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ありがとう、上杉君

荻野誠人

 上杉君と僕とは同い年である。十八歳頃から二十三歳頃まで、某宗教団体で同じ釜の飯を食った仲だ。
 上杉君は僕ら学生信者の仲間うちでは余り目立つ存在ではなかった。背が低くて、やせていて、残念ながら男前とは言えなかった。長髪で、度の強い黒縁の眼鏡をかけ、一見暗い感じだった。言葉を選びながら慎重に話すのが常で、口のうまい声の大きい連中の中ではどうも押され気味だったと思う。それでも、陽気でアホな仲間に刺激されて、段々冗談なども言うようにはなっていったが、とうとう人をゲラゲラ笑わせる境地に到達することはできなかったようだ。自分には表現力がないと時々ぶつぶつ言っていたのを覚えている。また、羽目をはずして遊び回るなどというのはこの御仁の最もやりそうもないことだったし、女性の噂が出たことも一度もなかった。
 この地味な信仰仲間は最初の頃は特に無愛想だった。当時、学生リーダーの間で、交流を密にしようということで、誕生日などには電話をかけあおうというわざとらしい取決めをしたことがあった。正直に実行した純真な信者はほとんど僕一人だっただろうが、とにかく上杉君の誕生日の夜に電話をかけた。するともう寝ていたのか、えらく不機嫌そうな声で電話に出てきたのだ。ヤバイ!、と思ったがもう後の祭り。「誕生日おめでとう」と言うと、返ってきたのは「それだけ?」だった。何とか取り繕ってすぐに電話を切ったことは言うまでもない。
 だが、この無愛想な友人は某宗教団体の神奈川県の学生代表を立派に務めていた。(もっともその役職も僕などに押しつけられたと言えなくもなかったが)。抜群の指導力で学生信者をぐいぐい引っ張ったり、派手な演出で行事を大成功させたり、といったことはなかったが、手堅く、手落ちなく仕事をこなしていった。僕はどんな仕事でも上杉君に頼んでしまえば、それでもう安心してしまうのだった。もっとも本人は、代表などには余り向いていないと思っていたようだ。確かに総司令官というよりは参謀型の人物だったのだろう。だが、参謀としては極めて有能だったことも間違いない。
 我らの代表は建築専攻の優秀な学生だった。大学生が遊んでばかりというのは決して嘘ではないが、それは大体文科系の学生に当てはまることで、理科系の学生は普通実験などで非常に忙しい。アルバイトもできないと嘆いていた人を身近に知っている。上杉君もやはり忙しかったのだろう。だが、決して代表の仕事を手抜きしなかったし、弱音を吐いたことも一度もなかった。逆に「忙しいのに、これだけのことをやってる俺は偉いんだ」といった態度も見せなかった。優れた才能をもち、立派に仕事をこなしていたのに、自己顕示や自慢や虚栄といったものからは遠く離れていた。僕たちは時々「上杉主席!」と呼んだりしたが、相手にされなかった。
 この謙虚な同志はいわゆる皆のアイドルではなかったが、慕っている人、頼りにしている人は多かったし、もちろん悪口などはどこからも聞こえてこなかった。感情を余り表に出すタイプではなく、一見素っ気ない感じがしないでもなかったが、上杉君にひかれる人が多かったのは、やはりその温かさ----言葉や容貌ではなく、心や行ないに温かさがあったからだろう。
 たとえば「聖地」での学生信者の合宿の最中に、時間をやりくりすれば何とかなるのに、僕がめんどうくさがって、参加者の聖地見学を省略しようとしたら、「皆に聖地を見せてやろうとは思わないのか」と珍しく厳しい口調で注意してきたこともあった。他人の欠点を責めてばかりいる僕を、「その欠点を直してやろうという気はないのか」とたしなめてくれたことは、以前「友のひとこと」という作品に書いた通りである。また、合宿で後輩に仕事を任せることになって、僕は「自主性を育てる」という大義名分を立ててさっさと寝てしまったが、上杉君は最後まで付き合ってやったそうだ。そんなことをやっていて熱を出してしまったことも一度あった。余り体は頑丈ではなかったのだ。
 この心優しい世話役はおとなしそうな印象を与えていたようだが、断固たる態度をとることもあった。当時、学生の上に若い社会人の組織があった。その幹部の人たちが自分たちに批判的な学生リーダーを密かに辞めさせようとして、その根回しのためにほかの学生リーダーを集めたことがあった。僕は同席していなかったが、その席で会議の目的を察した上杉君は「そのような閉鎖的なやり方はよくない!」と反発したそうで、そのおかげで幹部の狙いは、当の学生リーダーにも知られることになり、結局うまくいかなかったそうである。
 また、合宿の際、専従者達が信者ではない参加者を強引に入信させようとして多くの学生の反発を買い、上杉君が僕たち数人と一緒に県の最高責任者に会って抗議するという一幕もあった。いい年をした信者でも、普段華々しい活動をしていて、かっこいいことも言っているのに、上層部の理不尽な行為に対しては、からきし意気地のない人が多かった。だが、この一見喧嘩の弱そうな学生代表は、実はなかなかの勇者だったのだ。
 僕たち信仰の仲間は信仰や人生についてなど、夜遅くまで実によく議論したものだった。楽しい思い出である。だが、上杉君とどんなことを話したのかは、もうほとんど思い出せない。ただ、この建築学の徒には、真理は人間には決してとらえられないという懐疑主義者のようなところがあったのは印象に残っている。つまり自分が今正しいと思っていることも結局本当にそうなのかは分からないという、さめた考えの持ち主だったのだ。だから、一つの主義に熱狂するようなことはなかった。僕と議論すると何となく僕の方が押し気味になることが多かったが、それは単にこちらがすぐムキになるからで、それにそもそも向こうは議論の勝ち負けなどにこだわってはいなかった。
 さて、当時の僕は性格が悪かった。神経質で怒りっぽく、常に人を馬鹿にしたような態度をとり、人が傷つくことも平気で口走り、皆の嫌われ者だった。特に入信後の三年位はひどかった。上杉君にも、無責任に仕事を押しつけたり、腹立ちまぎれに暴言を吐いたりしたことなどよく覚えている。当時の僕は気づいていなかったが、今思えばあちらは我慢に我慢を重ねていたのではないだろうか。これも合宿の時だったが、「石を投げると荻野が嫌いだという奴に当たるよ」と言われたことがあった。これはご本人の意見でもあったのだろう。あのような言葉を選ぶ男がこんなことを言ったのだから、その怒りやいら立ちは相当なものだったのだろう。(この時、頭に来た僕は「君なんか、何の感化力もないじゃないか」とやり返した。これはまさに暴言だったが、強力な指導力がないという意味では、上杉君の弱点をついていたので、かなり傷つけたようである。あとで「どうせ僕は感化力がありませんよ・・・」といじけていた)。
 ところが、僕らの宗教の教義には、「嫌な人や自分を怒らせる人は自分の魂を磨くためのありがたい砥石(といし)なのです」というのがあったのである。この教えは僕にとっては大変都合が良く、その宗教を追い出されもせず、そこで多少は成長できたのも、一つはまわりの信者たちにこういう発想があればこそだった。だが、僕と年中顔を突き合わせていた上杉君にとっては迷惑この上ない教えだっただろう。だから、たとえ宗教という枠があったとはいえ、長年一緒に我慢して活動し、時には貴重な忠告を与えてくれた親友に僕は大きな借りがあるのだ。今思えばその借りを全然返していない。あちらが留学しているあいだに僕が信仰を離れ、次いで僕の方も何年も外国に出かけてしまい、すっかりご無沙汰になってしまったのだ。ここで書いたような感謝とお詫びを手紙で伝えたのは、もう死の宣告が下ってからだった----。


 僕の誕生日に丸いケーキをくれたことがある。確か彼が留学する前の年だった。そんなことを今ふと思い出した。・・・勝手な想像で申し訳ないが、ずいぶん無理をしたのではないだろうか。プレゼントを、しかも僕なんかに贈るということは感情表現の苦手な上杉君にとって難事だったような気もする。こちらも、嬉しいことは嬉しかったが、女性にもらったときとはまた違った妙な照れや戸惑いを感じたものである。その時向こうがどんな顔をしていたかは覚えていない。
 ワープロを打つ手を止めて、引き出しの奥をさぐってみた。すると、そのケーキの濃い緑色の包み紙が出てきた。丁寧にたたんだその紙には「1978・11・4 上杉君より」とボールペンで書いてある。僕がまだまだ性格の悪かった頃である。

(1994・9・8、1995・5・3改稿)


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