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南国土佐の人たち

鬼島三男

二年ほど前に四国へ旅をした。

瀬戸大橋からのすばらしい眺望、丸亀城から見はるかす瀬戸内海、松山の道後温泉での安らぎ・・・いずれも私たち老夫婦にとって忘れられない旅のひとこまであった。

ことに印象的だったのは、南国土佐であった。

月の名所として知られる桂浜、海岸線に林立するフェニックス、果てしない太平洋の青海原は、私の住む京浜地方では決して味わえない景観だった。

最後に訪れた所は、竜河洞という鍾乳洞で、全長四キロにも及び、大小二十ほどの滝、巨大な鍾乳石、そしてコウモリ、エビ、カニなども生息しており、探勝コースだけでも八百メートルあるという。

竜河洞の入口のすぐそばに何軒か並んでいたみやげもの屋を通りかかると、ある店の主人だろうか、年輩の男の方が「足元に注意してお帰り下さい」と何気なく声をかけてくれた。そのあたりは道に起伏があり、歩くのに少しばかり骨が折れる。すると、私たちのそばを歩いていた見知らぬ観光客が「ありがとうございます」と応えた。やはり年輩の方だった。私は、よくお礼を言えるもんだなあ、と妻に言った。妻は、やはり心のやさしい人同士なのね、と言った。

見ると、その男の方は、前を素通りしていく人みんなに、足元にお気をつけ下さい、と声をかけていた。営利などとは無縁のその行為にその方の心が表れていた。


旅を終えて帰宅した後でこの高知でのすがすがしい体験を高知新聞に投稿した。すると数日後、それは投書欄に掲載された。私の名前とともに住所も付記されており、間もなく八人の地元の方から手紙や葉書をいただくこととなった。

文面は、高知県人をほめてくださってありがとうございます、という丁寧なものだったが、中には、またお越しの際には拙宅にお泊まり下さい、という方もあった。ご自分の文集や詩集を送ってくださった方もあった。高知の方たちの温かい心がしみじみと感じられた。

その中のYさんという方とはその後も文通が続き、今ではすっかり親戚以上のおつきあいとなっている。しかも、私の親友の娘さんが就職のお世話にまでなったのである。

Nさんというその娘さんは大学卒業後、福祉施設に就職を希望していた。Nさんは以前高知へ旅行したことがあり、高知のような明るい南国の福祉施設に勤務できたら、と言っていた。

このことをYさんに電話すると、それではとにかくお会いしてから、できれば就職先を探してあげたい、と言ってくれた。Nさんが早速会いに行ったところ、心がけの大変よい人ということで、施設を紹介してもらい、面接を受けるごとにほめられて、とんとん拍子に就職が決まったのだった。

思えば、旅先でふれた温かい心がきっかけとなって、思いもよらぬ嬉しい実りがもたらされたのである。

そのきっかけを作ってくれたあの店のご主人は、今も見ず知らずの観光客にさりげなく声をかけておられるのだろう、「足元にお気をつけ下さい」と。もうお会いすることはないかもしれないが、心からご健康を祈りたい。


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