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対話で見つけた自分の言葉

吉柴美奈子


 一人暮らしにも慣れ、大学生活にもやっと慣れてきた3年の春、私は、仙台市内にある「フリースペースつなぎっこ不登校親の会」という、不登校の子どもをもつ親を支えるボランティアがあることを知った。不登校の児童生徒の数は年々増加の一途をたどっている。そして最近では、この増加傾向から「誰にでも起こりうること」としての認識が強まり、むやみな登校刺激を止め、出席日数にこだわらなくても、進学に関しては多くの道が開かれはじめていることを聞いていた。
 私は中学3年の時、不登校だった。ほぼ一年近く教室には入れなかった。不登校は怠け、甘え…。「行きたいのに行けない」という気持ちを理解してもらうのはとても難しかった。それから10年近くが経過し、私も「あの時間は必要だった」と言えるようになり、不登校の児童生徒が一番苦しむ進学問題に関して、ある種規制緩和とも言うべきものが進んでいることを知った時は、少なからずうれしかった。
 その中で「不登校親の会」。自分も経験があるから、子どもの気持ちは何となく分かる。では、今まさに不登校の渦中にいる子どもを見ている親たちの心の中にはどんなものがあるのだろう。今なら一歩引いた立場で見られるかもしれない。自分の経験を生かして、誰かの役に立てるかもしれない。それが親の会への参加のきっかけだった。
 マンションの小さな一室に、毎回溢れんばかりの親たちが市内、県内から集まった。車座に座って、不登校という同じ悩みをもつ親たちが、子どものことや自分の考えていることを話し合う。悩みを共有することで、いつも付きまとう不安から少しでも解放されて、何か新しいきっかけが見つかれば、というのが会の目的だった。参加者の多くは母親だった。私は「経験者」の一人として、話を聞く側にまわった。昼夜逆転、家庭内暴力、親としての不安、子どもの将来への不安。涙ながらに語る人、どうしたらいいのか解決策を教えてほしいと頭を下げる人。本当に心の底から苦しんでいる姿を見ていると、とても他人事とは思えなかった。そして、私も家族にこんなふうに心配をかけていたのかと思うと、胸が詰まる思いだった。
 話を聞いていると、どうしても10年前の自分が頭の中に戻ってくる。人の声を避け、気配を殺し、小さくなって泣いてばかりいたあの頃の私。この親たちの向こうには、あの頃の「私」がいる。どうしても守ってやりたくて、私は自分がその時どう思っていたのかを一生懸命話した。まるで10年前の私をかばうかのように。
 会が終わると、「子どもの気持ちってなかなか聞けないから。」「とっても伝わってきました。」「経験を踏まえていると言葉に厚みがありますよね。」と言われることがあった。自分のことしか話さないのに、どうしてこんなに、と不思議で仕方がなかった。
 ある日、会が終わった後で世話人の方と食事をしている時に、「吉柴さんは自分の言葉を持っているよね。」と言われた。「自分の言葉」。言われた時にはピンとこなかった。しかし、自分の思いを話すことが「自分の言葉」であるならば、私はずっ と、自分の思いを語ることでしか、自分を伝える手段を知らなかったのだ。
 自分の思いを話さなければ相手に何も分かってもらえない。初めてそう感じたのは、高校入試の面接の時だった。内申書の中には出席日数も学力も足りない、泣いてばかりの「私」しかいない。でも、どうしても高校に行きたい。内申書一枚では私の思いは絶対に分かってもらえない。私は必死だった。
 ある高校の面接官の先生には、すぐに出席日数の不足を指摘された。それまでも出席日数の不足を何度か聞かれたことがあった。その度に、私もどう答えていいのか分からず、口をつぐんでしまうことが多かった。この頃は受ける高校すべてが不合格で、面接試験があるのは、この高校が最後だった。今言わないともう後がない。私の思いは分かってもらえない。また紙一枚で振り落とされるのか。そう思ったからこそ、余計に思いが溢れたのかもしれない。今はできていないことが多いけど、どうしても高校に入りたい。もう一度やってみたい。私は一息に話した。途中で止められなかった。先生は、私の話しを黙って聞いていてくださったが、ああ、もうだめだなと思った。すると先生は、「あなたの思いは充分分かりました。あなたならどこに行ってもちゃんとやっていけます。ここじゃなくてもきっと大丈夫。大丈夫ですよ。」と言ってくださった。
 うれしかった。何より「大丈夫」と言われたことがうれしかった。学校に行けない、他の人と同じことができない自分を「大丈 夫だ。」なんて思えたことはなかった。「できない自分」を、私は自分で責め続けていた。そんな私が初めて「大丈夫」と言われた。本当にうれしかった。自分の思いを聞いてもらえるというのはこんなにもうれしいことなのかと、私は身をもって体験した。
 私はこうしたいと思っている。私はこう感じているというのを少しでも相手に伝えられるようにするためには、まず自分をよく知らなければならない。自分の心に耳を傾け、何をしようとしているのかをよく聞き取らなければならない。そして自分の思いを言葉に表して、相手に伝えて行く。それが「自分の言葉を持つ」ということだと分かったのは、大学に入ってからだった。
 二年の時、ゼミ発表で、ただレジュメを読むだけの発表を見た。それは聞いていても何も伝わってこないし、何を言おうとしているのかもちっとも分からなかった。だからせめて、自分の発表の最後くらいは、調べたものに対して自分は何を感じ、どう思ったのかも話そうと思った。発表して質疑応答をした後、先生に質問された。しかし、前もって準備しておかなかったために、的確な答えをすることができなかった。ただ自分はこうするということをまくし立てて終わってしまった。しかし、それを聞いていてくださった先生は「吉柴の言うことはちゃんと伝わるから。」と言ってくださった。
 この時もうれしかった。私の思いがちゃんと通じているというのを感じられて、とてもうれしかった。この頃の私は大学をあまり楽しいと思えず、自分のやりたいことも明確ではなかった。ただ何となく過ごしていた。そこに与えられたゼミ発表の課題であった。少しずつ調べるうちに、テーマに合った本や、さまざまな要因を自分で見つけられるようになっていった。「発見」が増えてきたのだ。「発見」は、講義を受けている最中にも時々ある。しかし、自分で調べて組み立てていく中での「発見」は、また違った面白さがあった。これが「学問」というのだろうか。だとしたら、学問とは面白いものなのかもしれないと思い始めていた。それらをうまく伝えることはできなかったと思う。しかし、私は、私自身の存在を認めてもらえたようで、とてもうれしかった。
 そして私は思った。自分の声を誰かに聞いてもらえるというのは、とてもうれしいことだし、そのおかげで、生きていて良かったと思うことがたくさんあった。だから今度は私が、誰かの声に耳を傾けられるような人間になろうと。私がその人の存在を受けとめられる人間になろうと思った。
 親の会では、悩みに悩みぬいた親の話を何時間も聞くことが度々あった。話を聞きながら、一緒に涙を流したこともあった。最初は泣いていた人が、少しづつ笑顔を見せてくれるようになった時にはうれしかった。その中で感じたのは、「みんな話を聞いてもらいたいんだな」ということと、「話したいんだな」ということだった。  自分の悩みを人に話す。自分の中の闇の部分を開示していくのは並大抵のことではない。不登校にはさまざまな要因が関係している。家庭内の問題、学校の先生との関係。人には、まして初めて来た場所で、これらのことを話すのには相当の勇気がいる。しかし、勇気をふり絞った分、その向こうには新しい何かがある。私はその勇気を大きく称えたいし、何よりも、私を信頼して話してくれたということに、感謝の気持ちをもった。
 どうしたらいいのか迷い、生きることにさえ自信をなくしている親たちの心は、子ども以上に固く閉ざされていることが多い。「親の会」なのだから、ここに来た時くらいは安心して好きなことを言ってもらいたい。悩んでいるのは自分だけでなく、他にも仲間がいることを知ってもらいたい。人は一人じゃない。どんなに孤独になったって、見ていてくれる人は必ずいる。これらは全て、私が今まで生きてきた中で感じたことであり、その原点は不登校の時にある。私が大丈夫だったのだから、いつか必ず皆が大丈夫になる。私は専門家ではないから特別なことは何もできない。ただ、私にできることは、「自分の言葉」をもって、私自身を開示していくこと。そうできるようになったのは、私を支えてくれた人たちに出会えたから。そ して誰にでもそういう人が必ずいるということを伝えたかった。
 「親の会」に参加するようになって一年が過ぎた。今は一時期の盛況ぶりも落ち着きを見せ、皆が少しずつ自分のやり方を模索しつつ動いている。各々で動けるだけの底力を誰もが持っていたのだ。そのことは風の便りでしか聞けなくなっていたが、うれしかった。
 この一年半の間に、私は自分の経験を話すことで、不登校をしてから今までの十年とずっと向かい合ってきた。十年経った今でも、子どもの側から聞えてくる悩みは同じ。親の側からの悩みも、一年半の間では何も変わらなかった。「不登校」という言葉は認められつつあっても、その深い部分まで本当に理解してもらえているかというと、少なからず疑問が残った。
 そして何より一番感じたのは、話したり聞いてもらったりするという「対話」の重要性である。不登校の時に限らず、私が自分の思いをきちんと言葉で話せたのは、常に聞いてくれる人がいたからだと思う。話を聞いてもらえるあたたかさを感じたからこそ、今度は自分が話を聞ける人間になりたいと思った。暗い部分を開示して話すことができたのは、やはり聞いてくれる人がいて、そこから何かを感じとり、私を信頼して話してくれる人がいたからだと思う。対話は人と人との信頼関係をつくる第一歩だと思う。
 会話、対話、話し合い。言葉にすると、「人と話す」という意味のものはたくさんある。しかし、「人と向かい合って話す」ということが、なかなかできなくなっているのではないだろうか。携帯電話やパソコンのメールなど、人と会わなくても話せる道具がたくさんある。面と向かい合わなくても話ができることの利点は、言い難いことが言えたり、文章にして前もって自分で確認してから相手に伝えられることだろう。しかし、相手の「今」の様子を感じることはできない。私は、人と向かい合って話すからこそ「対話」であり、その人の醸し出している雰囲気や、声の調子からでも、伝わるものすべてを含めたものが「対話」だと思う。人が言葉を発する時、その人自身の熱も一緒に発せられる。言葉にのせられた熱は、冷たくなった心をそっとあたためてくれる。生きる勇気を与えてくれる。それらを感じて初めて、自分が人の中で生きているというのを体感できるのではないだろうか。それらが分からなくなったら、人は本当に孤独になってしまう。人の中にいるという感覚を実感できなくなると思う。
 人というのは不思議なもので、直接向かい合って話していると、話している相手を通して自分が見えることがある。話をしているうちに、自分では思いもよらなかった言葉が自分の口から出て来たりして、思わず驚くこともある。自分の中の意外な思いが発見されることがあるのだ。私は人と向かい合って話すことで、「まだ大丈夫な私」を何度も見つけさせてもらった。そして、自分の悩んでいることの答えは、意外にも自分の中にあることにも気付かせてもらった。「人は鏡」というが、まさにその通りであると思う。
 「親の会」で「親」と話すということに、もちろん最初は抵抗があった。私はあくまでも学生であり、不登校の一経験者に過ぎない。そして私の話す経験は主観のかたまりであり、具体的な対策を講じられるほどのものではないことを、自分でよく分かっていた。そんな私が親の話を聞くなんておこがましいのではないかと悩んだこともあった。でも話をするうちに、「親」や「学生」といったものを超えて、一人の人間としてこの問題にどう立ち向かうかということを考え合えたと思う。「親の会」での話し合いは、人と人との関係をつなぐ糸をたくさん紡いでくれた。だからこそ、考え合えたのだと思う。
 誰かのためにと思って始めたことが、自分を振り返り、またその中で、これからの私が何をしていったらいいのかということを考える時間を多く与えてくれた。私はこれからも常に自分を開示していくために、自分の心を意識して、正直に生きていきたい。そしてこれからも、話のできるあたたかさを感じ取ってもらえるよう、「自分の言葉」を持った人間であり続けたい。


 この作品は『心の風景』のリンク先『NIYO NIYO』の会田様のご厚意により、転載させて頂きました。誠にありがとうございました。『NIYO NIYO』の中では次のURLに掲載されています。http://www.niyoniyo.net/vol10/myculture/words.htm


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