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ゼロトレランス方式

荻野誠人

  ゼロトレランス方式というアメリカ生まれの指導法を日本の教育に導入するかどうかの検討が文科省で始まった。ある週刊誌の記事である。これは、学校側があらかじめ規律と懲戒規定を明示して、それに違反した生徒を例外なく処分するという方法である。アメリカでは一応の成果をあげているということだ。ゼロトレランスとは「寛容(トレランス)がない(ゼロ)」 という意味。小学校でとうとう生徒間の殺人事件まで起きるなど、依然として荒廃の続く教育現場を改革しようというわけだろう。
 私がネットで調べたことをもとにして、具体例を想像すると「喫煙は保護者呼び出し、万引きは停学一週間」などというように校則に明記されることになるのだろう。日本の学校では校則は生徒手帳などに書かれていても、罰則までは明らかになっていないのが普通である。
 この記事を書いた義家弘介氏はこのやり方に断固反対。「・・・教育とは権威による導きではなく、情熱と愛情による導きに他ならないと今も頑に信じている ・・・」「・・・寛容さは不可欠」と述べる。私は氏をほとんど知らないが、熱血教師として有名な人だそうだ。
 教育は愛情だ、という意見に反対する人のいるはずがない。氏にはこれからもその理想を高く掲げて、他の教師の手本であり続けてもらいたいと思う。 氏に続く教師が大勢出てくることを期待したい。
 だが、それだけでは混迷している教育のてこ入れは難しいのではないか。
 その理由の一つは、残念ながら、愛情が通じない生徒もいるということだ。こう書くと、それは教師の努力が足りないからだという反論が即座に来るだろう。確かにその点ではさらなる努力の余地はある。しかし、それでもすべての生徒を何の罰 もなしに愛情だけで立ち直らせることは無理なのではないか。
 私にも教室を荒らす生徒たちに週一回ふれた経験があるが、もう保護者が匙を投げていたり無関心だったりという状態で、優しくて穏やかな言葉などはもちろん、説得も叱責も効き目がなく、悪影響が他の生徒に広がらないようにするのが精一杯だった。これが毎日続くのなら、心を病む教師が続出するのも無理ないなと思ったものだ。情けない話ではある。
 それに教師側にも限界がある。例えばヘレン・ケラーを救ったサリバン先生のように献身的な愛情を長期間注ぎ続ければ、どんなにすさんだ子供でも立ち直るのかもしれない。可能性はすべての子供の心にあるのかもしれない。そう思うと残念でならないが、一般の教師にそこまでの愛情を要求するとすれば、それは酷ではないか。面倒を見なければならない生徒が他にも大勢いるといった様々な現実的な制約は大きい。それに、失礼ながら、特別に愛情の豊かな人ばかりが教師になっているわけではない。私も上記のような有り様なので、人のことは言えないが。だからと言って、愛情深い人だけを採用するような方法を開発するのはほとんど不可能だし、仮にそれが出来たとしても、そういう人は限られているので、教師の定員割れを招きかねない。
 このように、氏のやり方だけでは教育現場の悪化を食い止めることは難しいだろう。教師の愛情の及ばないところは、やはり強制力をもつ規則が必要なのではないか。ゼロトレランスはその処分を明記しておく方法であって、確かに威圧する印象はあるが、これまでうやむやだったものが分かりやすくなって、むしろ「親切」であるとさえ言える。
 それに、考えてみれば、悪いことをすれば罰されるのは社会へ出れば当然のこ とである。学校でそういうことをあらかじめ教えるのも意味があろう。罰されて初めて自分のしたことに正面から向き合って反省することもあるだろう。それが年少者に対する罰の本来の目的である。そのためには教師の適切な導きや温かい見守りが必要だが。
 氏が断固反対しているのは、アメリカ流のやり方を念頭に置いているからではないか。調べたところ、アメリカのやり方は厳し過ぎる上に重箱の隅をつついて処分者を出すような傾向があり、私も賛成できない。罰するのが目的のようになっている印象さえ受ける。だが、何もすべてアメリカの真似をしなければならないということはない。日本の実情に合わせて柔軟に変えていけばいいし、保護者や生徒の意見を取り入れることも出来よう。実際、岡山学芸館高等学校では日本版のゼロトレランス方式をすでに実践して効果をあげているという。
 荒れた教育現場を立て直すためには、愛情一本槍ではなくて、規則の面でも一層の改善が必要だろう。アメリカ生まれの方式も検討の余地はある。

 義家弘介「ヤンキー母港で吠える」『週刊文春』2005・11・3/11・10

(2005・12・19)


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