推敲は自分の心を見直す機会荻野誠人 文章を書いたら、推敲しろ、とよく言われます。書き上げてから、時間をおいて落ち着いて読み直してみると、意味不明な点、矛盾している点、重複している点、大げさな点など、とても人様に読んで頂けないような欠陥が見つかることが多いものです。ふつう一度で完成度の高い文章はなかなか書けませんから、推敲は不可欠な作業だと思います。 私は、平凡な書き手ですが、仕事柄もあって、かなり多くの文章を書いてきました。長年推敲を繰り返していくうちに、推敲は単に文章をうまくするだけの作業ではないと思うようになってきました。 では何かと言いますと、自分の心を知る機会でもあるということです。「文は人なり」と言われます。文章に書き手の人柄が表れるという意味です。どんな文章でも、完全に書き手の人柄を表すかというと、そこまでは思いませんが、文章から書き手の人柄を強く感じることは時々あります。もっとも、私の感じ方が正しいかどうかは別ですが。また、自分の文章を読んでみると、自分の性格の長所短所が表れていると感じることもあります。長所の場合は放っておいてもいいのでしょうが、短所の表れは推敲する必要があると思うのです。なぜなら、それは読み手を不快にするからです。 文章の主題自体がまずい場合、たとえば差別を助長するような主題は論外で、人間性を根本的に疑われますし、そのような文章はすべて破棄するしかありません。ここではもっと気づきにくい、文章の細かい点を、短所の表れた例としてあげたいと思います。なお、例文は私がこしらえたものです。 私の忠告が役立ったようで、嬉しかった。 確かに「忠告」だったのかもしれません。その場合は「忠告」という言葉でいいでしょう。 その日は、急に友だちに頼まれて、映画に行く予定を変更して、ボランティア活動に参加しました。 「映画に行く予定を変更して」は恩きせがましい性格の表れかもしれません。ボランティア活動には渋々参加したのではないかという解釈も生まれるかと思います。そういうつもりがなくても、友だちやそのボランティアの関係者がこの文を読んだら、嫌味だなと感じるかもしれませんし、せっかくの予定をつぶしてしまって悪かったなと思うかもしれません。その部分は特に必要がなければ、書かない方がいいのではないかと思います。 以前も言いましたように、木曜日は定例の会議があって、時間がとれません。 この「以前も言いましたように」ですが、「同じことを言って耳障りでごめんなさい」という気持ちを表す場合もあるでしょう。 先日は、こちらの不手際で結果的にご迷惑をかけることになり、大変申し訳ありませんでした。 これは謝罪会見でもよく聞かれる言い回しです。「文は人なり」は書いたものだけでなく、発言にも当てはまるでしょう。むしろ発言の方がこわいと言えます。推敲することが出来ず、ありのままの自分がさらけ出されることになりますから。 以上のような推敲には、自分の欠点を隠して、自分の利益を図るという利己的な一面もないではありません。それでも、不用意な表現で、読み手を怒らせたり傷つけたりするよりはましではないかと思います。それに、そもそも完全に利己主義を否定するのは非現実的ですし。 一方、自分の性格の否定的な面を表すような表現を推敲することは、読み手の気持ちを大切にすることになるだけでなく、自分の性格を知り、修正する結果にもなると思います。何度も似たようなまずい表現にぶつかると、例えば「自分はけっこう押しつけがましい性格なんだ」と気づくかもしれません。そして欠点を表す表現を推敲していくことで、そういう性格が表れることを徐々に減らしていけるのではないかと思うのです。 推敲は自分の心と向き合い、自分を向上させるとてもいい機会だと思います。 2011・4・13
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