スペインの作曲家を訪ねて
【ロドリーゴ】
○アランフェス協奏曲を作曲したロドリーゴのゆかりの地アランフェスを訪ねて
 赤茶けた大地が続くカスティーリャ地方で,アランフェスは,タホ川の恩恵を受けて緑豊かな町です。
この豊かな地が気に入ったフェリペ2世が,保養地として離宮を建てました。
 この地を新婚旅行で訪れたロドリーゴは,河畔の自然の中を連れ添って歩くうちに,あのロマンチッ
クな2楽章の楽想を得るのです。アランフェス協奏曲は,2楽章から書き始められているのです。
 1楽章は,花々が咲き乱れる庭園,3楽章は,当時の王たちと民衆の様子を表しています。
 この曲は,アランフェスの住民にとって大変な誇りで,ロドリーゴをたたえて1986年に記念像が建て
られました。

【ファリャ】
 ファリャは,スペインを代表する作曲者です。スペインのFMで,彼の曲が流れるときは,「我らの
ファリャの作曲した・・・」と紹介されています。

○生誕の地,そして彼が眠るカディス(1876〜1899)
 ファリャは,1876年11月23日,カディスのミナ広場3番地に生まれました。生家の壁に記念のプレ
ート
が掲げられています。ファリャは,このカディスで20歳まで暮らします。
 ファリャは,この地にあるサンタ・クエバ教会でハイドンの「十字架上のキリストの最期の七つの言葉」
というオラトリオに接する。この教会の音楽家がハイドンの友人で,聖週間のために作曲したものです。
ファリャは,この音楽に衝撃を受け,音楽を志すようになるのでした。
 ファリャが生まれた町だけあって,いたる所にファリャの名前が見られます。ファリャ劇場ファリャ広場
・・・・・。
 黄色い帽子をかぶったようなカテドラルには,ファリャが眠っています。1946年11月14日,アルゼン
チンのコルドバ県で亡くなりますが,その遺体がはるばるカディスに運ばれ,1947年1月9日に,カテド
ラルの地下納骨堂に埋葬されました。

○ファリャ,マドリッドの家(1900〜1907)
 ファリャは,20歳父の破産によって,マドリッドに移ります。ファリャは,音楽院に入学し,名ピアニスト
のホセ・トラゴーに学びます。最初に手がけたのは,サルスエラですが,フェリーペ・ペドレルとの出会い
で,彼の提唱するスペイン民族音楽を基盤とする作曲に目を向けていきます。
 1905年,サン・フェルナンド王立アカデミーの作曲コンクールに,ファリャは,「はかない人生」
(La vida breve)を出品し,優勝します。また,ピアノ会社主催のコンクールにも出場し,こちらも優勝して
しまいます。マドリッドには,彼がLa vida breve(Wave File Danza ガルシア ナバロ指揮,ロンドン・シン
フォニーオーケストラ )を作曲した家
が残っています。住所は,Serrano 72です。
買い物だけでなくファリャの家ものぞいて見てほしいと思います。その壁には,プレートが掲げられています。

○パリ,巨匠たちとの出会い(1907〜1914)
 1907年の夏,ファリャは,ピアノコンクールで獲得したグランドピアノを売って,資金を作り,パリに旅立ち
ます。パリでは,デュカス,ドビッシー,ラベルとの交流があり,当時のスペインブームにも乗り,多くの仲間に
囲まれて暮らしました。