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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.115〜P.120)

第十六話(一九九○年三月二十四日 富士山総本部)

 今日は、おそらく初心者には何が何だかさっぱりわからない、ちょっと難しい話をしたいと思います。というのは、今日の話を理解できないと、上級者は何のために修行をするのか、そして、なぜこういういろんな修行法があるのかということについて理解できないだろうから、それについて話をしなければならないと考えています。
 まず、この宇宙のサイクルについて話すならば、虚空の時期、創造の時期、そして維持の時期、破壊の時期と、四つの時期に分けることができます。そして、この虚空の時期は、魂が完全に二分化される時代。最もハードな修行を終えた魂は、光音天−−あるいはアフラの世界と言ってもいいけれど−−へ入ります。これは純粋アストラルだと考えてください。そして、このアフラの世界から欲界に転生する。ここで一つポイントになるのは、このとき地獄の住人、アストラル世界の最も低位にある地獄の住人たちも転生を始めます。そして、なぜそれが起きるのかという話をしなければならない。
 それは、創造の時期をまず考えましょう。例えば、光音天から降りた魂は、ブラフマンの世界、そして天界の経験を終えて、人間の世界へと降りていく。一方、地獄の住人は、餓鬼の世界、動物の世界と形成し、そして人間の世界へと上がっていく。そして、普通だったら、例えば人間から地獄へ落ちる、あるいは餓鬼から動物へ上がる、あるいは餓鬼から天界へ上がるというプロセスがあるわけだけれども、この時期に至る場合それがほとんど行なわれません。いや、全く行なわれないと言った方がいいでしょう。それは、今日これから説明する内容を、あなた方が理解するならば、よくわかることだ。
 まず、宇宙の創造過程について考えてみましょう。徳の高い魂は、光音天から徳をどんどん擦り減らし、梵天、そして戯忘天、あるいは闘争の天界、あるいは人間の世界へと降りてくる。そして、この魂の経験は上位の経験をしています。これはわかりますか。というのは、例えば人間の世界へこの魂が降りたとして、その前生の経験というものは、闘争の世界、阿修羅の経験であったり、あるいは戯忘天の世界の経験であったり、あるいはブラフマンの世界の経験であったり、あるいは光音天界の世界の経験であったりします。ということは、この魂は少なくとも上昇のデータ、高い世界のデータしか身につけていません。
 そして、それとちょうど同じ時期、地獄から餓鬼、動物と経験し、そして人間の世界へと上がってきた魂がいます。この魂は、下へ落ちる、下のデータしか持っていない。
 そして上位の人たちは、神秘的な力を持ち、下位の人たちはその力がない。よって、ここでカースト制度、身分的な分化が起きます。これが創造の時期における欲六界の構成だと考えてください。そして、この欲六界の構成期には、人間界まで落ちた魂を、また上の世界へ、例えば光音天へ、あるいはそれを超えたマハー・ニルヴァーナの世界へと導く、そういう法を携えた救済者が現われます。そして、このときの救世主は、徳の高い魂以外救済しない。そして、どういう法を説くかというと、自浄の法を説く、自分自身を清めていく法を説きます。そして、これを後期大乗の人たちは馬鹿にし、ヒナヤーナと説いたと。
 しかし、実際にはこのヒナヤーナの中には、単純に個人の修行という意味だけではなく、自分自身が高い世界へ上がっていくためのデータというもの、これが含まれているわけです。ただ、この修行によってマハー・ニルヴァーナに入れる魂というものは、もともと高い世界の経験をしている魂しか入ることができません。
 つまり、創造の時期におけるヒナヤーナの修行と、それから維持の時期におけるヒナヤーナの修行と、それから破壊の時期におけるヒナヤーナの修行は、同じ修行をしていても魂の質によって結果が違うのたということをここで理解しなければなりません。
 そして、この下から上がってきた魂と、上から落ちてきた魂との交わり、これがどんどん起きる。そして、この中間のいろいろな階層ができてきて、維持の段階に入る。なぜ維持の段階に入れるのかというと、これは今の説明でもわかるとおり、いろいろなパートが誕生するからです。そして維持の段階で降りてくる魂は、救済者は、マハーヤーナ、大乗を説きます。そして、このときに与えるものは何かというと、繁栄・幸福というものを与えます。
 なぜ幸福というものを与えるかというと、これは維持中心の世界だからです。ということは、創造のときには自浄によって、小乗によって、清浄な修行によってその魂に何を与えるかというと、幸福・ピースを与えます。そして維持の時代のマハーヤーナの教えは、安定・繁栄、これを与えます。
 そしてこの時期は、最も宇宙秩序が安定している時代です。ですから、この時代には、生・死というものの一応区別はあるけれども、生に対して安定、死はあまり関係ないという意識が人の魂に根付きます。そしてこの安定において、どういう意識状態に魂がなるのかというと、どんどん物質的なものを求めるようになります。
 そしてそれを与える、これが繁栄、そしてその法こそが大乗の法だと言わなければなりません。
 そして、次に物質的に安定してくると、人の魂は、欲望、この欲望をどんどんどんどん満たそうとします。そして、第三期に現われる救世主は、その欲望を満たし得る救世主でなければなりません。そして、その欲望を満たしながら、高い世界へ上げる救世主でなければならない。そして、それだけではなく、その欲望から神秘的な力というものを与える救世主でなければならない。
 ここで登場するのがパワーです。力です。そして、ここで登場する修行法、これはタントラヤーナの修行法ということになる。そしてこれは、維持の終わりから破壊の初めの時期に登場する救済者、そしてこの時期には、必ずタントラヤーナの修行が中心になります。そして、人間の魂がもっともっとけがれ、そして第四期、破壊の直前になると、タントラヤーナの修行においても救済できない、そういう魂の世界が人間界に形成されます。
 ここで登場してくるのが、ヴァジラヤーナ、つまりフォース、力を使って、武力を使っての破壊です。なぜならば、この欲六界の、例えば地獄の世界、餓鬼の世界、動物の世界、人間の世界、阿修羅の世界、そして戯忘天の世界、これらの世界は一つ一つ役割があり、その心の働きによって形成されなければならないからである。ということは、例えば人間の世界が動物化したり、あるいは動物の世界が餓鬼化したりすると、その世界の形成バランスというものが崩れます。そして、その世界の形成をコントロールしている神々がいて、その神々がその秩序を元に戻そうとします。
 そして、こういう積み上げにより小乗、大乗、タントラ乗、そしてヴァジラ乗、ヴァジラヤーナといった四つの修行形態が存在し、これが、この四期と適合しているのだということを理解しなければならない。そして、この四期の教えはそれぞれ違います。では、なぜこの四期の教えが違うのだろうか。
 それは経験による違いからきている。つまり魂というものは、積まなくてもいい経験を多く積むことによりけがれ、その本質というものを見失い、そして正しくない方向に転生する。そして、この転生によって魂は苦しむ。そして、その苦しんだ背景すらわからないような状態になる。
 例えば、ここに一回異性と交わった者がいたとしよう。あるいは、五十回異性と交わった者がいたとしよう。この二つの経験は同じだろうかと考えたら、どうだろうか。当然、違うということができるだろう。じゃあ、例えばここに人がいて、一回フランス料理を食べたことがあるとしよう。あるいは、五十回フランス料理を食べたことがあるとしよう。これは同じだろうか、違うだろうか。一回の経験を消す修行法と五十回の経験を消す修行法は、同じであろうか、違うだろうか。
 そして創造の時期に、例えば人間界に降りた魂、この魂が自浄の修行、小乗の修行、清浄なる修行を聞き、それを実践し、そしてまたブラフマン、あるいはマハー・ニルヴァーナへ、あるいはニルヴァーナへと帰る。この魂と、維持の時期、この人間の世界まで落ち、それからものすごい長い間輪廻転生を繰り返し、この欲界の経験をしている魂、あるいは創造の時期、地獄から人問の世界まで上がり、そして徳を積んだり悪業を積んだりしながら、この六道を流転している魂、これらの魂の質というものは、同じだろうか違うだろうかということを考えなければなりません。
 もちろん、ここで考えなければならないことは、創造の時期の修行法によってこの欲界をぶち抜いて上がっていく魂、維持の時期の修行法によってこの欲界をぶち抜いて上がっていく魂、破壊の時期にこの欲界をぶち抜いて上がっていく魂、これは後半になればなるほど、どんどん上がりづらくなる。ということは、後半になればなるほど、どんどんシビアな、ハードな修行法が要求されることになります。
 ところが、私たちは一つの観念にとらわれがちである。二千五百年前、この方法でよかったわけだから、今もこの方法でいい。二千五百年前、この方法が真理だったわけだから、今もこの方法が真理である。確かに、二千五百年前の真理は真理でしょう。しかし、その真理が果たして今の時代に、私たちの魂をブラフマンの世界へジャンプさせるだけの力を持ち得るかどうかということを考えなければならない。
 そして、オウム真理教にはこの四乗が説かれています。一つは、自浄、清浄なる修行法である。第二は、人を繁栄に導く修行法である。第三は、マントラを唱え、そして欲望を昇華させる修行法である。そして第四は、いっさいの煩悩がたとえそこに生じたとしても、それに全く動かないような心を完成させるための修行法である。そして、魂の流転において、今、この時代を生き抜き、そして解脱をするためには、この四乗が必要なんだということを皆さんは理解しなければならないと思います。
 この四乗の考え方、あるいは宇宙の虚空から創造・維持・破壊といったこのプロセスの考え方、これを皆さんがきちんと理解するならば、何が真理で何が真理でないか、あるいは今の世の中がどのような方向に進んでいるのか、あるいは自分自身は何をなさなければならないのか、よく理解できるようになると思います。
 では最後に、なぜ人間がこの欲望の世界へ落ちるのかという話をして終わりにしましょう。
 人間の身体には六つのエネルギーをロスする放出口があります。それは、君たちもよく知っている、ムーラダーラ・チァクラ、スヴァディスターナ・チァクラ、マニプーラ・チァクラ、アナハタ・チァクラ、ヴイシュッダ・チァクラ、アージュニァーチァクラです。この六つは、漏、漏らす働きをしています。つまり、このチァクラを使うということは、それは言い方を換えれば、エネルギーを漏らすというふうに考えて結構です。
 例えば、心が怒りに支配されているとき、第一のチァクラを使います。例えば、心が貪りに支配されているとき、第二のチァクラを使います。例えば、心が無智に支配されているとき、第三のチァクラを使います。例えば、心が執着に支配されているとき、第四のチァクラを使います。例えば、心が闘争に支配されているとき、第五のチァクラを使います。例えば、心が自己満足の世界に支配されているとき、第六のチァクラを使います。
 あるいは、嗅覚にとらわれ匂いを追っかけているとき、第一のチァクラを使います。あるいは、味に執着しているとき、味の貪りに執着をしているとき、第二のチァクラを使います。あるいは、美しいものを追っかけているとき、視覚的なものにとらわれ追っかけているとき、第三のチァクラを使います。あるいは、身体の触覚的感覚に支配されているとき、第四のチァクラを使います。あるいは美しい音に支配されているとき、第五のチァクラを使います。あるいは、心に浮いてくるいろいろなイメージ、こういうものに支配されているとき、第六のチァクア使います。
 そして、このチァクラを使うということは、それぞれエネルギーを漏らしていると。そして、このエネルギーを漏らしているということは、ジャンプする力をなくしていると。そして、ジャンプする力をなくしているということは、低い世界へ落ちるんだというふうに考えてください。
 つまり、この六つのチァクラを完全に使いこなせるようになり、そしてそれに対していっさい頓着をしなくなった状態、その意識状態から離れた状態、これが解脱です。
 そしてそのとき、第七番目の門、サハスラーラの門が開き、そこから抜け出すことになるでしょう。そして、仏教ではこれを漏尽通、つまり漏らすことを尽くす状態、いっさい漏れのない状態、この状態を指します。そして、あなた方がこの六つのチァクラを完全にコントロールし、そして第七門を開き、自在に使えるようになったとき、今あなた方が抱えている苦悩から完全に解放されることになるでしょう。
 はい、それでは今日の講話はこれで終わります。


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