目次ホームページヘ  作者・テーマ別作者別

他人の感動

荻野誠人

 「馬鹿じゃないのか、こんなことに感動するなんて。」
 私は隣の席の同級生にささやいた。相手もうなずいた。退屈だった。

 白牡丹といふといへども紅ほのか  高浜虚子

 赤い椿白い椿と落ちにけり      河東碧梧桐

 学生時代、俳句や短歌の授業はいつも低調だった。先生がいかにその作品がすばらしいかを熱っぽく語ってくれても、プリントを刷って配ってくれても、生徒からはろくな反応がなかった。先生は困っただろうなあと今にして思う。たまにそんな先生を助けて上げようと心の優しい生徒が質問したりしていた。

 今でも正直、例えば上の俳句のどこが感動的なんだろうと思う。自分を作者の立場に置いてみても、一向にピンとこない。似たような経験を捜し出そうとしてみる。そう言えば、小学生の頃、皿の上に載った骨つきチキンとレモンの切れ端の色の組み合わせがずいぶんきれいでちょっと驚いたのを今でも覚えている。朝、腕時計をした時、金属バンドをひやりと感じ、ああ秋が深まっていくんだなあと思うことがある。そういうことと何か共通点があるだろうか。そんな風に考えをめぐらすのだが、やはり作者の感動を追体験することは出来ない。しかもその俳句が教科書に載るほどの傑作だというのだから、ますます分からない。

 ただ、昔と今とでは私の態度には違いがある。

 以前は白い牡丹に赤みがさしていることや椿が落ちたことに感動している人を馬鹿にしていた。それで終わりだった。授業が退屈だったから、わざとふてくされたという面はあっただろうが、それを割り引いても、やはり冷笑的な態度だった。

 今では、自分には理解出来ないが、そういう感じ方もあるのだろうと尊重する態度をとっているつもりである。他人の立場に立てるようになったのだろうか。

 少なくとも作者が感動していることは間違いないのだ。作者にとっては、牡丹の赤みも落下する椿も心を打つものなのである。でなければ俳句にするわけがない。ひょっとするとそういうことに感動するのはその作者だけなのかもしれない。だが、それに共鳴出来ないからといって、馬鹿にするのは自分の心の狭さ、冷たさ、想像力のなさを証明するようなものではないか。

 それと似たようなことは日常生活でもよく起こっていると言えないだろうか。他人の感動だけでなく、好みや趣味を冷やかに見下すのがそれだ。

 ある種の音楽に熱狂する若者を馬鹿にする人が多いのは、今も昔も変わらない。プロの将棋指しが、将棋なんか下らないという態度の記者に腹を立てたという記事や、批評家が趣味のジグソーパズルをけなされて反論している文章も読んだことがある。新聞の投書欄でも余計なお節介に憤る投書が時々見つかる。知り合いの恋人や結婚相手について「理想が低い」「気が知れない」などと陰口を叩くのは何度も聞いた。実は私などは学生の頃、先頭に立ってそういうことを言う方だった。

 だが、音楽も将棋もジグソーパズルも恋人もその人にとっては大事なものであり、しかも善悪とは無関係で、別に周囲に害をもたらすわけではない。だから第三者には、それが下らないものに思えても、口出しする権利などないのだ。むしろ当人にとっては大事なものなのだから、と尊重してしかるべし、ではないか。

 こういう他人に対する無理解、無神経な態度や発言が、どれだけ人間関係をささくれだったものにしていることだろうか。

1999・9・23

 



目次ホームページヘ  作者・テーマ別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp