TOPヴァジラヤーナコース教学システム>内容

●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.103〜P.107)

第十四話(一九九○年三月十一日 富士山総本部)

 今、日本においてオウム真理教は徹底的なサンドバックの状態になっている。なぜ、オウム真理教がそのサンドバックの対象にならなければならないのか。これに対しては、いろんな考え方がある。わたしはどう考えているかというと、やはり『ヨハネの黙示録』に出てくる、そして『ノストラダムスの大予言』に出てくる教団であるから当然だろうと。
 君たちも、もう知っているかもしれないが、ワシントンに、一九九○年、今年だね、ものすごい巨額な費用をかけて、ユダヤ人がナチス・ドイツに虐殺された、そのための記念館を造るということだ。−−まあ、実際に九○年にできるという話だけれどもね−−という話の内容を読んだことがある。
 いよいよユダヤ人−−フリーメーソンが登場し出したなと、表面に出てきたなと、これがわたしの印象です。そして、オウム真理教に対する彼らのバッシングの狙いは、オウム真理教を崩壊させること、あるいはオウム真理教を従わせることにあると。しかし、本来真理というものは、たかだか人間が、あるいはたかだか組織が、その真理をねじ曲げたとしても、そのカルマの法則に対して何ら影響することのできないというのが実態である。君たちも知っているとおり、戦前の大本教、そして戦後しばらくの生長の家、大本教は最後まで今の国体とぶつかり合ったがために、大きくなることはできなかった。生長の家は三十年代前半、あるいは二十年代の後半ともいわれているけれども、昭和の二十年代の後半、三十年代の前半に妥協したがために大教団にのし上がった。そして、彼らの得たものは、金であり、組織の大きさであり、そしてまあ、誉れ、名誉であると。
 わたしは、いっさいのものを必要としていない。いっさいのものとは何か。それは名誉である。それは金である。それは地位であると。わたしが今ここに存在しているのは、すべての魂がいつの日か必ずマハー・ニルヴァーナに入るためである。そして、それをなさせること、これがわたしの使命だと考えています。
 オウム真理教にとって、九○年代の日本で生き抜くことは至難の技でしょう。しかし、この至難の技を乗り切れるという予言の内容がある以上、乗り切らなければならない。そして、新しい光音天へ向かう地球づくりをしなければならない。
 まだ君たちは、たった四百人の団体で何ができるんだと考えているかもしれません。しかし、わたしは皆さんに、最終解脱者であると自称している。そして、これは言い方を換えれば、君たちが考えている、一般の頭脳労働とわたしの思索とには、大きなズレがあるんだということを理解しなければならない。今、わたしはじっと待っている。何を待っているのか。それは、この日本を動かしている人たちが、大悪業のぶどうの房をどんどん付けることである。そして、それは必ず落とし、ぶどう酒にし、返さなければならない。
 新しいわたしの内弟子は、このような話を聞いたとしても、ピンとこないかもしれない。それについては、自分自身がいかに教学不足かということを考えればよろしい。まあ、その全体的な話は別として、今日は、一つ瞑想について、禅定について、君たちに話をしたいと思います。
 禅定というものは、海底に潜る潜水のようなものであると考えたらよろしい。これはどういうことかというと、まず第一には、深く潜ること、これは大変難しいと。そして、第二には、深く潜るためには、時間がかかるということである。例えば、ここに潜水夫がいて、その潜水夫が一時間で潜れる分、海底に潜ったとする。そして、その人は上がってきたと。一回目、その人は一時間で潜れる海底の景色を眺めてきた。この人が同じように、一時間の瞑想を二回、三回、つまり、一時間の潜りを、二回、三回、あるいは四回と行なったとして、確かに一時間で潜れる範囲内、一時間で潜れる世界については熟知するようになるだろう。これはどうだね、君たち。わかりますか、わたしの言っていることは。
 しかし、彼は一時間以降、つまり二時間、あるいは三時間、あるいは四時間深く潜ることは、当然経験していないわけだから、その世界について言及することはできない。これはどうだ。瞑想の時間がなぜ長くなければならないかというのは、そこに起因している。つまり、深く潜るためには、それだけ時間が必要なんだということだ。そして、その深く潜ることによって、自分自身の内側、本当の自分自身を見いだすことができる。
 君たちの真我と、それから心は、嵐の海とその海底に沈んでいるダイヤモンドのようなものであると表現することができる。当然、渦巻いた海だから、グイヤモンドがどこにあるのか見いだすことはできない。そして例えば、到達するのに十二時間かかるとして、十一時間まで何度潜ったとしても、そのダイヤモンドに到達することはできない。これは、わかるかな。もちろん、十一時間までの距離、十二分の十一までの距離については、熟知できよう、何度も何度も行なっていたら。しかし、それより深い自己というものに到達することはできないということだ。わかりますか。
 ということは、ロングの瞑想、深い瞑想、これを行なわなければならない意義というものが理解できよう。そして、わたしが立位礼拝を連続で行なわせる、あるいはヴァジラヤーナのザンゲを連続で行なわせる理由は、そこにあるということだ。早く自己に到達するためには、確かに濁り水がいろいろあるかもしれないが、その濁り水を、集中して、濁り水を何度も何度も経験し、ここから先はちょっと危険だぞと、ここから先は雑念状態になるぞと、あるいはここから先はしばらくは透明な状態があると、しかしこの透明な状態は、まだ本質ではないと、この後、もう一回濁りがきて、そして最終地点に到達するんだと。このような形で瞑想を進めることかできるならば、必ずや真我と真我の本質というものを得ることができるだろう。だから、わたしは君たちに長い集中をしなさいと話をするんだ。どんなにつらくても、どんなに痛くても、長い集中をしなさいと。そして、長い集中を行なうことにより、結果が出てくるんだということだ。
 では次に、姿勢について話をしたいと思う。なぜ蓮華座を組み、腰を入れ、一本の棒のように、大地を頭で支えるように座らせるのかと。これは、君たちも経験したことがあると思うが、ムーラダーラ・チァクラからサハスラーラに向けて、エネルギーが上昇する。そして、そのムーラダーラから−−集中して−−ムーラダーラから、サハスラーラに向けてエネルギーが集中する際に、例えば体が曲がっていると、そこでエネルギーが引っかかる。すると、その引っかかった部分の経験を豊富にしなければならない。わたしたちに本質的に必要なもの、それはサハスラーラの経験である。だから、その途中の経験は、なくてもいいわけだね。早く、その状態にエネルギーを集中させること、これがポイントであるわけだ。よって、蓮華座を組み、腰を入れ、エネルギーが速やかに上昇できるように行なう。
 では、なぜ、次に蓮華座が必要なのかと。これは、アパーナ気の制御であると。そして、地獄に至る、下に向かうナーディーの制御であるということができる。座法を組むと痛い。血流の流れが阻害される。それと同時に、プラーナも制御される。ということは、下に行く気、下に行くエネルギーが少なくなり、そして上に行くエネルギーが多くなるということかいえる。そして、これをきちんと行なうことにより、君たちが目的としている解脱、最終の解脱までのスピードを速めるということだ。
 つまり、経験にとって最も必要なもの、それはサハスラーラの経験である。この二つについて押さえておかないと、なかなか瞑想か深くならない。例えば、腰を曲げ、例えば座法を組まないで−−もちろん解脱に対する修行でなければ、それもいいと思います。しかし、解脱に対する修行、自己を完成させていくための修行である限り、厳しい座法、腰を入れる、そしてサハスラーラに向けてエネルギーを上げる、集中力を持続させ、できるだけ長い時間瞑想し続けて、五日、あるいは一週間、連続で瞑想ができれば、最高だろうね。そして君たちは、大変徳の高い人たちだから、その期間が与えられている。わたしはうらやましいと思います。
 はい、では、もう一度今日のね、特に後半の復習、これをしましょう。つまり、瞑想というものは、潜水のようなものである。そして、短い時間の瞑想をいくら何度もやったとしても、それは心の本質には到達しない。ただ、心の浅い部分については、熱知するようになる。深い瞑想を何度も何度もやることにより、深く潜れるようになり、そして自己の本質がわかるようになる。そして、最も長い、真我に到達するだけの深い瞑想を行なうと、自己の本質というものを理解できるようになる。そして、これか、瞑想の目的であると。
 そして、もう一つは、座法の問題。厳しい座法を組み、下にエネルギーが降りないようにし、上にエネルギーを上げるようにし、背筋をピンと立て、エネルギーがサハスラーラまで一気に上昇するように座る。これは、最も合理的な座法であるということができる。君たちは、こういう経験をしたことがあるはずだ。それは、たくさんのものを食べると性欲が強くなると。食事が少ないと性欲が弱ると。あるいは、性エネルギーを漏らし続けると、漏らしたくなると。これは、同じ理論だ。つまり、たくさんのものを食べると、サマーナ気、アパーナ気と、どんどん下の気を使うようになる。性エネルギーを漏らすと、同じように下の気を使うようになる。だから、その気のコントロールができないと、エネルギーはどんどん下がるようになる。
 そして、早く、君たちが自己の完成をすることを祈って、今日の講話の終了としたい。


ヴァジラヤーナ教学TOPに戻る

TOPに戻る