私の人間観素描荻野誠人 古来、多くの哲学者や宗教家が人間を「中間的な」存在と見なしている。人は神と悪魔、善と悪、偉大と悲惨などの中間に位置するものだというのである。もちろん先人たちは、我々が努力して、あるいは神などの力にすがって、前者に近づかなければならないと諭している。もっともな見解だと思う。 ところで、私は別な意味でも人間を中間的な存在だと考えている。それは人間が自然と非自然(あるいは人工)の要素をあわせもっている、という意味である。別の言い方をすれば、人間は自然の中に閉じ込められているのでもなく、かと言って、自然と完全に手を切ったのでもない、ということである。 人間は自然から生まれた。人間を構成する物質は自然界のものである。人間は自然なしでは生きられない。こういうことを考えると人間はあくまで自然の一部に過ぎない。 しかし、一方、人間は自然の法則に必ずしも従わない。巨大な頭脳を使って自然界にないものを作り出すこともできれば、自然を改造し、破壊することもできる。こういった特徴は他の生物には見られないもので、人間を自然の忠実な子供と見なすことには無理がある。 自然からすっかり離れれば、人間は滅亡してしまう。しかし、完全に自然に戻れば、人間は人間でなくなってしまう。 ここからどういう結論が出るか。人間は自然と非自然の要素をうまく調和させて生きていくのが一番いいのではないか、ということである。 自然に反した人工的な環境での生活がいかに問題であるかは、もう常識になっているので、ここでは言わない。一方、そのような不健全な傾向の反動で、自然に戻ろうとする運動もなかなか盛んである。それは悪いことではないと思う。ただし、中には文化を敵視し、原始時代に帰ろうとするかのようなものもあり、それには疑問を覚えてしまう。なぜなら、そんなことは元々不可能だからだ。人間は自然をはみ出すための大きな脳を持つように運命づけられており、また、生まれた瞬間から否応なく家族や社会に教育されてしまうからだ。完全に自然に戻ろうとするのなら、すべての人間を狼にでも育ててもらうしかないだろう。 確かに文化の中には存在しない方がいいと思えるものも少なくない。例えば、生き物を面白半分に殺したり、虐待したりするようなものが文化の衣をまとってまかりとおっている。しかし、だからと言って、文化すべてを否定するのは行き過ぎであろう。これまでに人類に貢献してきたものも数多いのだから。農業や医学などがなければ、人類は現在まで生き残れたかどうか。それらの中にも文化の名に値しない部分はあるのだが、優れた部分は今後も大切に育てていくべきだと思う。 個人が好みで原始人に戻ろうとするのは構わないが、本当の意味で原始人になれるとは思えないし、もしもその考え方が万人の幸せに通じると思っているとしたら、少々危険なのではないかと思うが、どうだろうか。 さて、パソコンは私たちの生活にすっかり定着したようだ。小学生の中にさえマニアが大勢いて大人は立場がない。子供がパソコンに夢中になっている様子を見て眉をひそめる人もいるが、「機械なんか」と拒否反応を示すことはないだろう。パソコンは使いようによっては私たちの生活を豊かにしてくれる優れた機械だからだ。それは自分で使ってみれば実感出来る。ただ、来る日も来る日も家の中でパソコンにかじりついているとしたら、やはりそれは問題であろう。子供のうちはぜひ自然にも十分触れさせて、本能や体を鍛え、人間の生き物としての基礎を固めさせるべきだと思う。 理想を言えば、野人と文明人が調和しているような人がいいということになるわけだ。言うは易し、行うは難し、と思う向きもあろうが、自然にも文化にも触れさせていけば、そのような人間に育てるのは不可能ではないと思う。もっとも、一人一人個性があるから、ある程度どちらかの要素が強くはなるだろう。しかし、人類全体として両者の調和がいとれていればいい。それが人間の最も望ましいあり方なのではないだろうか。 (1997・3・2) |