロスをすることになる。しかし、このマハーヤーナのグルというものは、人格的には優れている。それは徳を持っているからだ。そしてそれだけではなく、四つの無量心というものを実践している途上にある人だから、大変心も豊かである。しかし、ちょっとゆったりした、のんびりした雰囲気を与えることになるだろう。
 そして第三番目のパターン、これはタントラ・ヴァジラヤーナのグルである。このグルは、当然ヒナヤーナについて、マハーヤーナについて、完全に修めていなければならない。そしてそれだけではなく、弟子の煩悩を完全に見抜き、そしてその煩悩を揺さぶりつつ、その弟子に気づかせる。そして、その煩悩を完全につぶさせる瞑想、あるいは生活の仕方を強いるグルということになる。ということは、このグルは最も大変といわざるを得ない。そしてそれだけではなく、憎まれることもある。そして、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナのグルの中で、この三番目のグルのみが逆縁を利用できるグルである。
 今オウム真理教は、ヒナヤーナ、マハーヤーナを通過し、そしてタントラ・ヴァジラヤーナの世界に入ろうとしている。しかし、本来これは一対一の真剣勝負ということになる。いや、言い方を換えるならば、一対弟子全員というかたちになる。そして、それをこなせるかどうかが、グルの弟子に対する愛であり、あるいは弟子のグルに対する帰依ということになる。
 しかし、弟子の中には、ヒナヤーナタイプの弟子もいる、あるいはマハーヤーナタイプの弟子もいる。その場合、無理をしてタントラ・ヴァジラヤーナの世界に足を突っ込むと、とんでもない目に遭う。
 そして、わたしがなぜ今日この話をしたかというと、このけがれ切った世界の中で、本当の自己を見いださない限り、あなた方に本当の意味での幸福、あるいは自由、あるいは歓喜といったものはあり得ないんだということを、ここに理解しなければならないからだ。それ以外は、すべて幻影である。それ以外は、すべて価値のないことである。なぜならば、無常というものを根本としているからである。
 そして、その無常の心の流れ、無常の身の行ない、無常の言葉の力というものを完全に克服し、それを越えることができたとき、あなた方は、その三つから完全に解放される形をとることになる。
 そしてわたしは、あなた方が勇気を出して、自己のマハー・ムドラー、大いなる心の働きに挑戦し、そしてそれを打ち砕き、乗り越えることを期待してやまない。そのためには、強い意志の力、しっかりとした教義の理解、そして、修行を進めることができるように大いなる功徳を積むという、この三つの柱を大切に修行を進めてもらいたいと思う。


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