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October 2006 日蝕貧乏知恵者猫 |
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◆Daylight Saving Time ◆トナカイ肉は美味しい! ◆『月刊天文』休刊 ◆横浜・三渓園で「秋の観月会」 ◆横浜ベイブリッジから「ダイヤモンド富士」が拝める1週間 ◆マンドラテノール ◆お疲れ様、YS−11 |
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2006.10.29 Daylight Saving Time この日、アメリカでDaylight Saving Time(いわゆる夏時間)が終了。 アメリカではハワイ州、アリゾナ州を除いて夏時間を採用しています。(昨夏まではインディアナ州東部も夏時間を採用していませんでしたが、今夏から導入した模様。それにしても、インディアナ州内のタイム・ゾーンはややこしい…*_*;) ちなみに、Daylight Saving Timeの適用期間は北米や欧州など概ね同じですが、多少期間が違う国があったり、毎年変わる国なんていうのもあるようです。(資料その2) ハワイとアラスカを除いて、アメリカ本土には4つのタイム・ゾーンがあり(太平洋/Pacific=PT、山岳地帯/Mountain=MT、中部/central=CT、東部/eastern=ET)、全国ネットのTVニュースなどでは、時刻表示の下にどの地域なのかが表示されています。 そして、アラスカには東側の「アラスカ標準時」、西側の「アリューシャン時間」の2つのタイム・ゾーンがあります。アリューシャン列島はハワイと同じゾーンで、正式には「ハワイ・アリューシャン時間」と呼ぶのでしょうけれど、一般的には「ハワイ時間」と呼ばれているようです。 なお、これら地域の時刻は、先の全国ネットのニュースでは表示されません。(^^;;) 悲しき飛び地仲間…。 アラスカで見ている限り、もともとゆったりとした時が流れていて、現地の人々ものんびり構えているように見えます。タイム・シフトが実施される前にTVやラジオでアナウンスしても、細かく気にしている人に遭遇したことはなく、家の中で余り使われていない時計や、車内のデジタル時計が年中同じ時を刻み続けているという場面に、結構な頻度で出食わします。 たまたま身近で見ている人たちが、一般的なビジネスマンではないからでしょうか? それでも待ち合わせに遅れるとか、飛行機に乗り遅れるという話はニュースで耳にしますけれども…。 (上記画像の「ハワイ・アリューシャン時間」にAISTと略号が入っていますが、これは電話帳に書いてあったもの。HASTの表記が正式ではないかと思います。なお、ハワイでは単にHSTと書かれます。アラスカでは夏時間を採用、ハワイでは非採用なので、「アリューシャン時間」、「ハワイ時間」と分けて呼び表した方が混乱は少ないのでしょうね。) (※アラスカ標準時はAKST、ハワイ−アリューシャン標準時はHAST、夏時間は各々AKDT、HASTと書くことがあり、ハワイには夏時間がないのでHSTと書かれるようです。:追記) さて、アメリカで夏時間が採用されているのは、2006年の時点では4月の第一日曜日の午前2時から10月の最終日曜日の午前2時まで。 本日10月29日のフェアバンクスの日の出は8:28、日没は16:39で、昼間の時間は8時間10分。 秋分の日から1ヶ月余りで、既に4時間ほど昼間の時間が短くなってしまいました。 1日に6分44秒も短くなっていく昼の時間は文字通り釣瓶落としの様相で、これから冬至に向けてますます暗い季節となります。 以前にも書きましたが、夏時間を採用している期間の方が長いのです。 時差に関しても東海岸寄りだし、夏時間を採用することによる経済効果が望める…のかも知れませんが、アラスカが今の時期まで夏時間というのは、実情とは食い違いが大きいような。 春分〜秋分くらいの方が生活時間や体感的なズレが少ないのではないかと思うのは、余計なお世話でしょうか? 現地在住の方々にお伺いしてみたいです。 さて、このDaylight Saving Time。 来年のアラスカのカレンダーを見ていたら、ちょっとした異変に気づきました。 Daylight Saving Time Begins...March 11, 2007 Daylight Saving Time Ends......November 4, 2007 なんと3月第2日曜日〜11月第1日曜日となっており、従来よりも丸一ヶ月間、長くなったようなのです。 いつ決まったのでしょう? これも原油高の影響でしょうか? 欧州よりも期間が長くなったようです。 情報やニュースをご存知の方、お教え下さいませ。 最早1年のうち8ヶ月もの長さを占めることになったらしいDaylight Saving Time。 こちらの方がスタンダードで、残りの4ヶ月の方がイレギュラー。 そんな扱いが出来そう。 いっそ世界時(GMT、UT)との(スタンダード・タイム)時差も、この期間中の方を採用した方が分かりやすいのでは?とさえ思えます。 2006.10.26 映画『北辰斜にさすところ』 映画『北辰斜にさすところ』 物語(あらすじ) 『北辰斜めに』は、旧制第七高等学校造士館の第十四回開校記念祭歌で大正4年の作。(映画公式サイトでは『北辰斜にさすところ』となっていますが、七高寮歌集では『北辰斜めに』の記載) 北辰とは北極星のことで、『北辰斜め』は北極星が低く見える鹿児島のことを表しています。 そして、巻頭言の最初は『流星落ちて住む処』。 幼少から星に魅せられた私は、歌の中身は分からないままにどこか惹かれた歌でした。(雪月花を詠じた寮歌は多いですけれどネ) 旧制七高を(一部の)母体とした鹿児島大学では既に忘れられようとしているとのことですが、今でも寮や運動部などでは歌い継がれているとも聞きます。 (↑時の流れでしょうけれど、一般の店頭に並ぶ寮歌のCDはほとんどない状況。リンクでご紹介したボニー・ジャックスの歌では優しすぎるというか泥臭さや力強さに欠けそうに思われます。寮歌祭は、未だ各地で盛大に行われていると見聞きしますので、インディーズ盤(自主制作)は多いのかも知れません。) 古の戦場での名乗りを思わせるような口上(巻頭言)が朗々と吟ぜられた後、「アイン!ツヴァイ!ドライ!」で歌が始まります。(巻頭言は昭和6年に加えられた模様) 鹿児島出身の方ばかりではない筈ですが(開校当初の志しから考えれば、多くを鹿児島県人が占めていてもおかしくはない?)、私がこれまで耳にした巻頭言は、どこか薩摩訛(かごま弁)めいた節回しで、それがまた良かったり…(たまたま薩摩出身の方が多かった可能性大)。 鼓舞するような掛け声と共に、寮歌祭などでは大太鼓が入るようですが、当時、普通に歌われる時には鍋釜など音が出るものならば何でも叩いていたのではないでしょうか?(^_^;) 漢詩を思わせる歌詞に、哀愁を帯びた旋律※(←音が出ます♪作曲者・須川政太郎氏に関するページ)ではありますが威勢の良い曲が載せられています。(メロディーをこちらでも拝聴できます) ※大正9年版の旋律は、長調で随分と明るい曲調。 歌詞は振り仮名がないと読めなかったり意味不明の部分があったり…旧制高校生はエリート集団で、学業も今とは比べ物にならないほどのレヴェルを修めていたことが垣間見えます。(^^ゞ) 九州の冬は存外寒いのでマント必携だったかも知れませんが、腰から手拭いをぶら下げ高下駄を履き、黒光りする蝙蝠を思わせるマントに身を包んだ青年の群れという、絵に描いたようなバンカラの人たちを思い描いてしまう訳ですが、映画公式サイトに掲げられている写真を拝見するに、当たらずとも遠からずのようです。 血気盛んな若人がダイヤモンドの内外で熱き戦いを繰り広げていた…颯爽と風を切ってカッコ良い!と憧れる女学生も多かったのでしょうか? 余談ながら、寮では蚤や虱、そして空腹との闘いが繰り広げられていたと推察されます。(^^;;) 大正11年のことですから本作の舞台より少し前の出来事になるかも知れませんが、野球部対五高戦の応援団乱闘未遂事件というのがあり、以降戦争などで昭和21年まで七高対五高の野球試合は中断されたそうです。 五高(熊本大の前身)と七高(鹿児島大の前身)との関係は、意味合いはかなり違うのかも知れませんが、早慶戦のようなものだったのでしょうか? ああ若き日の光栄は−七高時代回顧−の中の対五高野球戦に以下の記述が見つかります。 歴史をたづぬれは五高・七高野球戦は大正初期にその源を発し、毎年一回夏あるひは冬、鶴丸城下において、あるひは五高武夫原において、決死の戦ひをくりひろげてきた。過去の戦蹟は七高が圧倒的に優勢である。 昭和、戦争の真っ只中の青春。 多くの学友が散華されたり、空襲などで尊い命を落とされた事実。 少なからず毎日が死と隣り合わせだった筈ですが、様々な話を伺ったりしたためられた文章からは、その狭間の中でも確かに彼らはキラキラと輝いた時代を生きていたように思われるのです。 あの時代からは想像も付かないほど、自由な校風が浮かび上がってきます。 動員で長崎の三菱重工へ赴かれた方々が被爆された話を読むにつけ、遺された方々が何故その極限状況の中でさえ、他人への気遣いや優しさを持って失わずにいられたのかと胸が詰まり、涙が止まりません。 (自らの命の危険を顧みずに行方知れずの学友を探したり、様々な方を助けるために手を尽くすこともさることながら、原爆投下の夕刻、熱傷や外傷を負いつつも命からがら逃げ延びた山腹で、ある生徒が教師に「畑の胡瓜を失敬してはいけないでしょうか?」と問うシーンにはことさら驚愕しました。ナンバー・スクールに学ぶ方々は、ノブレス・オブリージュを担っていたということなのか、懐古趣味に走るつもりはないですが、それが日本人というものだったのでしょうか?) 旧制高校は昭和22年の新学制施行で無くなったものと思い込んでいましたが、昭和25年卒が最終ですね。 この歌に送られて旅立った人を偲んで…。 映画の完成を待ちたいと思います。 ▼第七高等学校造士館 (旧制)@wikipedia ▼北辰斜に@wikipedia ▼造士館と七高造士館 ▼寮歌と花と古寺巡礼 ▼七高造士館@google ▼第七高等学校造士館 @鹿児島大学理学部同窓会 七高の資料などは、1945年6月の鹿児島空襲、1952年の鹿児島大火によって多くを失っているとのこと。(空襲では校舎はほぼ全焼、天文観測室は類焼を免れて残りました) 手元に残っている資料の写しなど、今こそまとめておかなければ永遠に分からなくなってしまうのでしょう。 ▼七高、そは永からぬ三年かし 卒業生 原後三治氏による ▼『北辰斜め』、『七高造士館』、『寮歌』関連リンク ▼七高造士館に関する書籍 2006.10.9 トナカイ肉は美味しい! トナカイ肉は美味しい! by livedoorニュース フランスのジャック・シラク大統領曰く「イギリス料理はフィンランド料理に次いでまずい」と…。 私はイギリスを訪れたことがないので分かりませんが、訪英された方からは記事中でも書かれているように「マシオプソヨ」(「まずい」の意味だそうですが、ここでは直訳の「味がない」)と聞き及ぶことが多いのは事実ではあります。 それは日本人の味覚に合わないことが多いということではなく、世界的な評価なのでしょうか? ロースト・ビーフの誕生経緯を考えると、地理的な条件などで限られた食材をどう美味しく食べるか、苦心している様子も感じられないということではないと思うのですけれど。 しかしながら、ソルト&ペッパーをパッパッとかけたり、チャプンとかけられたグレイビー・ソースの味だけで、全て単調なために飽きてしまったという話も耳にすることが多いような気はしますし、貧相な想像力から思い浮かぶフィッシュ&チップス(ビネガーが好きかどうか?)、ウナギのゼリー、キドニー・パイ(イギスでしたっけ?)など、庶民の食卓に多く上がるようなメニューは好みが大きく分かれそうですけれど。 それにしても、シラク氏はフィンランド料理が世界一美味しくないとおっしゃった訳で…そういえば、イタリアのベルルスコーニ氏もフィンランド料理をこき下ろしていましたっけねぇ。(*_*;) 一体、両氏は何を召し上がったのでしょう?? 私の味覚は全くアテにならないので、この手の話題に言及する資格はないようにも思いますが、それでもフィンランドに美味しいものはないのか?というと、どの地においてもその人の口にあったものは探せば見つけられるのではないかと思う次第。 いや、そうしないと旅の楽しみが半減したり、旅そのものが辛くなってしまいそうな気がします。 実際、2週間ほどのフィンランド滞在中、沢山の美味しいものに巡り逢えました。 レストランでもお食事しましたが、スーパーやデパート、カウパットーリ(市場)のお惣菜にも大いにお世話になりました。 ヨーグルトやチーズなどの乳製品のヴァラエティの豊かさ(ベリー類はもちろんのこと、様々なナッツ入りなど日本ではお目にかかれないものもありました)、ハムやソーセージ、簡単な料理法でも充分美味しかった魚介類のデリ、様々なサラダ類やお惣菜などを見繕って、滞在先の小さなキチネットでアレンジして食事を楽しみましたっ。♪ 食パンはドイツ風全粒粉のズッシリ系が多いので、これも好みが分かれそうですし、ペストリーも日本とはちょっと違いますが、お店によってテイストが随分違います。 (アラスカで考えると、アンカレジでは好みの店が見つかっても、フェアバンクスにはない!…という状況もあるしなぁ。在住日本人の方々がホーム・ベーカリーに走るというのも頷けたり。^_^;) 記事中のトナカイ(フィンランド語では「ポロ」)ですが、思い出すのはラップランド滞在中に食したシチューと、ヘルシンキのレストランで供された燻製でしょうか。 前者は薄切りのポロ(トナカイ肉)と同じく薄切りポテトを茹でて、簡単に塩コショウで味付けしたハッシュド・ポテトのようなものに、リンゴン・ベリーの甘酢っぱいソースをかけたもの。 ポロの肉は結構パサパサなのですが、ホックリ美味しいポテトと甘酸っぱいソースとが絡み合い、自国のオクトーバー・フェスト前に大挙押しかけたらしいドイツ人達に飲み干される前に、なんとかありつけた冷たいビール『ラピン・クルタ』(ラップランドの金の意味)とマッチしました。 (余談ながら、このラップランドの小さな村のラピン・クルタは、この後ドイツ人団体のお腹に全て収まってしまいました!!熊さんの顔が描かれたコフ・ビールでさえ品薄に!*_*;) この時、レストランの片隅で一人夕食を食べていた私に「一緒に飲まない?」と声をかけてきたフィンランド男性は、元商社マンのネイチャー・ガイドで…結局、それから夜遅くまでビール片手に人生を聞かされてしまったのだったなぁ。(^^ゞ) あらら…随分長くなったけれど、旅先で食したものの評価というのは、案外このように料理以外の記憶と相まってされているのかも知れませんね。 いずれにしても、やはり私の味覚は全くアテにならないということだけは確かなのかも。(^^;;) 2006.10.3 『月刊天文』休刊 『月刊天文』休刊 地人書館
毎月1日発売の本誌。 これまで何度か登場(?)させて頂いたことがありました。 今月号には何の案内も出ていなかったので、急なことだったようです。 なお、休刊=廃刊ということではなく、あくまでも一時お休みとのこと。 「都合」に関しても色々流れてきておりますが、リニューアルして戻ってくる日をお待ちしております。 2006.10.3 横浜・三渓園で「秋の観月会」 横浜・三渓園で「秋の観月会」 雅楽や琉球民謡の演奏も ヨコハマ経済新聞 2006年10月2日付け
▽三渓園 生糸貿易で財を成した実業家・原三溪(本名=富太郎)建造による庭園。 1906年5月1日に開園。 京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が配置されており(重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)、新進芸術家の育成と支援の場ともなって、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれたそうです。 友人のご先祖が昔住んでいた家屋がこちらに移築されていると以前聞いたのですが、どれのことだったかしらん。最後にここを訪れたのは、もう随分昔のことになってしまいました。 中秋の名月(6日)のお天気はすぐれないようですが、日曜にはお天気が回復するとの予報。 十六夜の月に会えるでしょうか? 2006.10.2 横浜ベイブリッジから「ダイヤモンド富士」が拝める1週間 横浜ベイブリッジから「ダイヤモンド富士」が拝める1週間 ヨコハマ経済新聞 2006年10月2日付け
1989年に開通した横浜ベイブリッジのスカイウォークからは、富士山、丹沢の他に新宿副都心や房総半島まで360°の眺望が楽しめますが、この期間中にもカメラを持参して撮影に臨まれる方が多そうです。 料金は大人600円、中学生以下300円。 ところが、秋雨前線のせいなのか、遠方の台風の影響なのか…お天気がすぐれません。 特に週末にかけては雨の予報で、中秋の名月にも会えないのかしらん?! なお、ここではラウンジでパーティも行うことが出来るのだそう。 高所恐怖症の方はどうなのかなぁ?と思ったり、お天気が大きな鍵だったりすると思いますが、貸切パーティ素敵です。 2006.10.2 マンドラテノール 昼下がり。 JRのホームで、懐かしい楽器を携えた青年を発見! 遠目に眺めていたけれど、目の前に止まったのがグリーン車だったので、慌てて普通車両のドアへと駆けました(ボケ〜ッとしていて行き先表示やアナウンスへの注意が散漫だったよう*_*;)。 乗車してみたら目の前に彼。 それから10分ほどの間、「楽器を」凝視してしまいました。(^^ゞ 持ち主は横を向いていたのでおそらく気付かなかったと思うのですが、実は不審がられていたのかも。 よほど声をかけようかと思ったものの、耳にイヤフォン&コンビニの袋から色々取り出してランチの最中のようでしたし。 丸く豊かなマンドラ・テノ−ルの音色が脳内で鳴り響いたひととき。 (↑リンク先ウィキペディアの画像…余り良くないなぁ。^^;; Amazonへのリンクは、マンドリンのボディの丸みが可愛いので張っておきます。明大マンドリン・クラブの演奏で、収録曲はロシアやイタリア民謡、映画のテーマ音楽となっており、多くの方の聞き覚えがあるメロディでしょう。明るく跳ねるような音色もありますが、しっとりと哀愁を帯びた音は秋の雰囲気かも。また、マンドリンのオリジナル・オーケストラ曲も良いですよぉ。Amazonにもいくつか出ていました。^^) 余りなじみの無い楽器だと思いますが、結構大きいので目を引きます(大きさはこちらのページで分かるでしょうか?ブルーグラス・マンドリンのように背面がフラットではないので、ケースに入れるともっと大きく感じます^_^;)。 私が持ち歩いていた相当昔にも「何だろう?」という視線を向けられたり、声をかけられたことも幾たびか(特にJR横浜線内では米兵の方に話しかけられることが多かったなぁ…)。 満員電車に携行して、周りの皆さんに迷惑をおかけしたこともありましたっけ。ゴメンナサイ。(^^ゞ ▽マンドリン ▽All Japan Mandolink ▽マンドリン・ギターショップ イケガク(池袋楽器から改名?←いつの話ぢゃ?^_^;) 2006.10.1 お疲れ様、YS−11 昨日、日本の空から事実上YS−11が退役。 民間機からは引退ですが、海上保安庁が所有しているので「事実上」としました。(その1、その2、この他に千歳基地所属の「おじろ1号・2号」、羽田航空基地所属機もある模様) 海外ではフィリピンのアジアン・スピリット社で運行中で(Company Profile→YS-11A)、今回勇退した機体もフィリピンへ売却予定とか。 私の飛行機デヴューはYS−11。 まだ幼稚園生だった筈で、羽田−鹿児島に搭乗。 (何年前かは聞かないで!それから、直行便ではなくてどこかを経由した可能性や、鹿児島往復ではなくて、福岡だったのかも。要確認。^_^;) 往路はとても気流の悪い日で、メチャクチャ揺れました。 そして、飲み物のサーヴィスが出来なかったので、CAさん(その頃はスチュワーデスさん?)がバスケットに入ったキャンディを配っていました。 私は恐怖のために半泣き状態で、差し出されたバスケットを条件反射で籠ごともらってしまい(頭の中真っ白だったのかも^^ゞ)、しっかり抱えて離さなかったのだそうです。 困ったCAさんは、トランプや飛行機のビニール製おもちゃ(本当は男の子限定?)など色々なアメニティを持ってきて下さって、「その籠と交換しましょうね」ということで交渉成立したらしいのです。(爆) 単にガメつかっただけだったりして。(^^;;) でも、本当に恐かったんです!! 記憶の端っこに残っているのですから。 トイレに行ったもののお尻に伝わる振動で余計に怖くなったのか、目的は果たせずに席に戻った覚えもあります。(乗り物には強かったようで、座席備え付けの袋のお世話になるような状態にはならず。) これだけ鮮明に残る強烈なデヴューだったくせに、トラウマにはならなかったよう。 詳しいことはサッパリ分からないものの、キビキビと働いている方々や空港の独特な雰囲気、飛行機の離発着を見るのも好きですし、搭乗の際には(様々な点から言えば通路側のほうが便利なのは分かっていても)窓側を希望で、『空のkirokuニスト』としては暇さえあれば外を眺めています。(実は高所恐怖症!!なのに、機上からの眺めは大好き。^^;;) 余談ながら、近年は駐機中や離発着時の電子機器の使用禁止で、フィルム・カメラであっても撮影が出来ないことがあります(航空会社によっては、フライト中の撮影は全面禁止の所もあるのだそうですね)。 最近はフル・マニュアルのフィルム・カメラなどほとんど使わなくなってしまいましたが、そういう時こそシャッター・チャンスがあったりして…。 昨秋、アラスカ帰りにハワイに立ち寄ることになった折にはとても良いお天気だったので、ホノルルで思わずレンズ付きフィルムを調達しました。(^_^;) お店の方に「フラッシュは付いていなくていいの?明るい場所でしか撮れないわよ」と何度も念を押されても、「必要ないから大丈夫!」と。(電池が入っていない方が良さそうでしょう?) それにしても、ファースト・クラス(正確にはワールド・ビジネス・クラス)のエリアに響き渡る「ジコジコジコ…」のチープな巻き上げ音は、ちょっと恥ずかしかった。(^_^;) そう言えば、以前ハワイ上空を飛んだ時には撮影制限などまだなかったし、デジカメもなかったのだなぁ…。 YS−11。 もう一度乗ってみたかったです。 113系の湘南電車と並んで、ちょっと思い入れのある乗り物だったかも。 長い間お疲れ様でしたっ! そして、これからもフィリピンの空で頑張ってネ。 ▽2007年版 YS−11型機カレンダー 『ありがとう日本の翼 YS−11フォトコンテスト』の入賞作品から、日本の空を彩ったYS−11型機の雄姿をカレンダーで拝見できるようです。 ▽Snowowlさんの日記より 飛行機がお好きなSnowowl(7331)さん。 9月29日にYS−11のプロペラ部分の拡大画像、そして9月30日には「ありがとう日本の翼」のYS−11さよならグッズの扇子の画像が掲載されています。 それから、やはり自衛隊もYS−11を所有しています。 その1、その2、その3 時折こんな機影を見ることがありますが、まだ運用しているのかしらん? |