オウム真理教、政界へ進出!

麻原彰晃尊師を筆頭に、真理党結成!

 オウム真理教の開祖である麻原彰晃尊師は、七月、自己の宗教活動の実践に加えて、政治的なアプローチの必要性を訴え、真理党を結成することを明らかにした。
 七月二十七日、オウム真理教富士山総本部道場には、麻原尊師他シッシャ百数十名が集まった。まずは、麻原尊師の説法が行なわれ、続いてシッシャ達の政治参加への討論と採決が繰り返され、最後に再び麻原尊師の所信が述べられた。以下、その模様を追うことにしよう。

転輪聖王の今生の役割

 今から二千五百年前、仏陀釈迦牟尼の時代は、今みたいなマスコミュニケーションの発達、あるいは政治力の発達というものはなかった。これは理解できるか。
 要するに、修行者もかなりいて、そして、ね、普通の家も、修行してる人に食事を供養することは、ね、大変な功徳になるんだと。そして、その時代のほとんどの人は生きることに精一杯であった。もちろん武士、商人、ね、彼らは性欲の対象としての恋人はいたわけだけども、まあ、せいぜいセックス、それから食べ物といった、ね、あるいは綺麗な着物を着るといった、この三つの喜びしかなかったと。
 しかし、ね、現代はそうではない。たくさんのマーヤ、喜びというマーヤがはびこっている。これは末法の世ということができるわけだね。そして、このマーヤを変えるためには、いろんな形で、ね、アプローチをしなければならない。これはわかるかな、みんな。
 そして、『イニシエーション』を真剣に読んでる人は理解できていると思うけど、まあ、まだ円の為替の相場はね、一四〇円前後をフラフラしているから、ま、いったん、一一〇円代に入ったわけだけども、一四〇円前後を現在はフラフラしているから、まだ、私の予言は的中してないわけだけども、まず富士山の噴火、その前哨戦として一発ね、爆発が起きるだろうと。そして案の定、伊豆の、ね、海底火山が爆発したと。そして、次に保革伯仲の時代が来るであろうと。今回の参議院選挙によって参議院は、ね、要するに、保守ではなくて革新の方が議席を多く取ったと。そして今の様相だと、ね、衆議院選挙でも自民党が負ける可能性の方が高いと。とにかく自民党の取った議席は二五パーセントだからね。いよいよ波乱含みの世の中が来たわけだ。
 ここで考えなければならないことは、ね、オウム真理教は宗教団体一本で攻めていくのか、それとも政治的なアプローチをしていくのかということである。
 大師会議の結果、ね、当然政治的アプローチが必要であると。なぜ必要なのかというと、自分達の修行そのものを、ね、政治的に守らなきゃならないと。そして、それだけではなくて、オウムの構想しているロータス・ヴィレッジ構想は、地球そのものを、ね、ロータス・ヴィレッジとしてシャンバラ化していかなきゃならないわけだ。だとするならば、ね、やりたくない選挙に対しても、当然戦いを、ね、挑まなければならない。しかしだ、一応、ね、選挙的な、つまり政治的な動きをするということは大師会議で決まったわけだけども、ね、オウム真理教そのものは、シッシャとそれから、ね、私とで成り立っている団体だから、ここでもう一度、ね、君達の意見を聞いて、そして、ね、どちらの方にするのかと。政治はやるのかやらないのかということを、確認をしたいと考えている。
 もちろん先程も言ったとおり、私は政治にね、もう打って出るべきじゃないかと考えています。しかしオウム真理教は教団だからね、団体だから、君達の意向というものを無視するわけにはいかないし、逆に君達の半数以上がだよ、いや私は反対であると、宗教はやはり宗教として純粋に攻めるべきじゃないかとね、救済すべきじゃないかと考えるならば、それでもいいと考えています。
 だから君達の意見、賛成意見を例えば三つ、反対意見を三つ聞いた後にね、これは大師も含めて構いません、聞いた後に君達の、立位によってね、君達が立つということによって、どちらの方向でやるかということを決めたいと考えます。そして私の今言った意見は参考として、君達は君達の中に生じているものを大切にして、ね、自分の意志をはっきりとアピールしてください。いいね。
(シッシャ達)はい。
 では、これから三つ、それぞれ意見を出してください。賛成意見、つまり選挙に打って出た方がいいという意見を三つ、反対意見、打って出るべきではないという意見を三つとります。はっきり堂々と言うこと。例えば反対意見がある場合は、はっきり堂々と言うこと。これは修行だからね。賛成意見にしろ反対意見にしろ、はっきり言う人を私は好むし、そういう人こそ、やはり次のステージにね、早く行く人ではないかなと考えています。はい、それでは始めましょう。

〔反対意見〕
◆オウムの波動と現世の波動の差、まして政治はそれ以上に波動の差があると思われるので、勝てるかを懸念。
◆縁の深い人から救い、現世との距離を保ち、オウム独自の宗教的な環境で修行するという主旨から外れてしまう。
◆教団としても、勢力を分散させることなく、宗教的な活動に集中して救済を広めるべきではないか。
◆現世にまみれてしまうと他の宗教団体と変わらない。あくまでも清廉潔白な宗教団体として歩んでほしい。
◆政治団体の力は強力で、実数四千名の団体が、議席その他を獲得できるのか、時間が十一年しかないが政権が握れるかどうか疑問である。
◆宗教的な活動がなおざりになる。そして、既に修行してる人の成就が遅れる。 ◆政権に近付いた場合、尊師の生命の危機がある。
◆オウムが政党となった場合、オウムの分裂の危機がある。

〔賛成意見〕
◆尊師のご意向がすべてだと思う。尊師がいいと考えられることならば、それは未来において正しいと証明されるだろうから、やるべきだと思う。
◆宗教的なアプローチだけでは不十分ではないか。例えば文化、政治など様々な方面からのアプローチが必要と思われるし、オウムはそれだけの可能性を持っている。
◆日本の政治家は外国との交渉に歯が立たない。いくらロータス・ヴィレッジを作っても、外国の圧力にやられてしまったら元も子もないので、政治に打って出るのは必要。また、今の日本では麻原尊師ほど適した人はいないと思うので、ぜひ打って出てほしい。


《第一回目採決……
 賛成百二十名、反対五十四名》
(尊師より、反対者が五十何名いて突っ走るわけにいかないとのことで、議論が再開される)

〔反対意見〕
◆現実的に考えてみて、かなり厳しいものがあると思う。
◆以前、ある宗教団体で政治的色彩を出した結果、教祖が殺されかけ、そして、その後の活動が鈍った例がある。オウムでも、これと同じことが起こる可能性がある。
◆オウムの教義とシステムがあれば救済はできると思う。政治はよごれているので、あえてその中に入っていく必要はない。

〔賛成意見〕
◆オウムには政治的な後ろ盾がないために、宗教法人の件のように障害、妨害が起こっている。実際の能力以下の動きしかできない現状を打開していかなければならない。
◆政治の中に入ると、情報の収集能力が良い。
◆印刷、出版、音楽など、これだけ幅広い活動をしている団体はなく、それで政治に興味のなかった浮動層をつかみ、宗教は嫌いだけれど政治は良くしたいという層も引き込んで、救済を進める可能性がある。
◆欲六界にまみれることは、大乗の修行としてむしろ喜ぶべきである。
◆救済活動と政治がそんなにはっきりと切り離せるものか。政治的な力を付けなければ、救済活動そのものができないのではないか。
◆オウムが純粋に宗教的な活動だけをしても、考え方、思想が政治と合わなければ、弾圧の可能性や尊師のお命の危険性が大きい。
◆正しいことを実行する力として、多角的な活動の一つとして、政治を取り入れていくことは必要ではないか。
◆今後、オウムの刊行物の発禁や所持の禁止、布教の規制の時代が来るような気がする。そうなるとしたら、今しか時間はない。
◆失敗の可能性はある。けれど、そこで失敗するなら、完全な救済の可能性はないのではないか。もう賭けをする時期に入ってきている。
◆創価学会、もしくは自民党の圧力団体というふうな形で動いていては、救済が遅れてしまう。オウムは宗教の主宰者と党首を一致させることにより、日本、あるいは世界を背負っていくような一つの勢力になるのではないか。
◆今の選挙状況は自民党に対する不信感がある。オウムの活動力、広報力を結集したら、必ず勝てる戦いができる。

《第二回目採決……
賛成百四十八名、反対二十八名》
(尊師より、少数派が少なくとも十名以下というような極端な数字になるまで、論議を続けるようにという指示が入る)

〔反対意見〕
◆尊師のお体がベストではなく、仏陀の体作りをするということなので、エネルギーをロスしない方がいいのではないか。
◆尊師の法が議会の中でうまく反映されないのではないか。よって、法を説いていただける時間がもったいない。
◆今まで入ってきた信徒さんとシッシャの間に、崩壊の危機があるのではないか。ドロドロとした中に入っていけるほどの信念があるか。今までの教義と全く違った中に入っていけるかどうか。
◆この世を超越した価値観というものが、政治的に受け入れられるかどうか危惧がある。他で握りつぶされてしまう可能性が高いのではないか。
◆尊師がどんどん遠くへ離れていく怖さ、寂しさというエゴから。
◆政治とオウム真理教の教義、理想は全く相入れないものである(どういう展開がされるのかという尊師のご意見をお聞かせ願えれば、反対者も理解できるのではないか)。

 〔賛成意見〕
◆当選までは外へ出ていってエネルギーを使うかもしれないが、当選後は外へ出る必要はないのでエネルギー的には問題なく、当選後は今までと同じくみんなの前で説法もできる。
◆オウムの正しい法が、なかなか取りざたされないままの世の中ではいけない。
◆信徒さんは、オウムの空間は素晴らしいと思っているはずである。それが道場に行かないと得られないというのでは、これは趣味の一端でしかない。現世がすべてそのような空間で修行できたら、素晴らしい世の中になるはずである。
◆シャンバラ化計画が日本の一万分の一というような小さな空間では、魂の救済にならない。
◆政治力を持てば救済は成功すると確信しているが、この十年の間に政治で大きな力を持つためには、今をおいて出る時期はない。
◆本当に救済活動をやろうと思ったら、こちらの方から世俗にまみれていくしかない。また、世俗にまみれるという点において変わりないのなら、政治力を持ってまみれる方が効果的である。
◆ポスター、『マハーヤーナ』などの媒体を効果的に使い、信のあるシッシャが死に物狂いでやれば、必ず勝てる。
◆反対者は救済活動が宗教的な活動のみでは立ちいかない状況なのではないかという認識に欠けている。
◆政治というのはエゴを全うする世界であるので、政治の勢力と対抗するためには、それと同等の力を持たざるを得ない。
◆オウムが政治的な受け皿としても存在することは、信徒の方にとっては最も望むべきところである。
◆宗教法人の問題から考えても、現代はやはり力を持って救済する時代ではないか。
◆オウムが政治に打って出ることが、エゴを満足させるためでなく、救済のためなら善業になる。
◆社会との接点なしには救済できないのではないか。
◆歴史を振り返ってみた場合、宗教的な力だけでは政治力に負けてしまうと言える。

 以上のように賛成意見・反対意見の交換が行なわれた後、尊師から、反対者の疑問点への回答も交えながら、出馬のご意思の深い意味での解説がなされました。

 では最後に、私からの見解を述べさせてもらいます。私はこう考えています。今から二千五百年前、仏陀釈迦牟尼は確かに布教なさったと。真理の法を展開なさったと。しかし、それは例えばビンビサーラ王、例えばパセーナディ王ね、といったような、その帰依なさった王様の国で、法を説いてらっしゃるんだね。
 で、その条件のもとで、その時代の身分制というものは、一番偉いのが修行者であると、その次が武士であると、そして三番目が普通の人、平民であると、四番目は奴隷であるという階級のもとにおいて、だから王様といえども、修行者にむやみやたらなことはできなかったわけだ。むやみやたらなことができなかったにもかかわらず、釈迦牟尼は自分に帰依をなさっているコーサラ国とか、あるいはマガダ国とかいったようなね、国を中心に布教なさったわけだ。例えばヴァイシャーリー国という小さな国があったわけだけど、ここも一応すべての人が帰依をしていたと。国家で帰依をしていたと、ね。そしてキリスト教が大発展したのも、ね、これは『滅亡の日』に書いたけども、コンスタンティヌス帝のね、結局保護というか、妥協というか、これがあった後に大発展をしてるわけだね。
 もちろんそこで、そのときに真理の法は失われていると。それは当然であると。なぜかというと、教祖が生きていなかったからであると。そして仏典を調べていくと、仏陀釈迦牟尼の前生においては多数の転輪 聖王の生があるわけだね。なぜかというと、政治というものが国を決めてしまうからだ。例えば、一方ではオウムが真理の法を説いたとしても、信徒さんは大変な苦しみを味わっていると。なぜかというと、町を歩けば食欲の誘惑、性欲の誘惑と、ね、テレビを見れば綺語の連発、悪口の連発、暴力の連発と。これをね、やはり浄化しない限り、オウムでいってる、例えば十戒守りなさいよといっても、オウムのいってることは理想としてはわかるんだけどできない、という見解になるんじゃなかろうか。
 そして次に、私の身に対する、例えば命に対する君達の懸念だけども、これについては、菩薩というものは、ここに菩薩というものが存在しているということは、その生命そのものは、すべては、ね、救済のためにあると。だから、例えば殺されようとも、ね、暗殺されようとも、ね、捕まえられようとも、ね、そういうことは大した問題ではない、ね。そして逆に、私がここに存在して、今の世の中の原因と結果というものを見つめることができず、もし真理の法を残すことができなければ、私は日本に生まれた意味合いというものをなくしてしまうと考えています。そして、次に政治と宗教とはどうかといったならば、私は政治と宗教というものは一体ではなかろうかと考えている。例えば、学校教育を見てわかるとおり、これはね、ケイマ大師がシャクティーパットをしたときの経験だそうだけど、小学校に入る前の子供は、すべての人が光を見ていると。小学校低学年の人は光を、まあ、だいたい見える人もいるけども、見なくなると。もう小学校の高学年ぐらいから見なくなると。これは、いかに現代の学校教育にひずみがあるかということだね。心をけがしているかということだ。
 例えばね、私の娘であるカーリーとかあるいはドゥルガーの例を見ても、学校に行かせれば言葉は悪くなるし、それから不安定になると。しかし子供をそうさせているのは何かといったら、人々の心。それは、政治だよね。昔のように宗教が第一義に置かれ、修行者が第一義の地位にあって絶対的な力を振るえるんだったならば、別に政治に出る必要はないだろう。
 しかし君達は、現代の政治家はけがれていると言いながら、ね、その政治によって支配されている。例えばもし政治でだよ、さあ、徴兵制だといった場合、君達は抵抗することができるかどうかだ。おそらくできないだろう。ということは、言い方を換えるならば、君達は政治の支配下にあると。そして、日本国憲法という法律に基づいて保護は一応されている。しかし、その憲法も政治の力によって変えることはできる。あるいは、憲法の解釈によって、ね、それは何とでもなると。
 例えばその例が自衛隊であると。わかるかな、言ってることは。私は軍備をすることに、ね、賛成とか反対とかいう意見は今は持っていない、まだ。なぜ、軍備をすることに賛成とか反対ということを持ってないかというと、例えば、もし軍備をするんだったならば、本当に戦って勝てるような軍隊を日本に作るべきであると考えている。もしそうでなくて、一週間とか十日とか抗戦して、ね、役に立たないような軍隊だったら、初めから持つべきではないと考えている。そして国民もそれを認識するべきであると、ね。
 例えばもしだよ、軍隊を持たないと仮定してそのお金が福祉に還元されたならば、ね、例えば老人福祉、それから障害者の福祉、その他大変な発展をするだろう。しかし、無智な人達は、ね、それをそう考えてないわけだね。福祉は苦しい、ね、福祉は遅れていると。ねえ、例えば消費税はどうしろと。しかし、その消費税をOKしたのは自分達じゃないかと、ね、そこは忘れてしまうと。
 じゃあ、これをね、純粋に宗教的な面だけで、ね、解決できるのかと。当然できないよね、今言ったとおり。わかるよね、言ってることは。
 例えば、マスコミに対して、ね、こういうデータを出すならば、こういうふうな国ができ上がってしまうと、ね。マハー・ムドラーの修行、あるいはジュニアーナの修行に入ってる人はそれが理解できるはずだよね。だって例えば、日々だよ、綺語、悪口、両舌、ね、妄語の連発を、テレビやあるいはラジオ、雑誌で見たり聞いたりしたとしようじゃないか。どうだ、そのデータは私達の潜在意識に残るか残らないか。一方でオウムの十戒を説いたとして、ね、これと相反するもんだよね。どうだ。それは何とか止めるしかないじゃないか。
 もちろん、今の国会に私が出たとしても、あるいはオウム真理教のメンバーが出たとしても、初めのうちはそれほどの力にはならないだろう。
 しかし、何でもそうだけど、一個の種子からすべては派生するんじゃないのか。そして仮に負けたとしても、ね、私達の要するに広報活動というものはすべてが真理に結び付くような広報活動だから、逆に教団としては大きくなっていくんじゃないかと、力を持っていくんじゃないかと私は考えている。よって、ね、まず、この理由によって、私は今こそ選挙に打って出るべきであると。
 そしてもう一つだ。それは何名かの大師も言ったように、時間がなさすぎると。例えば二〇〇三年に原爆が爆発するとして十四年しかないと。その間に総選挙は何回繰り返されるだろうかと。そんな多くの回数ではなかろうと、ね。そして今の状態を分析するならば、第二次世界大戦の始まる前とすごく似てるんだね。政治が不安定になり、それから財界が自民党を見放すと。ということは、逆行した世の中になるわけだ。そして当然、戦時中というものは宗教は弾圧される。そしてオウムのシッシャは若いから、すべては徴兵制に持っていかれ、そして軍人だ。君達がこれを良しと考えるならば政治に参加するのはやめようと。しかし、あしと考えるならば、そして真理の法を広め、ね、そして、二十一世紀の超人類の未来、透明なね、飛躍に富んだ未来を、もし君達が考えるとするならば、ここで私達は、宗教という観念から離れなければならない。大切なことは実践であると、ね。
 最後にもう一度言うよ。例えば殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、ね、そして心に貪り、嫌悪、執着、無智といったような、こういうものを持たせているのは私達の環境であると、ね。その環境から離れることによって、私達はそれを得ることを一つできると。もう一つは、環境というものの中にいて、それを感じないようにして越えることができると。もう一つは、環境を越えることによって、環境を変えることによって、それを、ね、私達は得ることができると。
 そう考えた場合、第一は一応、達成されていると。次にね、一千メーター級のとこに道場を作るつもりでいるからね、私は。第二の意見についてはね、何人かの大師あるいはシッシャは完成していると。
 それから、もし第三の、ね、その情報そのものを変えてしまうことができるならば、この世はシャンバラ化、そしてロータス・ヴィレッジ化するはずであると。
 この理由によって、つまり、ね、修行は修行、もちろん今からも修行は続けていくつもりです。そして、転輪聖 王としての役割は役割として、転輪聖王としてのね、役割は役割として果たしていきたいと、私は考えています。以上です。はい、では最後の起立に入ろう。

《第三回目採決……
賛成百七十五名、わからない一名(後、賛成に移行)》

 このように、討論の結果、参加者全員が賛成となり、ここに真理党が結成されることとなったのであった。
 曲がり角に立つ政局。果たして、麻原尊師のつくる新しい政党がいかなる発展を遂げていくか、今後大いに注目されるところであろう。




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