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書に思う

向井俊博

 墨で描いた「海」という字が、大きな額の中で踊っていた。字と言うより絵である。筆の走りと形の面白さが、じわりと心に訴えてくる。招待状を頂いたとかで、かみさんのお供をして銀座の画廊で鑑賞に及んだ時のことである。

 たとえ訳の判らぬ書を前にしても、招待主の前で、これは素晴らしいとか美辞麗句を並べねばならぬのかと気重に出掛けたのだが、杞憂に終った。日常目にする漢字が、実に活き活きと、それも絵として語りかけてくるのだ。この筋の知識はないのだが、「墨象」という言葉があればぴったりだなあと感じながらの鑑賞となった。

 書というと、漢詩や和歌を筆にした、雄渾な墨書や流麗な仮名文字が思い浮かぶ。こういった作品に接しても、恥ずかしながら字が読めないので、判じ物を解くが如く懸命に読もうとする労力が生じてしまい、まず鑑賞にならない。

 人間の大脳は左脳が論理を、右脳が感情を司っていると言われている。書に接すると、私の場合はまず左脳を働かせてしまうのだろう。判読しようと頑張るだけでくたびれ果ててしまう。

 ところが墨象的な「海」の字には、読み疲れるどころか湧き上がる感情に元気が出てくるという、不思議な体験をした次第である。一瞬に読んでしまえるので、その後にゆっくりと右脳で字の美しさを鑑賞できるのだ。

 くたびれないので、「海」という言葉をキーワードに、記憶庫にしまい込まれているイメージ、それも目の前の字に触発されたものが湧き上がり、それが因になって更に心象が次々と広がっていく。字が絵になっているからこそ感動が深まるようだ。

 久しぶりにいい気分になって向こうを見ると、作品を書かれた著名な先生とかみさんが、書道の師匠に互いの共通項があるらしく、話し込んでいる。人に訴える字を書くには、基礎をしっかりマスターするだけでは駄目で、人生経験も積んでいかねば、とてもこういった作品を生み出せぬとか言われている。技術だけではないと言うことなのだろう。

 珍しく書に感動したこともあって、この道も深いものだなあという余韻が残っていたある日、新聞のコラムで書の道についての紹介を目にした。

 書の世界には、上達のために手本を写し取る「臨書」というのがあり、これには三つの修業段階があるという。形を写し取る「形臨」、手本の心まで写し取る「意臨」、手本を見ずに書く「背臨」というのがそれに当たるのだそうだ。 これに感ずるところがあって、ふと人生について思いを馳せた。先人の生き方を手本に、姿を写し取る「形臨」、そこに心まで読みとる「意臨」を心がけていく。更に手本を見ずして、自らの良き人生を作る「背臨」の域に達するよう努力を続ける。

 これはまさに人の生きる道、書の道を行くはさながら人生読本である。


 荻野君が主宰するこの「心の風景」誌が、ますます「意臨」触発の場となっていくことを願ってやまない。

(平成11年5月5日)

 

 


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