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自然界に学ぶ組織論 ワシの場合

河合 駿

 ご記憶の方も多いことと思いますが、ずいぶん以前に、テレビのコマーシャルで、このようなコピーがありました。“ワシの家のワシの木に、ワシがとまったので、ワシの鉄砲でワシを撃ったら、ワシも驚いたが、ワシも驚いた“というものです。何のコマーシャルだったかは忘れましたし、作者の意図もよくわかりませんが、純粋に面白おかしく、私の記憶では今でも最高の作だったと思っています。
 さて自然界に学ぶ組織論、今回は驚いて空に舞い上がったワシではなく、一緒に驚いた人間ワシの話。

 静岡市に転勤して間もなくの頃、私はまだ20代で、当時流行語となっていた“独身貴族”を謳歌していました。とにかく給料は全部自分のものだから当時は珍しいオーナーカー(古い言葉です。今は自前の車は当たり前ですが)を手に入れ、休みの日には箱根あたりまでぶっ飛ばして、芦ノ湖で雲助そばを食べたり、ゴルフに行ったり。ウィークデーは残業の無い日には決まってマージャン、パチンコ、飲み会などで“彼女いない歴”をひたすら更新し続けていました。
 そのようなある土曜日、たまたま遊びの予定のなかった私は、寮の万年床でマージャン疲れと二日酔いを癒すべくお昼前まで惰眠をむさぼっておりました。
 突然部屋のドアをドンドンとたたく音がしたので開けてみると、寮母さんが「会社からですよ」と電話室に案内してくれました。「はい!」と受話器をとりあげるや否や「おい! ワシや、今から出て来れるか?」と上司がダミ声を上げています。「はい! いけますけど」と私はニヤリとして答えました。とかなんとかいってまたマージャンのお誘いだろうと思っていたのです。
 上司は「キミな、研修のレポートは出来とんのんか?」「いやまだ途中です」「それやったらレポート持って家まで来てくれへんか! ワシんとこは車が置けへんから電車でなッ」
 そういえば大阪の本社から何やら分厚い書類が届いており、上司から「お前やっとけ」と預かったままだったことを思い出しておりました。「途中です」と答えたものの全く見ていなかった私は、さっそく会社に行ってロッカーにほうり込んであった封筒を引っ張り出し、ついでに研修に必要な資料を数枚コピーして、あたかもやりかけのような体をつくり、静岡駅の駐車場に車を預けて電車に乗りました。
 上司の家は清水市(現静岡市清水区)にありました。休みの日には決まって近くのパチンコ店に下駄を履いて出かけるという上司は、かなりの酒豪で何でも大きなヤカンに酒を入れて店に持ち込み、店員さんに酒を温めてもらい、ヤカンの蓋に注いで飲みながらパチンコを一日楽しむのだそうです。あるとき“町の名物男”というシリーズをやっていた静岡新聞社から取材の申し込みがあり『丁重にお断りした』こともあったそうです。
 その大切な日を割いて上司が迎えてくれました。
 「やあ! 良くきたな」です。何だか久しぶりに会ったような気分で挨拶を返すと「昨日キミは浜松に行っておって連絡がとれなんだけど、本社から電話があってな、ワシもうっかりしとったんや、もうレポートの提出期限は過ぎとるでッ。まぁあがれや」と、奥の部屋へ通されました。
 当時私は経理の仕事をしていました。高度成長時代、全国に急激に出先を増やした関係で、各々の事業場決算の実務レベルの均一化を目的として、本社主催で経理社員の研修が行われていました。これは昇進試験も兼ねていました。
 日頃上司から仕事を教わることはなく「仕事は盗んで覚えろ」といわれていた時代で、現場もわかっていない本社の研修など多寡が知れており、役に立つものではないからと、私は勝手にレポート作成をほったらかしにしていたのです。
 居室に通された私は、既にテーブルの上に、会社でよく見ている上司自慢の万年筆をはじめ、四つ切の広用紙、マジック、定規、セロテープ、消しゴムなどが用意されているのに驚いてしまいました。
 「サァ見せてみろ」と上司。私の言い訳が終わらないうちに本社出題のテーマを読み始めていました。「よし、キミな、これのコピーは持ってきたか」。「いや、それ提出用の原紙です」「しょうがないやっちゃな! それやったら下書きなしでいきなりまとめるかぁ」
 上司は私が会社からとりあえず持ってきた資料には目もくれず、いつも重たそうに持っている愛用のカバンからビニールケースに入ったファイルを取り出し、器用に開くと「キミな、この数字をレポートの2ページ目のところに写せ、文章はあとで考えたらエエ」
 管理職は24時間営業と言われていた時代です。セキュリティがどうのとか守秘義務がどうのという今とは違って、会社の資料を持ち歩くのは当たり前で、上司はよく勉強していました。ここ数年来の業績はもとより、静岡県の歴史、経済、人口などの情報が要領よくファイルに整理され、必要な情報が実に手際よく出てくる仕掛けになっていました。
 私はレポートに数字を写しながらそのことに感嘆するとともに、いい給料を貰うためにはこのようにしなくてはならないのだなと、思っていました。
 レポートをまとめるのに夕方までかかりました。殆どが上司の考えたストーリーです。日ごろから本もたくさん読んでいる上司は“ことばの引き出し”も豊富で、実にピタリとくる言葉を選んでくれるのです。私はそれを書き込むロボットの役割を演じただけでした。
 レポートの結果の良い者は本社に呼び出されて事例発表をすることになっていました。上司は本社に行くのが当然のことのように、その発表のレジュメを作るために、広用紙を準備していたのです。そして発表の態度、言葉使いまで自ら模範を示して教えてくれました。
 それにしても私は前日も浜松に出張し「出先を廻るので連絡はとれないから」などといって昼間から会社のオーナーや営業部長と寿司屋の二階で卓を囲んでいた遊び人でしたから、上司は私のことをうすうす感づいているに違いないのに、どうしてこんなにまでして熱心に教えてくれるのか疑問でした。
 やがて隣の部屋で、さっきから奥さんが用意してくれていたスキヤキをいただくことになりました。その日は寮では夕食の出ない日で、久しぶりに味わう家庭の味に舌鼓を打ちました。
 そしてレポートを完成した安堵感もあり、飲むほどに酔うほどに、感謝の気持ちも生まれ、抱いていた疑問について尋ねてみたのです。
 「私のような出来の悪い部下に、どうして家にまで呼んで教えていただけるのですか?」と。上司曰く、「昔な、ワシもワシの上司からそうしてもろたんや。いまこうしておられんのも、その上司のおかげなんや。人間どこかで恩返しをせにゃぁ道にはずれる。その上司は今本社におるけど直接お返しをする機会がなかなかあれへん。だからキミを立派に育てていい仕事をしてもらうのが、その上司に対する恩返しやとワシは思うてんねん」
 10日遅れのレポートは本社が認めてくれて、研修当日私の事例発表もうまくいったのはいうまでもありません。
 後年、本社に転勤となり、静岡での上司の上司であった方が私の上司になりました。あるとき、その上司と一緒に飲む機会があり、一度話してみたくてたまらなかった静岡での出来事を語りました。
 いつも穏やかな上司は、ニコニコしながら「そうか、そんなことがあったのか。すばらしい伝統だね。実は私も私の上司から、そうしてもらったんだよ」と応えてくれたのです。私の胸には、ほのぼのとしたものがこみ上げてきました。そして、あらためて良い先輩たちに囲まれていることに感謝し、自分もこれから後輩にそうして恩返しをしていこうと心に誓っていました。


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