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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.108〜P.114)

第十五話(一九九○三月十三日 富士山総本部)

 今日は、少し強烈な話をしたいと思います。
 なぜわたしが、この強烈な話を今日行なおうとしているのかというと、これを行なうことによって、あなた方の修行の意味というもの、これをもう一度確認できるという意味があるからです。
 まあ、修行にはいろいろな段階があります。例えば、三悪趣に生まれたくないためと。例えば、解脱したいためと。例えば、天界へ行って、幸福な生活を送りたいためと。あるいは、多くの人々のために、多くの人々が本当の意味で自由で幸福な生活を送れるようになるためにといったような、いろいろな目的があって、ここに集まっている人たちは修行をしているはずです。
 そして、例えばその最終地点にある、「わたしは多くの人々のために修行をしているんだ」という人は、今日のわたしの講話は単に知識として受け入れればよろしい。しかし、もし修行の意義というものがわからず修行している人は、今日わたしの話す話の内容を問いて、十分にその真偽というものを検討してください。
 イエス・キリストが、みんなのカルマをしょって十字架にかけられたという話があります。まあわたしは、イエス・キリストが十字架をしょって殺されたというのは、あまり信じていない。なぜならば、その後の世界史の展開を見ると、精神性においては、よりいっそう悲惨なものになっているからである。
 しかし、カルマをしょうという行為そのものは成立するといえるでしょう。しかもそれは、第一天界や第二天界の生命体、つまり四天王衆天や、あるいは三十三天、あるいは天界の王といわれているインドラでも、そのカルマをしょうことはできないんだということを、ここにまずつけ加えておかなければならない。そして、人間界のカルマをしょうことのできるもの、それば夜摩天からである。
 では、なぜそういえるのかといったら、夜摩天はわたしたちを罰します。そして、ある者は地獄へ、ある者は餓鬼へと落とされると。でも、落とす裁きを行なう者、これは当然その生き物たちのカルマをしょわなければならない。あるいは、それに従事する獄卒たちは、当然そのカルマを受けなければならない。
 君たちも知ってのとおり、マハー・ケイマ正大師はたくさんのシャクティーパットを行ない、そしてたくさんのカルマをしょった。そして乱れた。例えばこれは、マハー・マーヤ正悟師、あるいはマイトレーヤ正悟師も、シークレット・ヨーガに集中し、相手のザンゲを受けるだけで、同じようにカルマをしょう。そして、今回マハー・ケイマ正大師、あるいはマハー・マーヤ正悟師、あるいはカーリー−−こういう子たち、つまりわたしの身近にいる人たちから、わたしはステージを引き上げようと考え、いろいろと修行させている。その修行の一つに「ヴァジラヤーナのザンゲ」がある。そして、わたしはあなた方と違い、容赦なく殴りつける。そして、わたしがカーリーを叩いた後の経験をまず話すことにしましょう。
 カーリーに対してヴァジラヤーナのザンゲを十四時間やらせたことがある。このときに、わたしは二時間指導をした。そして、そのうちの一時間は、ほとんど竹刀で力一杯お尻を殴りつけるという作業を繰り返した。彼女はほとんど蓮華座を組むこともできず、そして詞章を読むこともできなかった。そして、泣き続けた。
 ところが、三回目からは−−三回目から四時間に落として、自分でやらせたわけだけれどもね−−一人で蓮華座を組み、四時間集中し続け、ヴァジラヤーナのザンゲを続けた。そして、わたしはどうなったかというと、叩いた後、そのまま内熱が出−−内熱というのは、ナーディーに詰まりが起きて生ずるものだが−−その熱によって一日苦しんだ。しかし、まあ今まだ少し残ってはいるけれども、マントラ瞑想、あるいは思索をすることによって、抜け出すことができた。ということは、カーリーのカルマがわたしに移ったんだということだ。
 そして、そのカーリーの乱れをなしていたエネルギーというのは、…大師のエネルギーであった。まあその内容についてここで深く触れられないのは残念だけれども、そのエネルギーによってカーリーの下位のチァクラが開き、そして下位の世界とつながっていたがために、カーリーに瞑想ができない状態、そして完全に乱れた状態が生じていた。
 今、私はオウム真理教に対して行なわれている、呪詛を含めたいろいろなエネルギーを一つ一つ切っています。そしてそのためには、まずステージの高いといわれている人−−マハー・ケイマ正大師、マハー・マーヤ正悟師、マイトレーヤ正悟師、あるいは家族あたりから、集中的にエネルギーを変えていくこと、心の状態を変化させていくことが先決だと考え、それにかかりきりになっている。
 そして今、わたしがこの比喩をあなた方に提示した理由というものは、なぜわたしだけが−−まあその他に叩いた人たちもいるわけだけれどもね−−カーリーを担当して、なぜわたしだけがその日にカルマが返ってきたかと。それは、わたしのステージが低いから返ってきたのだろうか。それとも、わたしの苦の総量が限界点に達しているから返ってきたのだろうか。それとも、わたしの器が小さいから返ってきたのたろうか。これは、そうではないといえる。
 つまり、凡夫であればあるほど、そのカルマの返りは遅いということがいえると。なぜならば、あなた方も知ってのとおり、人間を構成する三つの要素、ラジャス・タマス・サットヴァの中で、無智を構成しているもの、これはタマスである。そして、これは現象を遅らせる働きがある。それは知っているね。どうですか。そして、修行者になり、特にザンゲの瞑想その他を行なうことにより、現象が早く返り、そしてそのカルマの返る比というものは拡大されず、一対一、あるいは一対○・一といったようなかたちで返るようになる。それもわかるね。早く返れば返るほど、そのカルマというものは早く清算される。これはわかるね。そして、その状態を自分の中で体得すると、カルマの実体というもの、そして何をなせば救済することができ、何をなさなければ救済できないのかという実感を持つことができるようになります。
 そして、そのわたしの経験、それから瞑想体験から、あなた方に地獄というものがどのような形で形成されているのかについて、これから少し話をしたいと思います。
 まず、仏典ではどのような記述があるだろうかと考えた場合、あなた方も知ってのとおり、三叉の矛で、両足そして肛門から突き刺され、火であぶられる。あるいは、針の上を歩かされる。あるいは、熱い鉄板の上を歩かされる。あるいは、鍋の中にものすごく沸騰したお湯が入っていて、その中で煮られる。あるいは、切り裂かれるといったような記述があるのを知っているだろう。どうだ、これは。
 そして、この地獄そのものは、二千五百年前の地獄であるというふうに理解しなさい。それは、こういう理由からだ。この欲六界を構成しているもののデータというものは、どうだ、コーザルの世界に存在しているといえないか。ということは、今の世界を投影するならば、そしてわたしたちのなしたことを検討するならば、地獄というものは、形が変わって当然だね。どうだ。二千五百年前に、果たして電子レンジがあっただろうか。あるいは、二千五百年前に殺虫剤があっただろうか。よく考えてみよう。
 まず二千五百年前の調理法、例えばこれは、貝類などは今と同じように生きたまま放り込み、煮るだろう。どうだ。ということは、これと釜ゆでの刑というものは、全く矛盾しない因と果ではないか。どうだそれは。あるいは、生きたまま串刺しにして焼くという作業、これを行なうだろう。こういう食べ方もあるよね、どうだ。あるいは、生きたままの魚を活け作りと称して切り裂き、そしてそれを食べる。どうだ、これは。あるいは、生きたままのエビの皮をむき、そして−−あれは少し酒につけるのかな−−それを口に放り込み、そのピンピンとしたエビの動きを舌で楽しみ、食べる。どうだ、これは。あるいは、生きたままのものを鉄板で焼く。どうだこれは。
 ここらへんは、今も二千五百年前もあってもおかしくないね。どうだ。そして、当然カルマは一に対して一返るわけだから、その地獄の表現というものが、同じようなかたちで表現されたとしてもおかしくはないよね。だとするならば、この地獄の記述というものは正しいと考えていいんじゃないか。どうだ。
 では、現代の地獄はどうだろうか。
 例えば、生き物に対して爆竹を突っ込み、火を付け、爆破させる。こういう殺生をした人もいる。まあこの中にもいるだろう。どうだ。こういう人たちの行く地獄はどういう地獄だ。獄卒が肛門にダイナマイトを打ち込み、火を付け、爆破させる。
 例えば、堕胎はどうだ。堕胎は子宮に棒を突っ込み、胎児をぐじゃぐじゃにして引き出す。これはちょうど、地獄も科学が進んでいるだろうから、きっとミキサーの中に放り込まれ、ぐじゃぐじゃにされ、殺されると。あるいは、まだ時代遅れであるならば、すり鉢かもしれない。どうだ。
 例えば、「シュッとひと吹きキンチョール」と。殺虫剤によって虫を殺す。その殺虫剤によって死ぬときの虫の苦しみを考えたならば、どうだ。同じように、獄卒にシュッとひと吹きされて、もがきながら死んでいく。それを何度も繰り返さなくてはならない。どうだ。
 そして、君たちは自己の過去を振り返りなさい。自己の過去において、そういうカルマをなしたことがあるのかどうかを検討しなさい。しかもそれは、心の単純なる喜びとして、弱いものを虐待する心の働きとして経験したのだということを考えなければならない。
 そして、今の世の中は、よりいっそう物質化し、生と死というものの区別をはっきりとつけ、自分たちとはいっさい関係ないようなかたちで社会を運営していこうとしている。その典型的な例が、あなた方も知ってのとおり、日本人のほとんどの人が病院で死ぬということだ。そして、断末魔の苦しみというものを見ることができないということだ。
 私は地獄を見たことがある。地獄を経験したことがある。そして、実際にこの世において、弟子たちを心を込めて叩くことによって、そのカルマが体に返ってくる。
 では、麻原の言っているとおり、行為のカルマというもの、この行為のカルマというものが返ってくるんだったら、ヴァジラヤーナの考え方と矛盾するではないかと、叩かない方がいいではないかと考える人もいるかもしれない。そこは逆に心の問題である。私は思念をしながら叩いている。修行しろよと。そして魂を成熟させろよと。早く今の状態を乗り越えろよと。そして、叩く。当然、わたしの体にそのカルマは返ってくる。しかし、それによって相手は確実に、先程も言ったとおり、たったの二日間で、ほとんど座れなかったカーリーが四時間連続で蓮華座を組み−−まあ組み替え、組み替えではあるけれども−−組み続け、詞章を休むことなく唱え続けられるようになった。そしてそれだけではなく、オウム真理教にかけられている呪詛、これが少しずつ少しずつ弱まってきている。そしてそれだけではなく、わたし自体が、どんどんどんどん瞑想しやすくなってきている。これは何を意味しているかと。肉体は確かにカルマを受けた。しかし、心はそれによって、よりいっそう目的を完遂できるようになってきているということである。
 しかし、凡夫は自己のことしか考えることができない。目先のことしか考えることができない。よって、凡夫である以上、例えば愛を持って罰することもできないし、叩くこともできないし、殺すこともできない。よって地獄に落ち、その地獄の苦しみというものは、何ら彼らの精神的成長にとってプラスになるものではないだろう。それは、第三天界の夜摩天も、同じようにただ裁くことしか考えていないからである。
 わたしがここであなた方に今何を言いたいか。最低三悪趣にだけは生まれないようにしなければならない。そして、そのために修行があるんだということを理解しなければならない。できたら、本当の意味での解脱をしなければならない。なぜならば、いかに高い世界に生まれ変わったとしても、その高い世界において真理に巡り合える確率が果たして何パーセントあるか、それは疑問だからである。どんなに功徳を積んでいたとしても、それは、例えば百億円あろうと一千億円あろうと、そのお金に利息が付かず、日々使っていれば、必ずいつかはなくなってしまうのと同しである。そして、隠されている三悪趣への道に必ず落ちることになる。
 そしてわたしは、よく修行から現世に帰ることを“落ちる”という言葉を使っている。そして、『南伝大蔵教』においても、仏陀釈迦牟尼は、「下向」−−下へ向かう、つまり“落ちる”と同じ意味の言葉を使っているということだ。そしてここにおいても、同じように親族が反対し、現世へ引き戻そうとする。そして、あらゆることが行々われた。今の時代は、そんな状態の比ではない。そして、わたしはそれについて、大変いいことだと考えている。なぜならば、わたしに最後の一つの選択しか与えてくれなくなったからだ。
 タントラ・ヴァジラヤーナにおいて、四つの選択肢かある。第一は、相手を幸福にする、そのための修行法を伝授するということだ。第二は、相手に繁栄を与える、そのための修行法を伝授するということだ。そして、第三と第四をここで話せないことは残念だが、四つの選択肢があるということだ。
 君たちは、少なくとも三悪趣に落ちないように。そして、解脱をし、この欲界の苦悩から解放され、そして、本当の意味での自由・幸福を味わっていただきたいと考えています。
 それからもう一つ、なぜ蓮華座を組まなければならないのか、あるいは、なぜ達人座を組まなければならないのかについて、一つここで注意をしておきたい。それは、わたしたちの心の働きと、それからプラーナとは、切っても切り離せない関係があります。そして、この切っても切り離せない関係、それから逆に、心を下に下けないために座法があるのだということを理解すれば、蓮華座を深く組む必要性というものを理解できるようになるだろう。例えば、Uがいつまで経っても動物から抜け出せないのは、蓮華座が組めないからだということもいえないことはない。なぜならば、深く座法を組むことにより、その血液の流れ、そしてプラーナがストップします。ということは、アパーナ気が動かない状態が出てくると。ということは、上の気を働かせるようになると。それによって、意識状態は高みにとどまると。あるいは達人座の場合、特別な座り方があるわけだけれど、その座り方によってプラーナが完全に固定されてしまい、アパーナ気が働かなくなる。それによって、同じように、プラーナが下向しないというような状態になる。よって、座法というものは最も大切なんだということを、ここでもう一度認識しなければならない。いいね。
 今日、わたしが地獄の話をしたのは、この現世においても、君たちの意識状態が鮮明になれば、カルマの法則というものが理解できるということを話したかったからである。そして、地獄というものは、きちんと存在しているんだということを話したかったからである。この現象界は、心の働きも含めて、物理的な法則で成り立っていると理解してよろしい。


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