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障害者になって分かった優しさ

tensi

 1、障害の原因と症状
 産まれてすぐに、結核に罹った。父が結核で、母にも移っていたのだ。両親共療養所に入った。祖母が私を見るはずだったが、私より両親の世話が忙しく、ほっておかれた。死にかけたが、何とか生き延びた。結核とわかったのは、治ってからだった。自力で治ったものの、力を使い切ったのか、すぐ風邪を引く。熱がでると、中耳炎を併発する。耳鼻科に年中通ったが、少し良くなると、止めてしまうので、慢性化した。大学の頃、もう聞こえにくかった。  卒業後、横浜に勤めたが、営業活動に支障が出るようになった。大阪に帰り、大学病院で検査した。結果は慢性の中耳炎で、悪性の真珠種だった。聴力もさることながら、手術しないと、脳にまで影響すると言われ、入院した。この時左耳ニ回、右耳一回の手術だった。左耳の手術の時、麻酔が効かず、痛みで舌を吸い込み、意識不明になった。十時間に及ぶ手術は失敗だった。やりなおして、左耳を二回手術したのだ。一年後、再入院での両耳の手術で、聞こえ方は良くなり、中耳炎も治った。補聴器を使用する方が良いと言われたが、当時はそうしなくても支障がなかった。今は不養生や年齢による衰えで、補聴器を使用している。そのおかげで、日常生活では支障なく聞こえている。歩行中は雑音があり、使用しないので、話しかけられると、困ってしまう。
 二六才で結婚して八ヶ月目に、難病に罹った。病名は入院した病院でわかったが、ギランバレー症候群の神経根炎だ。腕が痺れてきたので、すぐに病院に行った。病院でも内科や、整形外科ではわからなかった。何軒も診察してもらったが、ひどくなるばかりだった。仕事が医療関係で、同僚や先輩が多くの先生に聞き、神経内科を探してくれた。紹介状を持って行くと、その場で入院させられた。最初の病院から十日目だった。
 症状は脊椎に蛋白が増え、全身の痺れや麻痺になり、ひどくなると呼吸まで止まる。女優の大原麗子が同じ病気にかかっている。発病の原因はわからず、「風邪のウイルスが脊椎に入ったのかもしれない」と言われた。
 一ヶ月で退院が病院のミスで、十ヶ月になった。おまけに後遺症で不自由な身体になってしまった。症状は全身の痺れだ。額を除いた全身が、正座して足が痺れた状態なのだ。触覚がないので、目で見て初めて、手足や身体の状態が確認出来る有様だ。
 鉛筆を持つには、指先と鉛筆を見て、力一杯握る。鉛筆の手応えがなく、力加減がわからない。絶えず握りしめる。意識が他に移ると、鉛筆は落ちるのだ。立っている時も、膝を突っ張った状態で、絶えず力をいれる。膝を曲げると、太股、ふくらはぎの力の加減がわからず、不安定になる。階段の上り下りや坂道は、どちらかの膝を曲げなくてはならないが、その状態での力の分散が、出来ない。手摺りで身体を支えてバランスを取るしかないのだ。体勢が確認出来ない程暗くなると、動けなくなり、立つことも、持つことも出来ない。
 それでも人間の身体は不思議だ。感覚がなくても、リハビリで歩けるようになる。運動神経と反射神経は、少し快復した。階段や坂道も手すりがあれば大丈夫だ。つるつるの床や雨の路面は、すべるのではないかと言う意識が強すぎて、身体が緊張する。時間をかけて一歩一歩、確認しながら歩く。杖は注意の対象が分散するので、歩けない。介護人なしで歩けるようになったが、知らない場所に行くのは勇気がいるのだ。

 2、前向きな気持になれた訳−妻の優しさ−  
 入院した時は、病気はまだ初期状態で、一ヶ月で退院する予定だった。腕の一部の痺れと背中の痛みだけで、まだ自分で歩けた。病院のミスで、退院目前で高熱が出た。薬を減らすのが早すぎたのだ。熱は一週間下がらなかった。痺れは額の手前まで広がっている。もう少し続くと、植物人間だった。熱が下がり、トイレに行こうと、ベッドから降りた。歩こうと足を出した途端、そのまま横倒しになった。腰を打った痛みはあるが、思うように手足が動かない。検査が始まっても治療は行われない。検査結果を待っているのだ。どんどんひどくなり、治療が始まった頃は、寝返りも出来ず、手足が勝手に動くようになった。脳からの命令が神経をうまく伝わらないのだ。危ないので、動かないように、ベッドに縛り付けられた。自分の意志で動かせない身体を、縛り付けられ、頭しか動かせない。妻によると言葉までおかしくなったそうだ。
 こんな状態では、みじめな気持だけだった。これだけひどくなると、生きる希望もなく、死ぬ事しか考えられなかった。だが自分では何も出来ない。死ぬ事も出来ない。「殺して欲しい」「離婚しよう」不自由な言葉で妻に、何度も訴えた。みじめな気持で涙だけは、果てしなく流れる。治るとは考えられず、一生ベッドで・・・という恐怖感ばかりだ。死ぬ事以外考えられないのだ。
 妻は泣いて怒った。毎日の看病のかたわら、「離婚はしない」「絶対に付いて行く」「絶対に治る」何度も繰り返す。うれしいよりも腹立たしい気持だ。だが身動き出来ず、舌を噛み切る度胸もない。
 この病院は、付き添いの看護は出来なかった。入院して悪くなるまでは、昼からの面会で夕方には帰っていた。悪くなってからは、朝は十時から夜は八時頃まで、弁当持ちで妻は通った。床ずれの防止で始終身体を動かしてくれた。手足が勝手に動くので、点滴も目が離せない。トイレも自分では何も出来ず、妻が頼りだった。身体も毎日拭いてもらった。一日中側にいて、世話をしてくれた。母も毎日来ていたが、妻がほとんど看てくれたのだ。
 一週間もすると薬の副作用で、顔が満月になった。薬が効いたのだ。治る希望が少し出てきた。妻の献身的な看病と、希望が持てたのとで気持は前向きになった。妻の為にも早く治りたい、これ以上悪くならない、後ろを振り返らない、そう思えるようになった。
 病気の快復は早くなったが、リハビリは病状が安定しても、始めてもらえなかった。再発を恐れたのだ。あせる気持で、疲れないように、自主的に動かした。早く退院して、妻を安心させたかった。
 リハビリが始まった。ベッドの上で手足を動かすだけだが、先生が少しの力で手足を押さえるので、それに勝るように動かすのだ。数十分だけだったので、空いている時間に妻に手伝ってもらい別にリハビリに励んだ。妻のお陰で、自分の意志で手足が思うように動かせるようになったのは三ヶ月後だった。歩行訓練はそれからだったが、やはり数十分しかしないので、妻の助けで歩き回るようにした。
 病気が治った時はまだ一人で歩けなかったが、無理矢理退院した。病院のリハビリでは、歩けるようになるまで、時間がかかりすぎる。通院はまだ無理と言われたが、妻の病院通いをやめさせる為でもあった。通院や自主的なリハビリは、大変だったが、歩けるようになるのは早かった。
 妻がついて来てくれなかったら、治らなかったかもしれない。十ヶ月で退院出来たのは、妻の優しさと献身的な看病のお陰だ。

 3、生きる喜び−友達の優しさ−
 入院してから、退院予定の日が近づくまでに、ほとんどの友達が来てくれた。良くなっているので、安心して喜んでくれた。
 退院目前で、悪くなったと聞き(大学の友達が母にお茶を習っていて、聞いたのだ)、病院の近くに住んでいる友達が飛んできた。生きる希望もなく、死にたいと思っている時だ。動けない自分がみじめだった。話そうとすると、涙が出そうになる。みじめな自分にも腹がたったけれど、早く帰ってほしかった。
 私の気持ちがわかったのか、余り話もせず、すぐに帰った。悪かったと思うより、ホッとした。
 一時間後、その友達が又来た。何故と叫びそうになる。理由はすぐにわかった。心配してくれたのだ。身動き出来ない身体では退屈だろうと、小型のテレビを持って来てくれた。自分の店(電機販売店)に飾ってある商品だ。 「退屈だろ、これでも見て早く良くなれ」 怒ったような顔で、ぼそっと言った。照れ隠しだったのだろう。見られるようにセットすると、黙って帰っていった。
 「ありがとう」も言えなかった。どう表現していいのかわからない複雑な気持ちだ。迷惑がっていたのは、気付いていたはずだ。何故そこまで気を使ってくれたのか、わからなかった。余計な事をする、と思ったのだ。一番気持が荒んでいた時だ。テレビを見ても死にたい気持は変わらなかった。妻の励ましや看病で、気持が落ち着くと、友達の優しさや親切がわかってきた。心の中がほのぼと暖かくなった。
 友達が誰も来なくなった。私の態度が悪かったのだろうか。良くなってくると、気になってきた。動けない身体には、テレビはありがたかった。
 病状が落ち着き、少し動けるようになった頃、友達が一人、また一と人やってきた。近くに住んでいる友達が、仕事の合間に度々病状を聞きに来たのだ。良くなると何度も来るようになった。
 友達の優しい気持はとてもうれしく、生きていて良かったと思えた。

 4、食べて力が出る−妻の両親の優しさ−
 病院のミスで発病するまでは私も健常者のように動けた。妻の両親も安心して一度見舞いに来ただけだった。  妻の両親は、悪くなった時、娘を心配して離婚を勧めたと、歩けるようになってから妻に聞いた。妻が断り、離れないとわかってから義父は妻を心配して、度々仕事の帰りに立ち寄った。妻の両親に対してはすまない気持で一杯だった。別れさせられても仕方ないと思った。最初の内は、妻と話すだけで帰る。私は少し気が楽だった。普通の食事が出来るようになると、義父は毎週二回食べ物を持ってきた。病院の食事だけでは、治りが遅いと思ったのか、私の好きな物を食べきれない程である。
 身動き出来なくても、お腹はすく。病院のまずい食事と違い、マクドナルドのビッグマックとお寿司は、いくらでも食べられた。妻と分け合って、食事出来るのも楽しかった。
 毎日病院食ばかりでは、食欲が出ず、半分以上残していた。顔は副作用で、満月のように丸く、太って見えたが、身体は細くなっていた。妻の両親が持ってくる食べ物で、身体も太くなり、力もついた。
 娘を思う気持ちからだとは思うが、うれしかった。外の世界の物を食べる楽しさが、入院の味気なさを救ってくれた。義父や義母の気持ちがわかり、早く治りたいと切実に思った。
 好きな食べ物は食欲がでる。おなか一杯食べられると、やはり力が出た。生きていて良かったと、思えた。

 5、思いこみかも−看護学生の優しさ−
 看護婦さんは忙しすぎる。四人部屋には、私以外には二人いたが、みんな自力で動けない。手がかかる患者ばかりで、細かい世話(床ずれ、トイレの世話、歩行の介護等)は余りしてもらえなかった。家族が世話していたのだ。医療(体温、点滴、血圧、薬)の世話で精一杯だった。親身に世話してくれる看護婦さんは、いなかった。
 母と妻が来ている昼間は安心だった。身動き出来なくて触覚のない私は、ナースコルのボタンがうまく押せず、夜の小水が恐かった。したくなるタイミングがむつかしかった。早目に押せば出ないし、遅いと間に合わない。妻が帰るぎりぎりに済ませてから、朝まで我慢するようにしていたが、夜中にしたくなる時がある。だが近くにあるボタンも、うまく押せない。いつも大声で同室の人にたのむが、大抵間に合わず、失敗ばかりだった。余り失敗が多かったので、夜中に聞きに来てくれるようになったが、その時はしたくない事が多かった。
 少し起きあがれるようになった頃、看護学生が来た。私の担当の看護学生は、私好みの可愛い顔した優しそうな女性だった。思った通り優しかった。勉強の為だけとは、思えない程いつも笑顔を絶やさず接してくれる。看護婦さんの方は忙しいのか、いつも適当で、余り笑顔がない。彼女は絶えず病室に顔を見せ、笑顔で優しい言葉をかけてくれる。
 「大丈夫ですか」「痛い所ありませんか」「何かあったら、声をかけて下さい」
 若い女性に笑顔で優しい言葉をかけられるとうれしくなる。たとえみんなと同じ扱いであっても。
 実習が終わった放課後も、来てくれた。妻と一緒に身体を拭いてくれたり、床ずれが出来ないように、身体を動かしたりしてくれる。結婚八ヶ月で倒れたことに対する同情だけではない。本当に早く良くなってほしいと思う、情熱が感じられた。実習期間中は、実習が終われば必ず来てくれる。妻が早く帰る時は、消灯前に小水の世話までしてくれた。
 実習期間が過ぎても、度々訪れてくれた。病気に関係ない話をさりげなく、話してくれる。笑顔で話しかけられると、気分が良くなり、毎日が楽しみだった。まだ学生で時間の余裕はあったのだろう。だが遊びや勉強の時間を割いてまで来てくれた事は忘れられない。
 看護学生の若さと優しさで、入院生活も楽しいものになり、早く良くなりたい気持は強くなった。その笑顔と優しさは、私だけ特別扱いではないかと思わせる程のものだった。

 6、外の空気の素晴らしい事−みんなの親切−
 悪くなってから八ヶ月目には検査結果は良くなり、病気は治った。だが、歩行器を使っても、まだ一人では歩けない。病院のリハビリは十数分だけだ。妻に助けてもらい、病院の庭を歩き回るが、すぐ注意される。何かあれば困るので、外へは出られないのだ。
 退院はもう少し先だと言われたが、家でのリハビリの為、無理矢理退院した。早く外に出たい。自由にリハビリしたい。お金や看護といった家族の負担を軽くしたい。その思いだけだった。病院での生活は心が暗くなるばかりだ。退院後、二人の新居を引き払い、実家で世話になった。私が家にいるので、家族の負担は楽になったが、一週間に二度の通院は疲れてしまった。電車で一時間はかかる。タクシーなら三十分だが、リハビリの為電車で通院した。最初は妻と母に支えてもらった。足の裏の筋が縮んでいるので痛くて歩けないのだ。だが、外の空気を吸って歩けるので苦にならない。頑張ればどこへでも行ける。つらい事ばかりではなかった。駅では駅員さんが必ず手を貸してくれる。電車に乗ると、ほとんどの人が席を譲ってくれた。年輩の方は遠くの席からでも、声をかけてくれる。駅前の自転車がたくさん停めてある場所では、若い学生が通りやすくしてくれた。横断歩道を渡りきれない時、クラクションも鳴らさず、じっと待ってくれた。親切で優しい人がたくさんいる。
 三ヶ月もすると妻一人の介護でも歩けるようになった。通院はやはり大変な重労働だったが、親切な人たちに助けられ、頑張ろうという気になれた。こういう心のふれ合いは病院内では味わえなかった。ちょっとした優しさが力を与 えてくれたのだ。

 7、退院後の困った事その1−新居の引っ越しは、辛い優しさだった−
 退院後、新居では私の世話が出来ないので、実家の世話になった。私たちの荷物は実家にも置く場所がなかった。祖母と母と私の三人で暮らしていた時から荷物がたくさんあった。そこで落ち着くまで新居をそのまま借りていた。実家から二時間近くかかるので、着替えを取りに行くのも不便だった。近所の人に留守をたのんでいたが不用心なので荷物を引き取る事にした。実家の近くで預かってくれる所を母や妻が探した。近所のアパートで聞いてみたが、荷物だけだと湿気で部屋が傷むのでみんなが嫌がる。母のお茶仲間で、仲人だった人の義妹が実家から五分の所でアパートを貸していた。聞いてもらうと二階の四畳の部屋が空いていた。事情を聞くと嫌がらずにしかも家賃だけで特別に貸してくれた。動けない私には妻が新居まで荷物を取りに行くだけで心配だった。部屋を借りられた事は二重の喜びだった。
 荷物の引っ越しは私が兄貴のように慕っていた人が無償で引き受けてくれた。勤務先の運送会社のトラックを借りてきて、同僚と一緒に運んでくれた。クーラーの取り外しもやってくれた。私はまだ一人で動けず、みんなの親切がうれしかったが、何も出来ない事が腹立たしかった。四畳の部屋だったが荷物は納まった。狭いアパートの二階にあれだけの荷物を運び込むのは大変だったと思うが嫌な顔ひとつ見せなかった。小さい時から世話になりっぱなしだが、この時程ありがたいと思った事はなかった。
 二日に一度は窓を開けに行ったので余り湿気なかったが、ほこりだけはすぐに溜まる。妻は綺麗好きなので頻繁に掃除するのだが、住んでいないと余計にほこりが溜まると笑っていた。一度歩けるようになり見に行ったが、二階へ上がる階段は傾斜が急で上がれなかった。よくこんな所を運べたものだと感心した。
 その部屋は私が動けるようになり商売を始めるまで借りていた。家主は荷物も絶えず気にして管理してくれた。
 一人で動けない時の優しさはちょっと辛かった。

 8、退院後の困った事その2−銭湯の主人の優しさ−
 
退院して困ったのは入浴だった。実家にはお風呂がなくいつも銭湯に行っていた。近所に内風呂のある家は少なかったが何度か借りた。だがいつも借りるわけにいかない。お互いが気を使ってしまう。銭湯に行く事にした。
 最初は開店時間に合わせて、母と妻の介護で行ったのだが一番風呂に来るお客さんも多い。みんな私の身体がわかっているので何も言わなかったが、一緒に入る妻や母が困るのだった。湯船に入る手助けなので服は着ているが、やはり人がいると意識してしまう。見かねて銭湯の主人が開店一時間前に特別に入れてくれる事になった。
 銭湯の主人は私が小さい時からよく知っている人だった。背中に入れ墨があり、小柄だががっしりした身体だ。小さい時は友達と行っては湯船でふざけて怒られてばかりだった。声がでかいので怒鳴られると飛び上がる。みんな 一度でおとなしくなった。だが、その日限りで、後日また騒ぐのだった。恐い人だと思っていたが、大学の頃気楽に話 が出来た。話してみると若いときに色々経験していて、教えて貰うことも多かった。
 開店前の銭湯は少しお湯が熱いが、誰も入っていないので気持がいい。女風呂に入れてもらったので妻も気兼ねなく一緒に入れるようになった。洗い場は冷たかったが、広々とした湯船に二人で入って暖まるのは格別だった。主人の心の温かさも身にしみた。
 妻と行っていた時に一人で湯船に入る練習をした。大阪の銭湯は湯船の回りに座る所がある。湯船の角を利用して座りながら片足ずつ足を入れる。少し恐かったが慣れればうまく出来るようになった。もう大丈夫と思われる頃妻と二人開店時間に行った。今度は湯船は別々だ。主人は心配してくれたが、手を借りずに入る事が出来た。主人も自分の事のように喜んでくれた。それからずっと一人で行くようになったが、主人や常連のお客さんに助けられる事も多かった。やはり見ていると危ないと思うのだろう。湯船に入る時は手を差し伸べてくれる。素直に手を貸してもらった。そうしてもらうだけで随分助かる。顔なじみになるとよく励まされた。慣れてくると夕方の早い時間なら行けるようになった。一人で行くのは大変だったが、日常生活が出来るのだという自信にもなった。裸のつき合いを通して人とのつながりの大切さもわかった。
 妻との時間外の銭湯通いは今でも忘れる事が出来ない温かい思い出だ。

 9、ごめんなさい−ちょっと迷惑な優しさ−

 退院後三ヶ月目には、通院も一週間に一度になった。家でのリハビリは毎日続けた。屈伸や足踏みと一通りの体操だ。室内では伝い歩き出来るまで快復した。
 文字の練習もした。触覚がないので、鉛筆やボールペンでは書けない。力がいらない筆ペンで練習した。右利きだったが、左も同じようにする。動かさないと駄目だと思った。筆ペンは余り力を入れず、書く事が出来る。般若心経を左右で一編ずつ書いた。ノート五冊くらい練習すると、鉛筆やボールペンも使えるようになった。お陰で般若心経は全て覚えた。
 妻がパートに行く事になった。外を歩く練習は、祖母との散歩になった。その頃は手につかまるだけで歩けた。100m位先に公園がある。雨の日以外は毎日行く。公園ではフェンスの金網の側を手を離して歩いた。危ない時金網がつかめる安心感で、一人で歩ける距離が延びた。祖母との散歩も除除に距離を延 ばした。500m先の公園まで行けるようになった。
 その公園での出来事だ。公園内で練習して、ベンチで休憩していた。若い男の人が私の練習を見て同情し、色々話しかけてくる。座っている時は、良い人だと思った。ところが練習を初めても、話しかけるのをやめないのだ。まだこの時は一人で歩けても、少しだけで、歩くのに集中しないと、立っているのも困難だった。危ないので、練習中は話しかけないようにお願いした。話すのはやめてくれたが、離れずにじっと見ている。見られていると思うと身体が緊張して立てなくなり、早々に練習を切り上げた。親切心はわかるのだが、練習中は話しかけず見守ってほしかった。気が散って練習にならなかった。若い人にすれば、何か力になる事がないかと思ったのだろうが、親切の押し売りのように感じたのだ。
 その公園には、しばらく行けなかった。嫌な気持になりたくなくて、他の公園に行くようになった。
 もう会う事もないだろうと、久しぶりに行った。公園にはいなかったので、リハビリに励んでいた。ところが又姿を見せた。私と祖母が歩いているのを、通り道の牛乳販売所から見かけたのだ。その時は少しだけ話して帰ったので、悪いと思うがホッとした。しかし帰る頃、走って戻って来た。野球選手のサインボールや色々な物をくれようとするのだ。喜ぶと思ったのだろうが、嫌な気持だった。励ましの言葉と優しい気持だけで十分なのだ。丁重にお断りしたが、気分を害し黙って帰っていった。それ以後は顔を合わせても無視される。その人の気持はわかるのだが、優しさよりも哀れみになると、私自身がみじめな気持になってしまう。障害者に対しての優しさは、むつかしいと思えた出来事だった。

 10、気配りがうれしくて-障害者スポーツセンターでの出来事-
 退院して五ヶ月目だったと思う。母の茶華道の生徒から障害者スポーツセンターがあると教えられた。調べてみると長居公園内にある大阪府の施設だった。内容が分からないので電話をかけた。医療相談やリハビリの先生もおられると聞き妻と見学に行った。行って初めて分かったのだが、障害者手帳がないと利用出来ない。その日が医療相談の日だった。受付の方が特別に診察と相談が出来るようにしてくれた。診察ですぐに手帳の貰える事がわかった。手続きの仕方や認定の場所を聞きその日は見学だけで帰った。
 病院は、障害者と認定されれば手帳が貰える事やスポーツセンターの事は何も教えてくれなかった。家でのリハビリしか駄目だと思って頑張っていた。障害者手帳も病気が治り症状が固定していれば、すぐに貰えたと認定を受けた先生から教えられた。
 認定日が決まっていたので時間はかかったが、一ヶ月後に認定を受ける事が出来た。一種二級だった。本人と介護人の電車やバスが半額になる。障害者スポーツセンターも無料で利用出来る。大阪市内だったのでバスと地下鉄は介護人も無料のパスを貰えた。
 妻にパートを辞めてもらい、二人分の弁当を持って通い始めた。早く一人で歩けるようになりたくて朝早くから夕方まで頑張った。
 リハビリの先生はトレーニング室での運動を最初に一通り教えてくれた。後は自分の力で教えられたことを繰り返す。午前中は妻に手伝ってもらいトレーニング室でリハビリを続けた。器械を使い筋力アップも続けた。
 昼からはボーリングや卓球に興じた。スポーツをしながら反射神経や運動神経の快復だ。介護人も無料で利用出来たので妻と二人で楽しんだ。
 このスポーツセンターではトレーニング室、卓球、水泳、屋内球技場は時間に関係なく使用出来る。利用したい施設の利用券をその都度貰い指導員に渡すのだ。ボウリングは原則として三ゲームだ。ゲームが終われば新たに利用券を貰う。待っている人がいなければすぐに出来るが大抵は順番待ちだった。ボウリングは一番利用者が多い。目の見えない人や片腕がない人もストライクを連発していた。
 指導員は朝から夕方までと昼から夜までの二交代だった。どの指導員も卓球などの相手が要るスポーツは気楽に指導する。ただ指導以外は余り話をしない。やはり障害者に色々聞 くのが出来ないのだと思う。その中で一人だけ友達のように気軽に話しかけ色々聞いてくる指導員がいた。こちらも嫌な思いをせずに自然と話が出来た。母の友達の近くに住んでいて、知っている場所なので余計親しみが涌いた。年は私より若く体育大学を出て三年くらいだ。明るくて誰にでも声をかけている。ただ妻と私を見かけるといつも側に来て話すので特別に心配してくれていると思っ た。障害者同士で話すことは余りなく、指導員とは世間話をほとんどしない。友達のように話しかけられるとうれしかった。
 指導員は時間毎に色々な部署を担当する。その指導員はどの部署でも声をかけて励ましてくれた。私が一人でトレーニングに励んでいるとリハビリや器械での筋力トレーニングも手伝ってくれる。卓球では他の人の相手をしていても、すぐに私の相手になってくれた。卓球をする人はみんな上手だった。私はそんな人たちの相手が出来ないので、その心配りがうれしかった。そして動けない私が打ち返せるような球を打ってくれた。他の指導員は言わないと相手になってくれなかった。ボーリングは終わると利用券を貰わなければ新たに出来ないのだが、待っている人がいなければ利用券なしでもやらせてくれた。
 その指導員は誰にでも私と同じように声をかけていたが、この友達のような話し相手のお陰で毎日頑張って通う事が出来たのだった。

 11、ちょっと恐かった優しさ−スポーツセンターの帰り道−
 通い初めて六ヶ月もすると介護なしで一人で行けるようになった。妻と通った道なら何とか歩ける。通い慣れた道は全て手すりがあり階段や坂道も大丈夫だ。市バスや地下鉄も一人で乗れる。みんなの心配を振り切り挑戦した。こうして一人で動き回る自信もついた。
 暗くなると歩けないので、一人の時は早い目に終わり、明るいうちに帰るようにした。その日も早く帰った。地下鉄を降りて、繁華街にあるバス停へ向かった。繁華街は早い時間でも通行人がたくさんいる。普通に歩いている積もりだ ったが歩き方がめだっておかしいのか何故かベンツが私の横に停まった。信号も青でスムーズに走っている。どうしたのかと思いちらっと運転席を見た。窓が開いて声をかけられた。
 「どこまで帰るの」
 声は優しかった。今まで声をかけられた事がなかったので私に言われたと気付くまで数秒かかった。送ってくれる積もりだろう。ただベンツに一人で乗っている。テレビや雑誌の影響でベンツは・・・のイメージがあり、恐くて乗れない。内心「やばい」と思った。目を合わさないように恐さを押さえて言った。
 「いいです。バス停が近くにありますからバスで帰ります」
 本当は走って逃げたい気持だった。だが歩くのもやっとでは逃げられる訳がない。再度行く先を聞かれた。仕方なく家の場所を説明した。
 「ああそっちなら、行く方向だから乗りなさい」
 しばらく迷っていたがやはり乗りたくない。
 「いいから、乗りなさい」
 と言われると断るのが恐くなった。誘拐される事もないだろうと考え乗せてもらった。
 ベンツの後ろの席は乗り心地が良かったが気が気でない。ここでは相手の様子は良くわからない。ただバックミラーごしの顔は優しそうだ。背広姿で髪型も普通に見える。社長のように見えるのだが、社長なら自分で運転しないだ ろう。やはりベンツに乗る人は・・・と思ってしまう。
 身体の事を聞かれたが、早く着いてほしいとばかり思っていたので余り話せない。それでも小さな声で話すと熱心に聞いてくれた。針のむしろに座っているようで着くまでの時間が長かった。
 家の近くの交差点が見えた時「その交差点の手前で降ろして下さい」と叫んでいた。
 親切に家の前まで行くと言われたが、一方通行で入れないと断り、停めてもらった。
 降りる時励ましてくれた。色々言われたが「頑張れよ」しか聞こえない。早く行って欲しいと思い、お礼も禄に言えなかった。
 車は交差点でユーターンして戻って行く。私の為にわざわざ寄り道してくれたのだ。
 人は外見だけで判断出来ないが、今でも知らない人の車には乗りたくない。それは動く密室と同じだから、ベンツでなくても考えてしまう。
 恐さで一杯だったけれど家に帰って落ち着くと心は温かくなった。

 12、商売を始める事にした−周りの人達の優しさ−
 私は医療機器(心電計、脳波計)を扱う会社に勤めていたが、当時は休職扱いだった。妻の介護で通い始めたが、社内での修理しか出来なかった。営業だったので車に乗れないと仕事にならない。修理も絶えずある訳でなく会社を辞める事にした。身体の障害で一ヶ月後には失業保険が貰えた。ただし毎月職安で認定を受けなくてはならない。行けば無理矢理仕事を紹介されるが、面接に行くと全て駄目だった。
 遊んでいる訳にもいかず、家での商売なら出来ると思い家族に相談した。母の友達や近所の人に色々教えてもらった。隣りの人が市会議員を知っていたので聞きにいくと、福祉関係の方を紹介され福祉のお金を低金利で借りられる事になった。保証人には大学の友達と近所の兄代わりの人が気持ちよくなってくれた。祖母の兄は返せないのを承知で資金を貸してくれた。店は母の女学校時代の友達が借家を安く貸してくれる事になり、内部の改装も許してくれた。この借家の近所に貸主ともう一人母の女学校時代の友達が住んでいる。私は小さい時から遊びに行って可愛がってもらっていた。この二人には工務店を紹介してもらったり、店が出来てからもお世話になりっぱなしだった。お陰で改装も安い値段で出来た。商売は素人だったが包装は百貨店のアルバイトで慣れている。少ない仕入れで出来る子供向けの小物のファンシーショップを開くことにした。
 仕入れも母の茶華道の生徒さんに紹介してもらい色々教えてもらった。借家はしばらく誰も住んでいない古い家だった。「二戸一」の家で両方で60坪近くある。片側の家は貸し主の息子が住んでいる。二階もあり夫婦二人で十分すぎる程広かったが古すぎたので、台所、風呂場、畳、ふすまを新しくして住めるようにした。店は五坪程の土間を改装して作った。これら全てと仕入れのお金も借金だけでまかなえた。仕入れも二人で問屋に行き、目移りしながらも品物を選んで送ってもらった。店の飾り付け、開店前の新聞のちらし作りや印刷の手配、駅前でのビラ配りまで母の二人の友人やその娘さんが手伝ってくれた。店の名前は夢を与える意味をこめて「ふうせん」にした。
 開店日にはたくさんの人が見に来てくれたのでうれしかった。子供相手の贈り物なので単価は安いが開店から一ヶ月は順調だった。食べて行くだけで精一杯だが働く場所が出来て充実していた。仕入れも一人で行けるようになり歩き回る自信がついてきた。ところが一ヶ月を過ぎるとお客さんの数が少なくなった。小学校や中学校の校区の境にあり、場所が悪かった。両方の校区から来ると思ったのは甘い考えだった。色々商品を代えてみたが駄目だった。   五年後、実家の引っ越しが決まった時この家で一緒に暮らす事を考えた。けれど家そのものが古くなりすぎていた。いずれ建て替えなくてはならない。貸し主は建て替えても又貸してくれると言う。ありがたい話だったがこれ以上世話になれない。良い機会だと思いやめる事にした。閉店セールは三日程続けた。開店の時お世話になった人達が又手伝ってくれ、お客さんをたくさんつれてきた。商品は全て半額以下で売ったが結構売り上げがあった。売れ残った商品はたくさんあったがお世話になった人にあげた。万分の一のお礼にもならないが喜んでもらった。
 ふうせんは途中でしぼんでしまった。でも、私には色々な夢を与えてくれた。 商売はむつかしかったが五年も続ける事が出来た。開店前は、一人で動けるようになってはいても、働ける場所がなかった。勤める自信が持てなかったが商売を経験出来てどんな仕事も出来る自信がついたのだ。

 13、勤める自信がついた−身体を気にせず雇ってくれた上司−
 商売だけでは食べていけない。歩き回る自信はついていたので店を妻に任せて勤めようと思い新聞の求人欄を探した。聴力はそんなに悪くなっていなかったので電話でのセールスなら出来ると思い面接に行った。私より若い部長だったが電話が出来れば障害は関係ないと雇って貰えた。この部長は入ってまだ半年だと言った。ノルマはなく歩合なので成績が良ければ半年でも部長になれる。部長は六カ月連続全国一の成績になったそうだ。
 仕事は経営の資格講座の勧誘だった。国家資格を申請中の資格だ。ただ、国家資格にはならないとわかっている。なると思わせて受講させる営業だった。内容を聞いた時騙すようで嫌な気持になった。だけど聞いてみると一流大学の教授や助教授の講義だった。月四回で六ヶ月受ければ資格が貰える。受講出来なかった講義も二年間は何度も受講しても良い。資格を取れば仕事を世話してくれる。この資格で活動している人達もたくさんいるのだ。高い受講料だったが値打ちがあると思いやる気になった。やるからには気持を切り替えようと思った。
 やり初めて一週間は手応えがない。みんなの話し方と変わらないのに駄目なのだ。やはり後ろめたい気持があるので強く押せない。一日100件近く電話してやっと二件程手応えがあったが、詰めが甘いのか受講までもっていけない。私の話し方はみんなに良いと言われたが強引さがない。若い部長が気にして最後の詰めを代わってくれた。とことん食い下がり二件共取ってくれたのだ。その後も手応えがあっても取れない所は手伝ってくれたので一ヶ月目でまともに給料が貰えた。
 部長自身も管理手当はあるが営業しないと歩合が入ってこない。名簿もたくさん置いてあるのだが早い者勝ちで最初に電話した人が受講させる権利がある。15人程の社員全てがライバルだった。教育は部長の仕事だったが手伝う義務はなかった。私を手伝ってくれたので部長の成績は今までより悪くなってしまった。ほとんど歩合なので取れずに辞める人がたくさんいる。そういう人を助けようとするのだ。毎月10件以上取れば課長の肩書きと高額の手当がつく。課長だった人は我関せずでマイペースに10件以上取っていた。部長は頼まれれば誰の手伝いも気楽にしていたが、いつも私を気にしてくれた。話の感じだけで分かるのか取れそうな時は替わってくれる。昼食も何度もご馳走になり強引さを教えてもらった。
 三ヶ月もすると一人で取れるようになったが国家資格になると信じ込ませるのが嫌になってきた。部長もみんなの手伝いや私への気配りで成績が悪くなり、降格が決まった。肩書きがなくなる方が営業に打ち込めるのに辞めてしまった。どこでもやれる自信があったのだろうがあっさりした辞め方だった。毎日三揃えのスーツを代えて来る程気障でダンディだったが優しく親しみがもてた。
 辞めた後も一人で十分やっていける自信があった。ただ騙しているという思いに堪えられず一緒に辞めることにした。三ヶ月しか勤めなかったが、この部長のお陰で人並み以上の給料が貰えた。部長はいつも笑顔でみんなを引っ張っていたが仕事も遣り手だった。この部長の優しさがなければすぐに辞めていた筈だ。部長の優しさは忘れられない。

 14、 会社勤めで知った優しさ 一  優しさが理解出来なかった時
 電話セールスの会社を辞めてから色々あったが、最後に制御盤の設計の会社に就職した。新聞の広告を見て、すぐに面接に行き障害に関わらず採用された。障害を考慮してくれて去年(2000)リストラされるまで勤めることが出来た。以下六つの話はその会社に勤めていた時の出来事だ。

 その日は痺れが強い気がした。雨が降っているといつもそうだ。最寄りの駅までは妻が車で送ってくれるのだが、団地の駐車場に行くのも歩きにくかった。距離にして50メー トルくらいだが妻に手を貸してもらった。駅でも改札口まで妻に送ってもらい電車には乗れた。そしてバスの乗り換え駅に着いた。駅の構内も少し歩きにくいが屋内なので大丈夫だった。だけどバスに乗り換えるには少し長い交差点を渡らなければならない。  交差点が渡れるか心配だった。幸い雨はやんでいたが路面はまだ濡れている。滑ると思う気持ちで歩きにくい。デパートの壁伝いに交差点まで来た。信号が変わり渡ろうとした。足が動かない。途中で動けなかった事を思い出 し、足がすくんでしまったのだ。二度信号をやりすごした。何度かその場で足踏みを繰り返し渡り始めた。
 交差点の真ん中まで来た時あせる気持で歩けなくなった。信号はまだ青だ。気持を落ち着けて歩こうとした。転(こ)けそうになりながら二、三歩歩いた。その時、後ろから左腕を掴まれた。びっくりして見ると顔だけ女の化粧をした男の人だ。交差点で待 っている時向かい側にいた仕事帰りの五人程のおかまの一人だった。一人だけすれ違った後で戻ってきて手を貸してくれたのだが、その時はわからなかった。
 強い力でどんどん引っ張っていく。誘拐されるのかと思い交差点を渡り終えた所で腕を振りきった。掴まれていた腕は拍子抜けするくらい簡単に外れた。だけど恐くて後ろも振り返らず、バス停に急いだ。
 バスに乗ってからもしばらく心臓がどきどきしていた。落ち着いてくると、ハッと気が付いた。途中で動けなくなった私を助けに戻ってくれたのだ。
 お礼も言わずに腕を振り払った私に向こうもびっくりしたと思う。だけど声も掛けずに急に腕を掴まれたので本当に恐かった。
 それ以来会わなくなったが、気分を害したのかと心配になった。外見だけで判断すると間違った解釈をするのが良くわかった出来事だった。
 あの時はありがとうございました。おかまさん。

 15、会社勤めで知った優しさ 二 出張帰りの初老のご夫婦の優しさ
 装置の試運転で出張に行った帰りだった。行く時は元気があり、メーカーの人と一緒なので安心だった。電機関係は正常に動けば余り仕事がない。だからほとんど待ってばかりなので余計に疲れる。出張も一週間たつと疲れがたまり一人で歩くのもしんどくなった。出張先ではメーカーの人に随分助けてもらったお陰で試運転は無事終わった。帰りの新幹線でその人とは京都で別れ、新大阪へは私一人だった。疲れで歩けるか心配だったが迎えは頼んでいなかった。
 新幹線を降りると膝が笑っている。健常者には考えられない事だが床の材質で心理的な影響がある。アスファルトやコンクリートのように面がざらついた感じだと安心出来るが、大理石のようにツルツルだと恐いと感じて滑ってしまう。健常者がアイススケートを初めてした時の状態だ。
 降りたホームはアスファルトで大丈夫だった。階段は大理石だが、手摺りがある。降りる時の方が膝に力がかかるが手摺りがあったので降りられた。改札口のあるロビーも大理石だった。膝が笑っている状態では怖さが先立ち足が踏ん張れなくなる。そういう時はショルダーバッグを床に置き、紐を手に持って、紐の長さだけ歩くと、バッグを前に移動する。それを何度も繰り返すと前に進める。紐は杖代わりにはならない。だけど何かに掴まっているという安心感があり歩けるようになるのだ。
 何度も転(こ)けかけながら柱と柱の中間点に来た。いつも中間点で歩けなくなる。それは心理的なものだが残りの半分の距離は無理かも知れないと思ってしまうからだ。汗だくで今にも床に座り込みそうになった。
 「大丈夫か、どこまで行くの」
 ホームへの階段を上がりかけていた初老のご夫婦の男性が降りてきて手を貸してくれた。
 「すいません、改札口まで手を貸して貰えますか」
 手を貸して貰っても膝が笑っているので改札口までまともに歩けなかった。改札口まで来て別れようと挨拶した。
 「ありがとうございました、ここからは何とか行けますから」
 「どこまで行くの」
 「地下鉄に乗ります」
 「じゃあそこまで行くから、ちょっと待ってて」
 階段の途中で見ていた奥さんに訳を話して地下鉄の改札口まで送ってくれた。私自身送ってもらったので落ちついたのか歩き方も良くなっていた。長い間新幹線で座っていたので足の感覚が悪くなっていた。だから手を持ってもらって歩いたことで足の感覚が少し戻ったのだ。
 「ありがとうございました、新幹線大丈夫ですか」
 「ああ、余り急がないから、何か乗れるだろ、気をつけて帰りなさい」
 そう言って、来た道を戻って行った。奥さんを一〇分以上待たせてしまった。新幹線に無事に乗れたか心配だった。
 地下鉄からは気持も落ち着き、足の感覚も良くなったので帰る事が出来た。一度歩けなくなると、余計に緊張して力が入りすぎる。そうなると座って気持を落ちつかせないと駄目なのだが、床に座ると今度は立てない。立ち上がる時恐いと思うからだ。だからいつも壁や手摺りで身体を支えるか、椅子に座って気持を落ちつかせている。緊張している時は頭で考えるように身体は動いてくれないのだ。
 近くまでなら手を貸してくれる人はいる。だけど、あれ程遠くへ奥さんを待たして送ってくれたのは初めてだ。そこまでしてくれたので、気持が落ち着いた。
 あのご夫婦の親切は忘れる事は出来ない。

 16、会社勤めで知った優しさ 三 小学生の優しさ
 会社からの帰り道、いつものバス停のすぐ側まで来た。私の乗るバスが一番たくさんあり、五、六分から、一〇数分で来る。
 私の乗るバスが来た。早足で間に合うかどうかの距離だ。早足と言っても健常者より遅い。いつもなら目の前でドアが閉まると嫌なのでゆっくり歩き、次のバスを待っている。その日は何故か間に合うと思い、バス停まで急いだ。まだ乗っている人がいて間に合ったと思った。だけど他のバスを待っている人がたくさんいて、大阪はマナーが悪いのか乗る人に道を開けない。その人達をかき分けて乗ろうとしたが目の前で扉が閉まりバスは動き出した。
 その時、バス停の椅子に剣道具を置いていた小学校の低学年くらいの男の子が声をかけてきた。
 「このバスに乗られるのですか」
 「そうだけど、次に乗るからいいよ」
 最後まで私の言葉は聞かずに、剣道具を置いたまま猛然とバスを追いかけた。私は何が起こったのか一瞬分からず、呆然と見つめていた。追いつくと運転席の扉を叩きバスを停めてしまった。そして扉を開けてもらうと叫んだ。
 「早く乗って下さい」
 呼ばれたのであわててバスの所に行こうとした。だけど数メートル先でもあわてると余計に歩けない。少年が戻って手を貸してくれている間にバスは行ってしまった。運転手には私が見えていなかったのか、時間に追われていたのかどちらかだろう。
 「ごめんな、走れなくて」
 「いいです。もうちょっと待ってくれれば乗れたのに」
 「ありがとう、又すぐに来るから。だけど危ないから、動いているバスを停めたら駄目だよ」
 「はい、わかりました」
 はきはきした言葉と、素直な態度にも驚いたが、それ以上に行動力があった。私が乗るバスが来る前に、他のバスに乗って行ってしまったが、乗る前に頭を下げて挨拶をしてくれた。背が低くて小学生の低学年くらいにしか見えないが余程親のしつけが良いのだ。それに剣道を習っていることもあるのだろう。これだけハッキリした態度や言葉の小さな子供には会ったことがなかった。私たちの小さな時はしっかりした子供がたくさんいた。道徳の時間にも困っている人には声をかけましょうと言われていた。だけど、今の子供は駄目だと思っていた。だが今でもああいう子供もいるのだ。
 次のバスを待っている間、その子を思うと心がとても温かくなった。

 17、会社勤めで知った優しさ 四 女子学生の優しさ
 私の通勤時間は、ゆっくりしか歩けないので、行きは一時間半、帰りは二時間かかる。駅までは妻の車で一〇分、電車に乗って三五分、市バスは二五分乗っている。行きは時間が早いのと、郊外の始発駅なので五分前に着いても座れる。だけど帰りは始発だが都心のターミナル駅で、並んで待っている人が多い。座る為には二本遅らして一番前に並ぶ。前に人がいるとその人が座る位置によって駄目な時がある。空いた席に行くのに時間がかかり、気が付いた時はみんな座られている。そんなことが多かったので、いつもドアのすぐ近くの席に座るようにしている。
 その日も一番前に並んだ。到着したのは折り返し電車だったので、先に反対側の扉が開き、乗客が全て降りてから扉が閉まった。
 乗車側の扉が開き、乗ろうと一歩踏み出した。その時後ろから無理矢理押された。扉の手摺りに掴かまったので、転倒はまぬがれたが動けない。身体を支えるので必死だ。気が付くと座席は全て座られていた。この扉から乗った人は誰一人顔を合わせようとしなかった。みんな顔を下に向けたままだった。
 降りて次の電車がどのホームか探した。この電車が出た後に入ってくると分かり、再度同じ場所に並んだ。一番前に並んで座れなかったのは初めてだったので、ちょっと悔しかった。疲れて座りたいのはみんな同じだから仕方ないと思った時だ。遠 くの席で若い女性が座席に荷物を置いて歩いてくる。どうしたのかなと思って見ているとホームへ降りて私の前に来た。
 「私、大丈夫ですから座って下さい」
 「ありがとうございます。次に乗っても一〇分しか違わないので、いいですよ」
 私の悪い癖で嬉しくても一度は断ってしまう。それに私自身ちょっとその電車には乗りたくなかった。その女性と話しているだけで車内の人に注目されている。再度勧められ、何度も断るのは嫌なので、素直に座らせてもらった。私服なので多分大学生だと思う。顔立ちまで覚えていないが優しい顔はみんな可愛く見える。お礼を言うと、笑顔で別の車両へ行った。気を使わせない為もあるが、私達の方をちらちら見る人がいて嫌な気分なのだと思う。
 私が押しのけられて座れなかったのを見たのだろう。自分の事しか考えない人も多いが、優しい気持の人も多いのだ。女子学生の優しい気持で、心ない人達の行為も消えてしまった。私も優しさを形に表せばればいいなあと考えさせられた。
 いつもなら本を読むのだが、心が暖かくなり読まずに帰ってきた。
 気持がいいと時間まで早く感じてしまう。いつまでも忘れられない出来事だった。

 18、 会社勤めで知った優しさ 五 交差点での優しさ
 会社の近くのバス停は片側三車線の交差点にある。出勤時はこの交差点を渡らなくてはならない。
 交差点を渡るのは障害者の私にとってちょっと恐い。それは信号が点滅したり赤に変わるとあせる気持から立ち往生するからだ。距離が短い交差点でも同じだ。身体の調子にもよるのだが、立ち往生して以来、横断歩道の信号が青に変わる前に歩き始めるようにしている。もちろん車道の信号が赤で車の停止が確認出来てからだ。だから歩行者用の信号がすでに青に変わっていれば必ず待つようにしていた。
 冬から春になる季節の変わり目だった。何故か季節の変わり目は調子が悪くなる。痺れは普段と変わらないが歩きにくい。身体が季節の変化についていかないのかも知れない。この時期は交差点を渡ると思うだけで緊張する。
 その日は駅の近くの交差点は無理なく渡れた。だからバス停の交差点の方が少し長いけれど大丈夫と思い渡り始めた。だが真ん中まではいつものように歩けたがそこから足が動かない。気持を落ち着けようとする程身体は緊張する。その時、後ろから来た女性が手を貸してくれた。少し支えてもらうだけで不思議に足が動く。信号が変わるまでに、無事交差点を渡る事が出来た。お礼を言ったが、その人はバスが来ていたので、あわてて走って行った。
 それから一月程、毎朝その交差点で手を貸してくれた。私の乗るバスはいつも同じだが予定通り走るとは限らない。混んでいる時は一〇分以上遅れることもある。それでも私がバス停から交差点に着く頃、「おはようございます」と現れて、手を貸してくれる。それは私が大丈夫ですと断るまで続いた。
 それからはその交差点で会うことはなかった。だけど一度だけ駅のバス停の近くで会った。その時も「交差点渡れますか」と聞いてくれた。私よりも年下だと思うが笑顔が素晴らしい女性だった。
 気軽に手を貸してくれた事で、渡れそうにない時は、待っている人に頼めるようになった。みんな親切に手を貸してくれる。優しい気持は誰でもあるのだと実感できた。

 19、会社勤めで知った優しさ 六 駅の売店のおばちゃん
 私の年代は漫画が好きだ。少年週刊誌が出た頃から読んでいる。何度か止めたが、勤め出してから電車が暇で又読み始めた。
 毎週水、木は駅の売店で買う。いつも同じおばちゃんの所だ。おばちゃんも二代目になったが二人とも最初から話しかけてくれた。最初はお互いの「ありがとう」からだ。顔馴染みになると「暑いね」「寒いね」「気をつけて」等一言、二言だが、何故かほっとする。
 親しくなるにつれて会話は多くなった。少しの会話でも気持はとてもなごんだ。私は指先の痺れで硬貨をうまく掴めない。だからお釣りを小銭入 れに入れるのも時間がかかる。見かねてお釣りを勘定しながら小銭入れに入れてくれる。ちょっとした気配りで、気持が豊かになる。
 私自身余り話す方ではないが、ありがとうだけはどんな場合でも言う。この一言で顔馴染みになれる。
 優しいおばちゃんはどちらも私より年輩だ。初代のおばちゃんは勤め初めてすぐに出会った。少し太っていていつも汗をかきながら早口でしゃべる。二代目は初代が辞めた後に来た。丸顔で初代より小さいが声は大きい。二人とも遠くからでもすぐ分かるほど元気一杯だった。そのおばちゃんがいない時もある。買っても何も言わない人もいる。ありがとうを言わない人はやはり親しくなりにくい。
 ありがとうだけでは親しくなれないかも知れないが、親しくなるきっかけにはなる。出会いを大切にしていつもありがとうだけは忘れないようにしたい。


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