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チューリップの球根

家治綾子

 平成九年二月十五日、父の三回忌の法要が取り行われます。

 八十才を迎えた父は、三代続いた河宗タンス店を閉じる様子もなく、家具の仕入れ、販売、そして昔から使っているリヤカーで配達、と一人で商っておりました。胸の苦しさを訴えて倒れたのはその頃です。

 近くの行岡病院へ救急車で運ばれたのはその翌日、殆ど虫の息状態だったのに、応急処置がよかったのか、父に寿命があったのか、その後、入退院を繰り返しながら、四年の歳月を生きました。

 父がこの世を去って以来、私たち家族の心にはどれほど父を敬愛していたかという思いが、日を追うごとにつのって参ります。そして父から教えられた大切なものが一つ一つ蘇ってくるのです。

 昭和二十年、日本が終戦を迎えたある日、父は姉(十歳)、妹(五歳)と私(八歳)の三人を呼び、チューリップの球根を一つずつ握らせて言いました。

 「これはチューリップの球根だよ。一つずつあげるから鉢に植えてごらん。どんな色の花が咲くか楽しみだよ」

 父の前にちょこんと座った私は、掌の球根を見つめながら、恥ずかしい思いで一杯になり、次第に頬が熱くなるのを感じました。父が私たちに食べ物をくれたのだと一瞬勘違いしたのです。栗の実に見えたのです。お腹がぐるっぐるっと鳴るのがかすかに聞こえました。

 当時、私たちは、いつも空腹でした。病気にかかり、診察を受けると、きまったように、「栄養失調です」と言われたものです。あお向けに寝ると、お腹の皮が背中にひっつきそうなほどやせていました。

 私は食べ物の夢をよく見ました。真っ白な西洋皿に載せられたハムエッグや、ピラミッド状に高く積み上げられた巻きずしなど・・・。百合の球根を縁の下で見つけた時も、てっきりさつま芋だと思ったのです。そしていつになったらお腹一杯、御馳走が食べられるようになるのだろうと、夢から現実に引き戻された時に残念に思ったものでした。

 両親は精一杯働いていましたが、七人家族を養うには十分な収入もなく、わずかな物を少しずつ分け合って食べていました。母は食べ物を口にしない日もありました。

 父は朝早く近くの工場に出かけて行きました。汗まみれになりながら、手慣れぬ作業で一日を過ごし、帰宅してからは、近所の女の人たちに生け花を教えていました。まだ幼かった私たちには、花を育てさせることを思いついたのでしょう。父は準備した鉢に「純子(すみこ)の花」「綾子(あやこ)の花」「仁子(きみこ)の花」と書いた名札を立ててくれました。

 あぶらかすを土によく混ぜ、鉢の真中に球根をほどよく埋めました。水は鉢のふちの方からかけました。毎日、暖かな日差しを浴びて、土の真中がふくれ上がり、固い皮を破って青い芽が出始めました。自然と毎朝早く目が覚めました。朝、昼、夜と鉢の位置を変えるように父から言われていたからです。

 「芽が出て来たよ。」

 「ほんに・・・。」

 父は目を細めて三人の鉢を一つずつ丁寧に見やりました。

 やがて二枚の葉が抱き合ったように出て来ました。

 「葉っぱに水をかけないように注意して・・・。」

 父は土だけをしめらすように言いました。蕾をつけた茎?時は、異様に胸がどきどきしたものです。固く閉じた蕾が少しずつ開き始め、白のようだ、赤のようだという予想がつきました。当時は、赤か白か黄色しかありませんでしたが、それでも嬉しい?と白の霜降りでした。私にはそれがとても珍しく、一番美しいように思え、羨ましそうに見ていました。

 「それなりに、みんな美しいんだよ。綾ちゃん。」

 父は静かに言いました。

 そして、花が散った後も、来年のために球根をきちんと保存しておくことを教えられたのです。その時の父の言葉や、私たちの心の動きは今でも鮮やかに蘇って来ます。

 父はどんな時もあせらず、ゆったりとした心の持ち主でした。目先のことで手一杯の時も、自然の移ろい行く姿を肌で感じとり、時には地上の草花を愛で、時には天上の月を仰ぎ見るという心のゆとりがありました。そして我が子が賢明なら、親のそのような生き方をしっかり見極め、成長していくものだという信念をもっていました。

 父は地位も名誉もない人でしたが、人間としては最高に立派な人であったということに私たちが気づいたのは、ずっと後のことです。

 今、私はマンションのベランダでチューリップを栽培しております。小さなプランターに植えられた球根が割れて、ポツポツと芽を出しています。その成長を大切に大切に見守っております。それは父の息吹のように思えるのです。

 父の姿を忘れまい。父の心を忘れまい。世の中がどんなに変わっていっても、人としての心を忘れまい。それが父の子として育った私たちの使命だと思うのです。

(平成9年1月21日)


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