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アボット投手

荻野誠人

先日、アボットという若いアメリカ人の名ピッチャーが来日して話題をよんだ。この人は生まれつき右の手首から先がない。一体どうやって投球するのだろうとテレビを見ていた。すると、グローブを右手首にのせて胸に押しつけながら、左手でボール投げたかと思うと、すばやくグローブを左手にはめ、打球に備えるのである。その動作は実になめらかで、まるでそうするのがグローブ本来の使いかたであるかのようだった。実際に打球をとって一塁に投げる場面は見られなかったが、おそらく今度は右腕を使ってすばやくグローブをはずすのだろう。

このアボット選手が、右手のことをたずねられて、「右手のないことは全く気にしていない。ものごころついたときから右手がなかったから、そういうものだと思っている」と気さくに答えているのを見て、この人は実に賢い人だと思わずにはいられなかった。そして、ひいき目だとは思うが、両親の教育もすばらしく、理解のある友人にも恵まれたのだろうと、想像をたくましくした。

普通なら、あれほどの障害を背負えば、それにこだわるのではないだろうか。

ある人はいつも暗い気持ちで、引っ込み思案となり、自分の不運を嘆くことだろう。だが、酷な言い方だが、そうしたところで、何のえるものもない。ますます人生を暗くするばかりである。

別の人は「こんなことで負けるものか」と自分の障害とまっこうから戦おうとするだろう。ハンデをばねにして歴史に名を残すほど立派になった人たちもいるので、このタイプをお手本にする人も多い。しかし、このタイプの人は、ともすると「ばかにされたくない」「同情なんてまっぴらだ」などと他人に対して身がまえる傾向があるのではなかろうか。そのうえ自分のハンデをいつも意識しているのだから、気の休まるときがないのではないかと思う。

一方アボット選手は、右手のないことを一つの個性として受けとめているようだ。だからそのことで沈んだり、気負ったりすることもなく、自然な態度でいられるのである。そしてものごとは自然体で取り組んだとき、最もうまくいく。アボット選手がオリンピック・チームのエースにまでなったことがなによりの証拠だ。

アボット選手がこのような自然な態度を身につけるようになったのは、なんといっても両親の教育のたまものだろう。両親は息子に同情したり、特別扱いしたりすることなく、ごく普通の子として育てたのではないだろうか。だからアボット選手自身も両親の態度をそのまま吸収して、自分の右手にこだわらないのである。

そしてこの人は友人にも恵まれたのではないかと思う。私たちはえてして障害をもった人を見ると、いじめるか、同情するか、どちらかの偏った態度をとりがちである。つまり、こちらは一段高いところに立ち、相手を仲間扱いしないのである。ハンデをもった人が他人に対して身がまえる傾向があると先ほど述べたが、それもこちらに原因のある場合が多い。いくら両親の教育がうまくいっていても、周囲にいじめられてばかりでは、アボット少年の性格も歪んだものになってしまっただろう。また、同情はいじめよりはましかもしれないが、依存心や被害者意識をつのらせて、自立を妨げるおそれがある。いずれにしても、右手に対するあのようなこだわりのない態度は身につかなかっただろう。

しかし、アボット少年のまわりの子供たちは、右手のない子を普通の仲間として受け入れたのではないだろうか。そのおかげでこだわりのない性格がしっかりと根づき、今日の名投手を生む素地が出来上がったのだろうと私は思う。個性を尊重するアメリカの良い面が表れた、というべきか。

一方、私たちはどうだろう。私たちは日頃、背が低い、学歴がない、収入が少ないなどと、右手のないことに比べればそれほどでもない「ハンデ」に悩み、引け目を感じている。また、そういった「ハンデ」をもつ人を見下したり、あわれんだりしている。要するに自分で人生を暗いものにし、人間関係を損なっているのである。おまけに、私たち大人はそのような振る舞いを見せることによって、子供にまでこだわりや偏見を植えつけて、同じような人間に仕立て上げているのである。

私たちは、右手はちゃんとついている。けれども、それ以上に大切なものを失ってしまっているのかもしれない。

(1988・8・13)


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