特別対談 ビートたけし 麻原彰晃(集英社「Bart」1992.6.22号)

バブルの後に来るのは、ストイシズムのエクスタシーしかない


相思相愛のふたりが、ついに念願叶い思いゆくまで言葉を戦わせた。 互いにインスピレーションでひかれ合ったというふたりだが、共通点 は何か。それは「バブルを経験した」ということだろう。ビートた けしには”漫才ブーム”があり、麻原彰晃そしてオウム真理教は、昨 年日本を席巻した”新宗教ブーム”の洗礼を受けた。それはバブル。 そのバブルはあえなく崩壊した。生き残ったふたるには何があったの か。バブルの膨張する力に負けない求心力。そしてストイックに自分 を見据える力。異端と呼ばれることをおそれぬ勇気。これが彼らの共 通点であり、勝因ではないか。ふたりは「ただ自分の気持ちいいこと をやってきただけ」というだろう。しかし、日本が経験したバブルの 波のなかでもっとも醜悪だったのは、「自分の気持ちいいこと」を見 つけられずに金と物質に踊らされた人々だ。ふたりに語ってもらおう。 バブル崩壊後に我々が見つけるべき本当の快感を。環境を破壊せずに、 隣人を傷つけずに得られる本当の「歓喜」があるはずだ。それは、ス トイシズムのエクスタシー。
 91年12月30日放送のテレビ朝日系『TVタックル』で、ふたりの最初の
出会いがあった。テレビという制約のなか、わずか5分程度の会談では
あった。しかし、たけしは「自殺するつもりだった」といった心情を吐露
し、その会話に我々は、不思議なまでの奥行きの深さを感じた。それは、
ふたりが初対面なのに、まるで大昔からの知り合いのように映ったから
だろうか。ふたりは、「また。今度はもっとゆっくり話しましょう」と言っ
て別れ、ここで再会を果たした。

−−たけしさんの、麻原さんあるいはオウム真理教に対する発言や書かれたもの
を見ると、何か生理的な好感を持たれているような気がするんです。下世話な比
較ですが、例の大川隆法さんよりも、麻原さんのほうに通じ合う部分が多いとい
うか、そんな印象を受けるんです。

たけし そうだね。生理的な好き嫌いというのは、軽くみられがちだけど、じつ
はかなり本質の部分じやないかな。瞬間的な判断というか、いちばん最初に出て
くるものだからこそ、いちばん当たっているような気がするんですよ。

麻原 たとえば結婚なんて、生理的な好き嫌いというかインスピレーションでほ
とんどが決まつてしまうわけでしょう。私も、生理的な部分というのは本質だと
思います。要するに、頭で考えるよりも深い意識状態での選択ですからね。

−−生理的にインスピレーションでひかれ合うというのは、仏教でいう「因縁」
なども閑係してくるわけですか?

麻原 というより、因縁そのものだと思います。たとえば美女が何人もいて、そ
のなかから自分の好みの美女を選ぶという場合を考えてください。そういう場合
はやはり、自分の過去の経験とか、あるいは「過去世」での自分の経験に基づい
て選択しているわけですよ。芸能界を見ても、大変な美人がたくさんいるわけで
すが、そのなかで人気の出る人もいれば出ない人もいる。山口百恵なんて、決し
て絶対的な美人じやないのに、あれほどの人気を得たわけです。過去あるいは過
去世において縁があったからこそ、直観的にお互いのことがわかる。そして、ひ
かれ合うわけです。

ボランティアするより、捨てることに恵味がある

−−麻原さんは著書の中で「この世の現象はすべて無常を根本としている」と書 かれていますよね。宗教というと、愛とか何とか、ウエットなものを説くという イメージがあるのに、その出発点は「無常」であると。一方、たけしさんのテレ ビなどでの活動にも、人間の知性というのは「人間は根本的に理論や知性では片 づけられない」という認識の上に立つべきだ、という主張があるように思えるん です。そのあたりでも、共鳴する部分があったのではないでしょうか? たけし うん。以前に変な絵を見たことがあってね。飢えた虎の前に身を投げ出 している絵なんですけど、それを見たときに「これだ」という気がしたんです。相 手は虎ですからね。食べられちやうわけですよ。普通は、虎に自分の身を投げ出し て食わしてしまうことによって何か評価を得たいと思ぅわけでしょう? 自分を 犠牲にして人を救ったとか。ところが、あの絵はただ、いきなり身を投げ出して いるだけなんだよね。その行為に意味を持たせていない。やっぱり人に奉仕してい ると思うこと自体、ちょっとインチキ臭いですよ。目の前に飢えた虎がいて、自 分の体を投げ出して、ただそれだけというほうが本当のような気がするな。 麻原 今おっしやった虎の話は、お釈迦さまが仏陀となるために、過去世から連 続と続けてきた修行について記述した『ジャータカ』とよばれる輪廻転生談のひと つです。体を投げ出すことによって称賛を得るよりも、捨てること、体を布施す ることそのものに意味があるという教えです。これは、仏教の世界で最高の悟り を求める場合に行われることで、たけしさんの言っていることは、まさにそのと おりだと思います。 たけし そこらへんをもっと、麻原さんに聞いてみたかったんですよ。たとえば 他人に小遭いをやったり部屋代を払ってやったり、自分の稼いだ金でいろんな人 の面倒をみている人がいますよねえ。そこには快感があると思うんですよ。人の 面倒をみてやってるんだという快感。でも、快感なんだから、それを捨てる勇気 もあると思うんです。面倒をみてもらってる人は困るだろうけども、その勇気に は、そういったものをスッ飛ばすだけの価値があるんじやないかと。ボランティ アの人なんか、世間から偉いと害われるけど、逆にそれをやらない勇気というの もあるような気がするんですね。 麻原 ふたつの考え方があると思います。ひとつは多くの人の面倒をみ、世話をす る。そのことによって神々の世界に入っていこうという考え方。これが仏教の考 え方です。もうひとつは、じっと観察する立場。これは、周りの世話をすること によって生じる歓喜とか、欲望とか、そういったものから離れるということです。 このふたつの、どちらが偉大かというのは難しい問題です。どこに価値観を置く かということで、愛欲の世界に価値を見いだすか、そこから離れたものに価値を 見いだすかということですから。ただ、最終的に解脱をして自我を超えた存在に なるということは、たけしさんの言うように観察する状態に入るわけですから。 それを偉大だとしても、それはそれで正しいと思います。 たけし どうしても、快感を得ることが罪のような気がして。だから人に奉仕し たり慈善事業なんかで快感を得るよりは、何もしないはうが、まだいい気がするん です。餓死しかけている子供がいて、その子に手を差しのべるというのと正面か ら見据えることを比べると、正視するほうが落ち込むわけですよ。ボランティア の人たちって、ほら、やたら元気で落ち込むのが嫌いな人たちでしょう? ボラ ンティアって、そういう貧しい子供なんかを見たくないというところからスター トしているような気がするんです。現実を見据える勇気がないというか、ね。 麻原 現実を直視するというのは、まさに仏教の考え方ですね。仏典の中にもこ ういう話がありますよ。お釈迦さまの弟子で、たいそう美しい娼婦に恋をした者 がいた。この娼婦が死んだとき、お釈迦さまはその弟子を連れていき、「ほら、こ こにお前の愛した娼婦がいる。これを抱いて、持って帰りなさい」と言ったんで す。つまり、現実を直視せよと。仏教では、まず肉体の不浄を認識するための瞑 想を行います。これはどういう瞑想かというと、現代でいう解剖学と同じです。 美しい髪の毛があって、その下には頭皮があって、そこには血管が走っていて、 そのさらに下には剥き出しの頭蓋骨がある。それを観想させるんです。それによ つて、たとえば異性の肉体に対する誤った考え、幻想を捨断するわけです。 −−たとえば画家が貧しい子供を目の前にしたときには、その子にパンをあげる ことと、もうひとつ、その姿を画布に塗り込めるという遵択があるわけですよね。 たけし 俺も画家だとしたら絵を描くだろうけど、それは、パンをあげるよりも はるかに葛藤するだろうね。心の中でどれだけ戦うかということで、精神的なス タミナが必要になる。でも、そこから逃げると、自分の心はガラガラと負け続け ることになるわけで。それで一生懸命あらゆることを考えて、結局、その子を見 る、ということになると思うんです。 麻原 そういう意味では宗教家は楽ですね。宗教家というのは、パンを与えなが ら、なぜ今、そういう状況に陥ったかを話してあげればいい。つまり、生き方を 変える方向で教えを説きながら、パンを与えればいいわけです。これはまさに、 俗に言うところの「カッコイイこと」ですから、すごく楽なんです。

セックスより気持ちいい本当の「歓喜」を追い求める

たけし 麻原さんを見ていると、ちょつと失礼な言い方かもしれないけど、宗教 家として大成するとか神になることを考えると、普通の人よりも数倍速いところ から出発している気がするんですよ。もっと言えば、宗教からいちばん遠い人の ような気もする。非常に科学的でもあるし。いちばん反宗教的なところから来た 人のような。数学でいえば、普通の人が0からはじめるところを、マイナス10か らプラス10に向かって突進しているような。でも、その速いところから努力して きたからこそ、凄い力を使えるような気もするんですよね。努力の過程が我々と は違う気がするんです。 −−科学的ということで言えば、オウムがやっている水中の修行も、テレビでバ カにしたような発言をした人もいますが、科学に則してますよね。酸素が不足すれ ば脳はフル回転するわけですから。ラッシュしている最中のボクサーも、数学の 離問に取り組んでいる高校生も、息を止めているわけですよ。 麻原 たしかに、私はもともと反宗教的というか、さまざまな現象に対してその 真理を確かめながら生きていくタイプですから。そういう意味ではマイナス10か らプラス10に突進しているというのは正しいと思います。でも逆に、マイナス10 の苦しみを知っているから、今そこにいる人たちに対して、早くそこから脱して ほしいという気持ちになるんだと思います。はじめからプラス8とか9とか、い い状態に馴れていらっしやる方は、苦しんでいる人のことが理解できないんじや ないでしょうか。私の眼は、3年半ぐらい前から視力を完全に失ったんですが、 そのとき、私は大変喜びましたね。肉体の苦しみを経験できているわけだから、 それを嬉しいと考えられれば最高じやないでしょうか。 たけし 俺はいつも「振り子、振り子」って言うんですよ。マイナス10まで振れ ないヤツはプラス10までいけないと。はじめにマイナス2までしか振れないヤツ は、プラスにいつても、やっばり2までしかいけない。だから、お笑いの仕事がマ イナスだとは言わないけども、お笑いで10の仕事ができればシリアスな芝居でも 10のことができるんじやないかと思うんです。だから俺はお笑いをやめない。どう も、片方ばっかりやると振り子みたいな振幅ができない気がしでね。生きている なかでも、昔だったら耐えられないような嫌なことがあっても、今はわりかし耐 えられてしまう。「ひでえなあ」と思っても、絶対にその逆もあると思うからです。 麻原 仏教の修行のなかにも「忍辱」という段階があります。「忍辱」というのは、 要するに罵倒されるとか、あるいは嘲笑されるような状態のことです。その修行を 積んでいけば、最終的には、たとえば自分の肉体を傷つけられたとしても、それ に対してまったく心を動揺させることなく、相手に慈愛を持つことができる。た とえば、たけしさんの仕事でも、称賛する人もいれば批判する人もいるでしょう。 そういうときに、逆に批判きれることに対する訓練をなさることが、仏教でいう 忍辱の修行になるんじやないでしょうか。私なんかも、いろいろなテレビ局から出 演の依頼がきますが、なかにはからかい半分のところもあるわけですよ。「あそこ はあなたを騙そうとしている」とアドバイスしてくれる人もいますが、払は出て みる。すると、画面に登場じした瞬間から、徹底的に罵倒されるわけです。私は、そ れが嬉しい。テレビの両面を通じて日本国民の前で映像として罵倒される。これ 以上の仏教的修行はありませんよ。よく、ひどいことを言われているのに麻原彰晃 は微笑んでいると舌う人もいますが、あれは微笑みでなく、歓喜の表情です。 −−今、「歓喜」という表現を使われました。歓喜とか快感ということで言えば、 オウム真理教はセックスに対して禁欲的なわけですけども、逆にいうと、セック スよりも気持ちいいことを純粋に追求しているんじやないかと思うんです。 麻原 それはそのとおりです。セックスで得る快感というのは、たとえるならば 貯金を使っているようなものですから。使えば、どんどん減っていく。ところが逆 に、使わないで溜めていくとどうなるかというと、ある段階で、貯金が減らずに、 永久運動のように快感・歓喜が体全体を巡りだす状態がきます。そういう意味で も、純粋に歓喜を追求するというのは正しいことだと思いますね。これはインド −−ヨーロッパ・クループに属するすべての宗教が追求していることでもあります。 たけし 俺もセックスは、しないわけないんで、してるんだけども、セックス以 上の快楽をもたらす精神状態があるというのはわかる。コリン・ウィルソンなんか を読んでも同じことを言ってますよね。セックスの気持ちよさというのも、しょ せん精神で感じるものだから。自分も昔、松竹演芸場なんかで漫才やって非常に ウケたとき、あっ、これはセックスより全然いいと思ったこともありますし。結 局、感じるのはすべて精神なんだと思いますよ。だから、本当の快感を得るため には、精神のコントロールが大事になってくると思います。でも性欲というのは 強いからね。そうは思いながらも俺なんか、ついフラフラと”おねえちやん”の ところに行っちやう。 麻原 でも、仏教の世界でも、出家したらいけないけども、在家の場合は、綺麗 な女性がいたら、それに近づいてはいけないということはないんですよ。人妻は いけないけども、それ以外は大丈夫です。 −−男性が結婚していても? 麻原 そうです。 たけし ほっとしたりして(笑)。 −−やっばり人間というのは、表面的には苦しいことをやっているように見えて も、無意識のうちに気持ちいいことを選択しているような気がしますね。非常に 乱暴な言い方になってしまうけども、戦争に行って死んだ人も、深層意識の部分 では、行きたいから行ったという見方もできると思うんですが。 たけし そうだと思いますね。選択の自由というのは、常に危険と背中合わせの ものですから。たとえば殺すことと殺さないことを選択するとしで、神さまに怒 られそうだからといって殺さないほうを選ぶのは、神に対して自由ではなくなっ ているわけでしょう。自由のなかで生きていれば、悪いことからの誘いもあるし、 いろいろなことがあるわけですよ。逆に、そういう誘いや迷いがない世界を作って くださいと神さまにお願いするのは、今度は自分の精神に対して自由ではないわ けでね。だから、そういうところで生きていくしかないと思うんですよ。人間は、 進化してると言われてるけども、俺は進化なんかしてないと思う。まだまだ自分 をコントロールできてないんだもの。自分を自分でコントロールできるようにな るというのは、俺にとつては最高の夢なんですよ。自分の病気は自分で治すとか、 欲望をコントロールするとか。みんな、それをしないで、むしろ退化した部分も あると思う。それが機械であり、文明ですよ。自分をコントロールする代わりに、 コントロールできる自軌車やコンピュータを作ってきて、その弊害が今、出てい るわけでしょう? 地球の環境問題なんか、人間が自分自身をコントロールでき れば、すぐに解決できることですよ。 麻原 私の経験でこういうことがありました。瞑想の最中に、チベットにいます私 の師匠が出てきまして、「ありがとう、ありがとう」と言うんです。これは何かあっ たなと思いまして、すぐに弟子を連れて日本をたった。チベットに着いてみると、 師匠は亡くなっていました。ところが、そのことを知らせるための電報は、まだ 日本には着いていないはずだと、チベットのお弟子さんたちがピックリしている わけです。つまり、何が言いたいかというと、現代文明はたしかに便利さを提供し ているけども、その反面で、その便利さを提供する機械がなければ人間は何もでき ないようになってしまつた、ということです。人間は元来、機械なんかがなくても 幸せになれる資質を持っているのに.....。 たけし 物理の世界では「光がいちばん速い」と言われますよね。最近は光より 速い物質も見つかったんだっけ? でも俺は、人間の意識のほうが速いと思ぅ。 だって「ニューヨーク!」と思ったら、その瞬間にニューヨークを意識できるわ けですよ。飛行機で行けば10数時間かかるし、光でも0.05秒ぐらいかかる。やっ ばり人間の意識が最高だと思うね。 麻原 私たちは瞑想によって過去や未来を見るわけですが、これも意識が光より 速いからこそ、できることですよ。アインシュタインが相対性理論で説いたとお りです。こんな最高の乗り物を持っているのに、人間はまだ、それに気づかずに 一生懸命、罪悪をエンジョイしている。本当にもったいないことです。

お笑いは2番目、本当に好きなのは精神世界

−−そろそろ、テレビでおっしやった「あと5年で自殺するか引退」という言葉の 真意を開きたいのですが......。 たけし まあ、自殺する気はなくなりましたけどね。5年ぐらい前までは、死ぬ ことが人一倍怖かったんですよ。それが、最近になって怖くなくなった。どうして 怖くなくなったのかなと考えると、それは、仕事で成功したからとか、そういうこ とじやないんです。いい仕事をしたいとか、有名になりたいとか、そういうことを 考えながら仕事をしてきたわけだけど、あるときふと思った。生きることも死ぬ ことも、ほとんど変わらないんじゃないかって。心とか魂があるとすれば、体が なくなってもいいような気がしたんですよ。そう考えて、ずいぶん楽になった。 前みたいにイライラしなくなりました。 −−生きることも死ぬことも同じ、とおっしやいましたが、生きることが怖いと きは死ぬことも怖い。生きることが怖くなくなれば、死も怖くなくなる。そんな 気もしますね。引退というのは? たけし お笑いというのは、俺にとって2番目にやりたかったことだから。いち ばん好きなのは、やっばり精神の世界。いろいろ悩んだり考えたりするのが、本 当にやりたかったことなんですよ。ただ、よく言うでしょう、成功したければ2番 目に好きなことをやれって。俺もお笑いでいちおう成功したわけだけど、やっば りチラチラしてくるわけです。本当にやりたかったことがね。 −−仕事でいろいろやり尽くして飽きたのかと思ったんですけど、違いますね。 麻原 飽きたらやめればいいんですよ。 −−前に有名なサーカスの座長の話を聞いたことがあって。飽きると事故が起き ますから、どのようにして飽きないようにしてるか尋ねたんです。すると、その 人も「飽きたらやめればいい」と言ってましたね。「もっといけないのは、飽きて、 情熱も失っているのにまだ、そこにしがみついていることだ」と。 麻原 そう思います。でも私は、たけしさんは自殺なんかはしないと思います。 自殺というのは自分の命を大切にしない人がすることですから。たけしさんのよ うに人生を大切にする人は、そう簡単には死にませんよ。 −−どうして、たけしさんが人生を大切にしていると? 麻原 人生を大切にしない人は、たけしさんのように人生を考えたりはしません。 たけし そうね。大学を中退しようと思ったときからだから、かれこれ20年以上 もあれこれ考え続けているわけですよ。やっばり人間の精神が考えだすことは、 すべて実現する可能性があると思うんです。イメージが貧困な人は、できうること も少ない。自分の発想からいかにかけ離れたことをイメージできるか。それがで きないと、人間はだめだと思いますね。発想なり考え方を拡げる必要があると思 うんですよ。その拡げ方を考えるのが、俺にとってはいちばん面白いことなわけで。 それは結局、宗教の世界なんでしょうね。 麻原 だから、前から言っていることですが、たけしさんは根本的な部分で仏教 観というものを持っていますよ。でも、「俺はどこの宗教団体にも入らないからな。 誘うなよ」と釘を刺されてますから...。 たけし いやいや。麻原さんと同じ土俵に登場しますから。そのときは......。 −−最後に、今は”飽食の時代”々とか言われるわけですけども、そのなかで、おふ たりが特に意熟して禁欲的にしていることを教えてください。 たけし なるべく食べないようにする、ということかな。昔、浅草にいたころに 比べると、今は自分ひとりでは使い切れないほどの金を稼いでるわけだけど、相 変わらず高級なレストランなんかへはひとりでは行けない。バチが当たるような 気がしてさ。あそこの中華料理がうまいなんて聞くと、行っでみたいんだけど、 怖いからとりあえず5人ぐらい連れてってご馳走する。自分で食っちやいけない ような気がするんですよ。 −−麻原さんは? 麻原 そうですね、なるべく自分のことを考えないようにする、ということでし ょうか。大乗の発想のなかにある「自己を捨て去る」ということができるかどう か。それが私の課題です。
 新宗教ブームというバブルでは、単に信者数を競うような宗教団体が 現れ、泡のように消えていった。そのなかにあり、安易な妥協を拒み続け ることで生き残った感のあるオウム真理教と麻原彰晃。一方、芸能界で の成功で多くの収入を手にしながらも、素直にそれに困惑するビートた けし。このふたりの視界には、「物質の豊かさ」の向こう側が、しつかり と捉えらていた。
対談のあとで...... 「面白いよなあ、麻原さんて......」  対談を終え、帰りのエレベーターを待つ間に、たけしがボソッと言った。 「話してますます、来敷から遠い人のような気がしてさぁ」  そこに麻原が現れ、我々は同じエレベーターの密室の中にいた。 「おまえ、皆さんに挨拶はしたのか?」  密室の中で、麻原が傍らの少女に聞いた。 眼の見えぬ麻原の手を引いてテレビにも出ていた、まだ中学生ぐらいの少女だ。 少女は俯いたまま取ずかしそうに首を振った。 「だめじゃないか。挨拶はちゃんとしなきゃ。ああ、これ、私の娘です」  そこにあったのは、よき父親としての麻原彰晃だった。何も言わなかったが、 たけしはまた「面白いよなぁ」と思ったのではないか。 変わりに「今日は気持ちのいい時間を過ごしました」という言葉を残し、去って いった。




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